自燈明・法燈明の考察

日蓮を切っ掛けとして、仏教やこの世界に対する思索を始めました。

永遠の指導者―牧口常三郎会長考②

2020年04月30日 16時03分41秒 | 創価学会の歴史関係
 さて、先日につづいて牧口常三郎会長の事について、書いていきます。
 創価学会の原点ともいえる初代会長の事を、創価学会ではまともに教えていない。これはどうみても組織としてはおかしな話なのです。

 私が活動の一線から離れたのは十年以上も前の話。青年部の時には、それなりの立場にいましたので、活動から離れた時に、地元組織の中に様々な噂を提供したようで、幾人かの先輩が私の処にやってきました。先輩の多くは地元の区幹部とかでした。しかし中には活動から離れた先輩もいたのです。

 活動から離れた先輩も、離れた理由は私と同じ理由でしたが、その原因に対する視点が違っていました。先輩の殆どは「創価学会が人間を見なくなり、人間味がなくなった」と言い、その理由については「池田先生の御心を忘れた幹部ばかりになった」と嘆いていましたが、私は違いました。

 私が考えていた原因とは、そもそも創価学会の思想性に問題があり、池田先生と言ってもその思想の上で指導をしていた訳であって、創価学会の問題とは、そんな根の浅いものでは無い。そう思っていたのです。

 だから活動を離れた先輩とも距離を置きながら、様々な事を自分なりに調べ、ここまでやってきたのです。

◆大日本皇道立教会との関係
 最近になりネットでも多く取り上げられてきた事で、一部では認知されてきていますが、牧口会長は明治44年に設立された「大日本皇道立教会」という団体と関係していました。


※写真前列中央は秋月左都夫、後列左端は牧口氏、後列右から2人目は児玉誉士夫氏(戦後右翼のフィクサーと呼ばれた人物)

 この大日本皇道立教会の目的は「南朝を正統とし、その皇道に沿った教育を行う趣旨」として設立されたとされていますが、設立された明治44年には天皇暗殺を企てて幸徳伝次郎、菅野スガら十二名が処刑されるという事件が発生していました。(大逆事件)この事件の背景には室町時代にあった南北朝という事から天皇の正統性に対する問題がありました。首謀者の幸徳秋水が主張したのは「いまの天子は、南朝の天子を暗殺して三種の神器をうばいとった北朝の天子ではないか」という事で、この発言が法廷で為された事をキッカケに国定歴史教科書「南北朝正閏問題」がおこるに至ったと言われています。

 この教会と関係した当時、牧口氏は白金尋常小学校の校長を務めていた時代で、「人生地理学」の著作を通じて、新渡戸稲造や柳田邦夫、また国粋主義者の志賀氏との交流もあった様です。それらの人脈を通じて、教科書に関連する問題もあった事から、この教会に参加していたのではないでしょうか。

 この皇道立教会については、ネットでは創価学会の母体はこの教会という説も飛び交っていましたが、私はそれは無いと思います。確かに写真に写っている秋月氏も創価学会の設立に関与していますが、それだけで即、この組織が創価学会の源流と決めるのは聊か早計だと思います。

 ただこの大日本皇道立教会で得た人脈も、後の創価学会が関係する人脈(例えば戸田会長と岸総理の関係等)も出来たという事は、容易に想像する事が出来ます。(まあ戦後右翼のフィクサーもいましたけどね・・・・この教会には)

◆国柱会への接近
 先の皇道立教会との関係は大正時代の話ですが、同じく大正時代に牧口会長は国柱会にも接触を図っていました。実はこの辺りの牧口会長の行動の記録はあまり残っておらず、明確な事が解らない事も多いのですが、竹中労氏の「庶民列伝―牧口常三郎の生きた時代」によると、大正五年(1916年)に、田中智学氏の講義を聴講するために国柱会館に通ったという記載がありました。

 この国柱会は、大正時代から昭和初期(戦前)にかけて、活発に活動をしていました。国柱会の会長の田中智学氏は、もともと身延派日蓮宗の僧侶だったのですが、出家の立場では限界を感じ、還俗して在家という立場になり、在家により日蓮宗の伝統的な宗門を改革する事を目指して設立した団体でした。団体の目的は、分派した各法華宗・日蓮宗宗派の統一、更には法華一乗のもと全宗派、全宗教の統一(一天四海皆帰妙法)のための宗教革命、ならびに皇祖皇宗の日本国体を法華経のもとに体系化することでした。

 最近では自民党の三原じゅん子参議院議員が「八紘一宇」という言葉を国会で述べて、議論を呼びましたが、その言葉も田中智学氏の言葉です。

 この国柱会には著名な会員が居ました。代表的なところでは宮沢賢治(詩人)、近衛篤麿(政治家で近衛文麿の父)、石原莞爾(陸軍軍人)、北原白秋夫人です。
 牧口会長は「人生地理学」という事を研究していましたが、これは地政学的な内容で、国土とそこに住む人々というものが研究対象とした学問でした。日蓮は「立正安国論」で、同じく国土とそこに住む人について論じていますが、牧口氏はそういう日蓮に興味を持ち、日蓮の仏教に接近したとも言われています。

◆三谷素啓氏との出会い
 牧口氏が日蓮正宗に入信したのは昭和4年(1929年)、三谷素啓氏という人物から折伏されて入信したと言います。この三谷氏は常在寺に所属する「大石講」の幹部だと言われています。この事については、評論家の平野計氏によると、以下の様だと言うのです。

「三谷氏の日蓮正宗教学の理解は日蓮正宗の主流派の教義解釈と違って、明治初年に日蓮正宗の中でおこった有力な異端的在家運動である完器講の系統といわれる。」

 この三谷素啓氏については、作家の柳田国夫氏が「故郷七十年」と題する文の中で、以下の様に触れています。

「富士山の麓にいくつか日蓮宗の寺があるが、牧口君はそのうちの本門寺というのに参り出した。その原因として三谷という一人の面白い人物が介在していた。
どうも正体の判らない変った人物で、盛んに嘘をついた。
ところがいくつかの珍しい妙薬をもっていて、大して大きくない塗り薬とか、煎じ薬とかであったが、それが不思議に良く効いた。
それで私はいつか聞きに行ったことがある。
貴方どうしてそんなにたくさんいろんな薬の秘密を知っているかといったところ、やはり嘘の返辞をした。

 シナの牛荘(ニュウチャン)から何十里とか何百里とか入った所に旧いお寺があって、いろんな珍しい物が伝わっているのみならず、大変な書物をもっていた。

そんないかにも私の喜びそうな話をしてから、三谷はそこにしばらくいて、そこで覚えて来たというのだが、聞いているうちにでたらめが判るような話ばかりであった。
それが本門寺の信徒だったわけである。
 牧口君とは早くから知り合っていた間柄らしく、牧口が私に『一度三谷君に会って御覧なさい、三谷君の所に面白い薬がありますよ』といって紹介してくれたのが最初であった。私もその薬の恩恵だけは受けているが、その成分は少しも知らせてくれなかった。その男が牧口君を仏教の方へ導いていった。」

 この柳田国夫氏の文によれば、牧口会長は「本門寺」を訪れた事になっていますが、これは「北山本門寺」の事であり、大石寺の系統ではありません。この事について、先に引用したブログの管理人の大木氏は以下の様に書いています。

「35年ほど前にこの文章を初めて読んだときは柳田の勘違いかと思ったのだが、その後、昭和51年に、北山本門寺の僧侶、故・早川達道師に聞いた話では、牧口は昭和2年ころに何度か北山本門寺を訪れている。
創価教育と日蓮について自説をいろいろと話して、
「本門寺の信徒になりたいといったが、あなたの考えは日蓮聖人の教えとは違う、といって帰ってもらった」
ということであった。」

 つまるところ、牧口氏の持論は北山本門寺には受け入れられなかったという事であり、後に常在寺信徒となり、そこで大石寺のもとで創価教育学会を設立したものという事なのでしょう。

 こういった牧口初代会長の歴史を知る人は、創価学会の活動家の中には一人もいないでしょうね。それは即ち自分達の根源を知らないという事なのです。

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胸中の肉団にある御本尊

2020年04月30日 08時20分58秒 | 日蓮仏法再考
 STAY HOME
 GWになりましたが、ひたすら家で大人しくする、これが今年のスタイルとなっています。近所のスーパーも家族で一人だけ来店して下さいとなっていたり、子供達の入学も9月からという意見も出ていたり。やはり新コロナウイルスの流行は、この世界の様々な形を変えてしまうのかもしれませんね。

 さて今回は日蓮の認めた文字曼荼羅(御本尊)について少し書いてみます。

 創価学会でいま配布(授与)しているのは栃木県浄圓寺所蔵だった、堅樹院日寛師の本尊です。以前は阿部日顕師の文字曼荼羅か、細井日達師の文字曼荼羅。一部は顕樹院日寛師(浄圓寺とは別モノ)のモノでした。

 第二次宗門問題以降に、創価学会では「第六天魔王の日顕が書写したものは無くす」「気持ち悪いだろう」「だから正師の日寛師の御本尊を授与する」と、既に文字曼荼羅を持っている世帯についても「お取り替え(交換)」を進めたのです。当時の私は男子部で本部長でしたが、この御本尊お取替えで末端組織は静かに混乱をしていました。それは、今までの主張していた創価学会の本尊観と、やろうとしているお取り替えの理屈が合わないからでした。
 当時の私は「あくまでも希望者に限る事で、拒否する人に対しては無理に替えなくても良い」としていましたが、区や県からは常に「今週の交換数を報告しろ」とか「どんどん進めろ!日顕の御本尊なんて気持ち悪いだろう!」という方針でした。

 今から考えたら、とても馬鹿らしい事ですが、要は文字曼荼羅(御本尊)の意義とか本義を理解できていない幹部が多かったという事、そして創価学会の会員にもそういう人が多く居たという事です。この事については大石寺信徒についても同じなんだろうと思いますね。



 日蓮が文字曼荼羅について書いている御書に「如来滅後五五百歳始観心本尊抄」と「日女御前御返事」があります。文字曼荼羅の意義や相藐については観心本尊抄にありますが、意義について解りやすい言葉は日女御前御返事にあります。

「此の御本尊全く余所に求る事なかれ只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり、是を九識心王真如の都とは申すなり」
(日女御前御返事)

 この日女御前御返事に書かれているのは「この御本尊を余所(自分より他の場所)」にあると思ってはならないというのです。いまある文字曼荼羅の議論の多くは「偽本尊」とか「本モノの本尊」という事で、創価学会が授与している文字曼荼羅の真偽の議論ばかりで、これは当に「余所にある」という事の議論なので、もうこの時点で日蓮の考えている文字曼荼羅の話とは異なっているのです。

 では日蓮が考えた御本尊とはどこにあるのか、それは「私達が法華経を持って御題目を唱える人の胸の中、この体の中に居る」と言っています。つまり自身の中に、この日蓮の顕した文字曼荼羅(御本尊)はあるのだと言うのです。そしてこの文字曼荼羅は何を表しているのか、という事ですが、それは「九識心王真如の都」というものなんだと言うのです。

 この部分を読むと、日蓮が文字曼荼羅で顕したのは、一人ひとりの心の中にある「九識心王真如の都」の姿である事が解ります。つまり日蓮も己心の中にあるものを書き写したという事であって、その姿を「模写」したものなんです。だから現存する124体の文字曼荼羅の相藐も、年代や時期によって変化をしているという事なのでしょう。

 宗門では「御法主上人猊下様のご内証を書き写した」と言っていますが、結局「御内証」とは言っても、後代の貫首が日蓮の文字曼荼羅を理解した内容で、要は日蓮が「模写」したものの「模写」をしているという事なのです。

 御義口伝(上)には以下の御文があります。

「故に知ぬ南無妙法蓮華経は一心の方便なり妙法蓮華経は九識なり十界は八識已下なり心を留めて之を案ず可し」

 法華経では虚空会として表現されていましたが、それを「九識」の姿と日蓮が理解していたという事が、この文言で理解できますが、この「九識」とは万人に具わるものであると考えるべきであり、けして「題目を唱える」とか「文字曼荼羅を受持する」という事で差が在る訳ではないのです。簡単に言えば、イスラム教徒の中にもありますし、パプアニューギニアのジャングル奥地で原始生活をしている人の心の中にも、当然具わっています。

 日蓮が法華経の中にあった虚空会を、自身の中でどの様に体得したのか、そこは解りません。ただ日蓮は鎌倉時代の日本の仏教僧で、法華経を信じるという立場から文字曼荼羅としてこの九識を表現したのが、この文字曼荼羅です。人が何かを表現するという事を考えた場合、その人も持つ経験や文化的な背景に基づいた記憶等から、認識や体得したものは表現されます。

 これは一つの仮定ですが、キリスト教文化を持つ人が、この自分の心の中にある「九識心王真如の都」を体得し、図で表現したら、どの様な表現をするのでしょうか。

 恐らく「神の姿」とか「光り輝く存在」とか、場合によっては「天使」という言葉を使ったのかもしれません。

 この様な事を、つらつらと考えてみた場合、日蓮の文字曼荼羅のみ執着し、そこに「本物だ」とか「ニセモノだ」なんて議論をしている事自体が、とてもくだらない議論に私は思えてしまいます。ましてやそんな文字曼荼羅という「紙片」によって、人生の幸不幸が関係しているという認識も、どうなんでしょうかね。

 あくまでも一人ひとりの内面の中にある「心象世界」をどの様に理解し、その「心象世界」と、日々生活する現実世界がどの様にリンクしているのか。そしてそれが人生でどの様な意味があるのか、本当はそういう処に目を凝らさなければならないのではないか。

 私は日蓮の文字曼荼羅(御本尊)の議論を見るたびに、そんな事を考えていたりします。


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永遠の指導者―牧口常三郎会長考①

2020年04月28日 10時17分44秒 | 創価学会の歴史関係
 さて、安倍総理の自信施策であった「安倍のマスク」ですが、昨日になり、何やらきな臭い話が出てきましたね。


 この話題では、Googleマップのストリートビューの画像も直ぐに取り上げられ、その会社の窓には公明党のポスターが貼られていました。まあ何やら怪しげできな臭い話なのですが、この新コロナウィルスの騒動の中で、この真相は風化しもみ消されてしまうのかもしれません。

 「政治を監視せよ!」という言葉を金科玉条の様に言いながら、実際の政治には一切監視する思考が出来ない。これは「ダブル・スタンダード」な精神構造を現わしていますが、何故、創価学会の活動家になると、この様なダブルスタンダードの思考を普通にしてしまうのか、そこには創価学会の持つ組織的な思想の問題点の影響があるのです。

 今回はその問題点の一つである、「永遠の指導者の問題」について少し書いてみたいと思います。

 かつて創価学会の第二代会長の戸田城聖氏は「青年は政治を監視せよ!」と厳命しましたが、今の創価学会の現場活動家の中で、本当に政治を監視する人間がどれだけいるのでしょうか。今の創価学会にとって、公明党は信仰する上で重要な「ツール」です。そこにもし何かしらの不具合があれば彼らの信仰活動にとって重大な影響を与えるのは必定で、その為に多くの創価学会の活動家は「心理的な合理化」という人の心の働きのため、こういった問題には無意識に目を瞑ってしまうのでしょう。

1.永遠の指導者
 創価学会では2002年3月28日に会則を変更し、以下の前文を新設しました。

「『三代会長』に貫かれる師弟不二の精神と広宣流布実現への死身弘法の実戦こそ『学会精神』であり、永遠の規範である」

 つまり初代から三代までの会長の精神こそ創価学会の永遠の規範であり、この創価学会の初代から三代会長の3名は「永遠の指導者」であると言うのです。まあ宗教団体として「永遠の指導者」を制定する事を、ここでとやかく言う事はしません。何故ならそれは組織としての自由裁量の範疇ですから。ただ問題は「創価学会ではこの永遠の指導者の歴史を会員に教えていない」という事です。

◆初代、牧口会長について
 創価学会では牧口会長の姿について「牧口先生は、日本人の島国根性を痛烈に批判。日露戦争を目前にした国威高揚の時代にあって、「十五億万の一世界民たることを自覚する」と、世界市民を志向していました。そして、世界は「軍事的競争」「政治的競争」「経済的競争」の時代から「人道的競争」の時代へと移らねばならないと訴えました。」(引用元:SOKAnet 初代会長 牧口常三郎先生)と述べていて、牧口会長は世界的な視野に立った人道主義者だと教えています。



 確かに牧口会長の人間性は大人物としてのものを具えていたと思います。しかし創価学会が教える牧口会長観には重要な視点が抜けています。それは彼の人も「明治時代を生きた人」であり、けして現代の観点の「人道主義者」では無いという事です。具体的な例として、今回は牧口会長が関与した「赤化青年の完全転向」について紹介します。

・長野赤化教員事件
 この事件についての関与を、牧口会長は当時の創価教育学会の機関紙「新教」の1935年12月号に、「全国数万の赤化青年転向指導のために」として寄稿していたのです。

 この事件とは1933年(昭和8年)2月4日から半年あまりの期間、長野県で多数の学校教員が「治安維持法違反」で検挙された事件で、弾圧の対象となったのは日本共産党、日本共産青年同盟、日本プロレタリア文化連盟関係の団体や、労働組合、農民組合など広範に及びました。特に日本労働組合全国協議会(全協)や信仰教育同盟準備会の参加にあった教員組合員への弾圧は大規模であり、全検挙者数608名のうち、230名が教員だったのです。

 牧口会長はこの事件への関与について「新教」で述べています。

「赤化事件に関係した禍によって郷里の教育家からいつまでも疑ひの目を以て見られ、悲惨な生活を送って居る在京者の四君が不思議な因縁によって本会の正会員となり、半歳余り創価教育学の科学的研究から、遂に宗教革命にまで徹底した結果、茲に完全なる転向が出来、明朗勇敢なる生活に復帰したことを赤裸々に郷党に報告して謝罪すると共に同境遇に苦悩しつゝある百余名に光明を与へんとする目的を以て、それらの四名と共に余は某県に旅行して左の如き講演をして帰京した。」

 要はこの長野赤化事件に牧口会長が関与した事で、ここでは四名の青年が共産主義から転向、創価教育学会に入会したというのです。ここでは四名となっていますが、創価大学の「宮田幸一のホームページ」を見ると、具体的には以下の6名がこの事件の関係から入会した様なのです。

 ●矢島周平
(創価教育学会幹事)
 ●渋谷信義
(創価教育学会『新教』編集部)
 ●小林済
(創価教育学会『新教』編集部)
 ●土岐雅美
(創価教育学会研究員)
 ●石沢泰治
(創価教育学会研究員)
 ●高地虎雄
(創価教育学会研究員)

 ここの筆頭にある「矢島周平氏」は、人間革命に名前を変えて登場している人物で、戸田会長が理事長を退いた時に、理事長に就いた人物で、後に宗門へと転向しています。ちなみに創価学会ではこの矢島氏についての詳細も、会員には当然、一切教えていません。

 さて、かれら共産主義に傾倒した青年達を、牧口会長はどの様に転向させたのか、その事について創価学会の資料には以下の様に書かれていました。

「その矢島は昭和10年の正月、親友に連れられ、牧口常三郎と会った。
『私は法華経の修行者で。もしマルクス主義が勝ったら、私は君の弟子となろう。もし法華経が勝ったら、君は私の弟子となって、世のために尽くすのだ』
 矢島は度肝を抜かれ、3日とおかず牧口宅を訪ねる。
 3カ月ほど続いたころ『恐れ入りました。長い間ありがとう存じました』。
 帰ろうとする矢島を『待ちなさい。初対面の時の約束を、よもや忘れはしないだろうね』と牧口は制した。
 矢島は学会員となった。
 それから間もない日、牧口は警視庁の労働課長と内務省の警備局長のもとへ彼を連れて行った。
 共産思想から転向したことを伝えてから念を押した。
『ご安心ください。今後、矢島君は、法華経の信仰に励み、国家有為の青年となります』」

 長野赤化事件は昭和八年に勃発しました。ここではその渦中の人物であった矢島周平氏が牧口会長に面談したのが昭和十年となっています。彼は昭和8年2月17日に検挙され、7月31日に退職となっています。その後昭和十年に渋谷信義氏に連れられ、牧口常三郎に面会し折伏され、それから三か月ほど後に創価教育学会に入会したといいます。そして牧口常三郎は、その矢島氏を警視庁の労働課長、また内務省の警備局長の下に連れていき、彼が立派に共産主義から転向した事を伝えたのです。

 新教では「某県」と書かれていますが、それは長野県の事であると容易に推測できます。また「同境遇に苦悩しつゝある百余名に光明を与へんとする目的を以て」とありますが、これは恐らく赤化事件で検挙された仲間たちを折伏へと行った事でしょう。この事について、新教ではこの文書の後段で以下の様に述べている。

「吾々は先づ内務省警保局、警視庁労働課長等を数回訪問、関係教育家等と懇談して少からず感動を与へ、内務省より郷里の警察部へ特別電話までかけて貰ったこととて、万事に都合よく完全に予定の目的を達したものである」

 つまり牧口会長はこの長野赤化教員事件への関わりは、矢島周平氏との出会いを切っ掛けとして始まったという事、またそこでは当時の内務省や警察庁の協力を得ていたというのです。また牧口会長は警視庁労働課に訪問した際、完全なる転向(共産主義からの転向)について話し合った事を述べているのですが、そこで「三か条」として転向で求められる事を挙げています。

一、皇室中心の国体観念と合致し、虚妄なる観念論的日本精神でなくて充実したるそれたる事。

二、あくまで合法的手段の生活をなすこと。

また「これだけならば気の抜けたビールのやうなもので、毒にはならぬが、薬にもならぬといふ非社会的の個人主義で、教育者としては最劣等級のものといはねばなるまい。」として、次の一つを加えて論じています。

三、自己一身を衛れば足るといふ消極的の個人主義の生活を脱し、積極的に社会の指導に任ずるといふ愛国心に燃える事。

 ここでは自己の一身を守るというだけではなく、積極的に社会の指導に任ずるという「愛国心」を持たなければならないと言い、この「愛国」とは前段にある明治時代から続く皇室を中心とした日本国体概念を持つ日本社会ということを言います。

 そしてここで「皇室中心の国体観念」と「愛国心」を述べ、それを持たせる為に、創価教育学会の信仰があると述べているのです。

 この考え方は、ある意味で明治時代の人間では当然の概念であり、牧口会長の当時の考え方も、その社会の概念の上にあったというのが、この事から解ります。だから現代流の「人道主義者」という事だけで、牧口会長を語る事は難しいと私は思うのです。

 また興味深いのが、牧口会長は後に神札を受けず、軍部政府の思想統制に反対し、治安維持法により検挙・投獄され、獄死をしましたが、昭和初期の牧口会長は、同じ治安維持法で弾圧されている共産党の党員をオルグする為に、内務省や警察庁と協調した行動を取っていたのです。これについても、今の創価学会では一切、会員には教えていない歴史なのです。

 こういった創価学会の歴史の奥深くにある「ダブル・スタンダード」の概念が、今の創価学会の活動家達の思想のベースになっていると、私は考えているのです。だから創価学会の「本当の姿」を理解するためには、そういった歴史についても、まずは理解する必要があるのではないでしょうか。


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WHOの予測に添えて考える事

2020年04月26日 10時27分52秒 | 思う事
 今日は風が強いですが、いい天気なので散歩してます。しかし近所にある小川沿いの散歩道は結構人が出てますね。やはり人間というのは閉じ籠る事が苦手な種族なのかもしれません。



 今朝がだこの記事を読みました。通常、ウイルス性の疾患の場合、抗体を獲得する事か一つの対応策で、その為にワクチンが出来れば、そういった伝染病を抑える事か出来るのでしょう。
 でも今回の武漢肺炎(新コロナウイルス)では、その前提が成り立たないという事がWHOの出している警告なのかもしれません。その場合、ワクチンも有効な対策とはならず、結果、人類はいまある「風邪」と同じレベルで、この新コロナウイルスと、これからも付き合わなければならないと言う事になるのではありませんか?

 この警告がそういう事であれば、いま世界中が行っている「都市のロックダウン」とか、日本国内で言っている「STAY HOME」という事も、一時的な対処にしかならず、人類は遠からずこと新コロナウイルスと、どの様に共存を図るのかを考える覚悟をしなければならない時か来るように思えるのですが、如何でしょうか。

 ご存知の様に新コロナウイルスの感染症では、免疫力の低下している人は、重症化しやすく、しかも死亡率が高くなります。たたこれも確率論に過ぎす、若く年齢問わずに感染し、重症化するリスクは誰でもあり、絶対的な年齢による差別はありません。
 また重症化も、まるで坂を転げ落ちるように突然重症化し、言葉は悪いのですが、あっけなく亡くなってしまうケースもあります。

 また私が個人的に懸念しているのは、アフリカ諸国の多くにある様な貧困国への感染拡大です。そこでは医療機関は少なく、結果、感染したら爆発的な勢いで広がり、多数の人達が亡くなってしまうかもしれません。今の人類の人口動態は先進国では少子高齢化となっていますが、後進国では出生率は高い傾向にあります。要は貧困層ほど多産という形とも言えるのではないかと。そして今回の新コロナウイルスは、その様な国に対して甚大な被害を及ぼすと思うのです。

 ある意味で「貧困層削減の為のウイルス」という様な見え方もしなくはありません。ごめんなさい、これはあくまでも私の私見です。

 さて、世界的にこの新コロナウイルス感染拡大防止の為に、経済活動を下げても人の動きを抑制しているのですが、この様にウイルス抗体が獲得出来るのか不透明という状況となれば、当然、かなり長期に渡り人々の行動を抑え込み、ひたすら感染終息を待つしかないのですが、恐らくそればかりだと今の経済構造では、持ちこたえる事は不可能だと思います。この人が交じり合うという事の抑止行動を長期化した場合、おそらく再起不能となる業種も多く発生し、経済は崩壊してしまうのではありませんか?

 そして過去の人類史では、経済が崩壊した場合には戦争が起きる事が多くありましたが、もしかしたらこの先、人類は自滅的な戦争へと駆り立てられてしまう可能性すら、ある様に思えてならないのです。

 一部では消極的な感染により、人類に免疫を取得して乗り越えようという考え方もありましたが、どうもそれでは乗り越える事も難しそうです。また感染拡大を抑え込む為に、とにかく嵐の過ぎ去るのを待つという姿勢でも、やはりこの先、感染拡大を防ぐ事が出来ないとした場合、人類社会はどの様に対処したら良いのでしょうか。

 実は今回のパンデミックとは、そういった切っ先を、人類に突き付けてきている様に思えてしまいます。



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人間五十年

2020年04月25日 11時00分31秒 | 思う事
 今日は午前中、通院で近所のクリニックに来ています。これは創価学会の青年部時代、メチャクチャな生活をしていたので、壮年部と呼ばれる四十代初めには生活習慣病を発症してしまい、もう十年ほど通っています。

 外に出ると人類社会のパンデミックなんて関係ない様ないい陽気で、小川にはカモが泳ぎ、日差しはとても気持ちが良いのです。

 今回の武漢肺炎は、人と人との関係性や、仕事や社会という事について、様々な事を考えさせられる出来事(感染症)ですね。恐らくパンデミックが終わった後の人類社会は、大きな変化を伴うのではないかと想像してしまいます。

 大きな変化とは、良い事も悪いことも含めて、従来の通念や価値観が通じなくなる事が多くなるという事です。

 まったく私は、すんげー時代に生まれて来てしまったもんだと実感しています。

 さて今日のお題ですが、いまNHKの大河ドラマでは「麒麟がくる」をやってます。
 長谷川博己演じる明智光秀や、本木雅弘演じる斉藤道三も良いですが、染谷将太演じる織田信長は斬新ですね。今までとはまた違う信長像を演じていますが、あの一見気弱な感じも見えながら、実はその奥底にとても恐ろしげな雰囲気をみごと演じているのには、正直、驚きました。

 歴史を見ると、この織田信長は平家物語の「敦盛」を好んでいたようですね。

「人間五十年 下天のうちをくらぶれば 夢幻の如くなりひとたび生を享け 滅せぬもののあるべきか」

 信長が生きた時代、人はだいたい五十歳前後で人生を終えていたようです。たまに長生きをする人も居た様ですが、戦乱の時代でもあり、医療もそれほど進んでいなかった時代なので、そのあたりだったのでしょう。

 いまの時代、日本人の平均寿命は84.10歳(世界銀行の情報参照)なので、信長の時代と比べて30年以上延びている事になります。しかし30年延びたとして、その人生の質はどうかと言うと、それほど変わっていないのではないでしょうか。ある見方をすれば、人生の質で下がっている事があるのかもしれません。

 若い時代。そうですね、10代から30代にかけて、あまりこんな事を真剣に考える事はありませんでしたが、50代になってくると、様々な事を考えてしまいます。

 人生とはいくら時間が延びたと言っても、それは無限に延びたという事ではなく、やはりそこには限りがあります。また同じ時代を生きていく友人や家族とも、共に過ごせる時間も同様ですし、「一期一会」といって、この友人と家族との関係性は、永遠に続く事は無いのです。

 この人生は何のために生まれてきたのか。
 どの様な経験を、この人生で得ていくのか。
 死んだ後、どの様に自分はこの人生の事を感じるのか。

 やはりこの人生、大事に丁寧に生きていく必要がありますね。そしてそれはけして人まねの間隔ではなく、自分自身の心を軸とした感覚で感じる必要があります。

 さてさて、今日もできる事に取り組んでいきましょう。


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