私事ながら、
信仰に疑問を持ちながらも、信仰を止められなかった時期があった。おかしいと思いながらも、信仰を止められないなんて、おかしな話である。
(ここでいう「信仰」は、「エル・カンターレ信仰」を指す)
なぜだろうと考えて気付いたことは、信仰が執着になっているのではないかということだった。
自分は、「エル・カンターレ」を信じていたつもりだったけれども、
実際には、「エル・カンターレ(大川隆法)は本物だとした、自分の判断」を信じていたのだった。
ざっくり言えば、おかしいと思いながらも止められない信仰の正体は、上に示した自分の判断に対する執着であった。
信仰を止めることは、エル・カンターレを本物だとした自分の判断は間違いだったと認めることに通ずるから、信仰に疑問を感じつつも、それを止められなかったのだった。
他の人の場合は、どうなのか、自分は知らない。ただ自分は、これに気付いたときに、信仰から自由になることができた。いわゆる〈初期肯定アンチ〉から脱して、〈初期から否定アンチ〉になることができたのだった。
「大川隆法は本物か、偽物か」という問いは、「自分の判断は正しかったか、間違っていたか」という問いに通じるから、しんどいものではある。けれどもこれは、脱マイコンのためには、避けては通れぬ道のように思う。