法華経についての考察は一旦、置いておき、ここからは私の現段階において考えてる事や感じている事について書いていきたいと思います。
人生も半世紀生きてきた中で、私は様々な事を教えてもらい、考えながら生きてきました。教えられた事の中には、創価学会の中で教えられた事もあり、その中には今の創価学会では言われなくなった事、また異端となってしまった事もあります。しかしそれらの事は、今の私を形作る基礎となっていたり、一部は思考の断捨離ではありますが捨て去った事もあります。
またそれ以外にも、読書の中で知り得たこと、他の人から教わった事も数多くありますが、それらについて、文字としてここで起こしておく事も、大事な事だと考えたりしますので、すこしここで書いていきます。
◆コミュニケーションについて
創価学会(というか日蓮正宗も)がよく言う言葉に「文証」というのがあります。これは宗教の正しさを証明するエビデンス(証跡)のうちで、文献的な証明を言います。そしてこの文証とは、仏教の中にある数多の論や釈と言った、要はお釈迦様以外(創価学会や宗門では日蓮も入れますが)の人の論文や解釈の文献も含みますが、それらも経典の裏打ち論理が必要になります。
要は仏様以外の言葉よりも、仏様の説いた経典(創価学会や宗門では御書も含む)が当然重要であり、その経典(御書)の裏付けの論拠が無い限り、それは論文や解釈は「黒論(地獄の論)」と言って、それは証明の役には立たないと退けます。
そしてこの文証を元に、その理論的な整合性(理証)や、実践した結果(現証)により、その宗教は「正しい」という展開になります。
よくネット等で宗教に関して言い争いになる事が、創価学会や宗門相手で起きる事がありますが、その際に経典や御書の文言をひけらかし、相手を追い詰めるという傾向性が創価学会や日蓮正宗の人達に強いのは、こういった「正義の証明」というのが、彼らの信仰にはとても重要だからなんですね。「文証出せ!」「文証出せ!」とね。
ただこういう場合で出し合う文献というのは、得てして自分達の宗派や組織が正義だと論理的に言いたい為に出し合うモノであって、その大本の文書の語りたかった事や、そこにあった本来の意義というのは結構軽視され、「切り文」と言って一部分だけ切り取って利用しているケースが殆どです。
そんな事なので、私自身はこの様な言い争い(対論と呼んでますが)は、何も意味が無い事だと考えるに至りました。
さてここまで少し説明しましたが、仏教において経典というのは、当たり前の事ですが重要視をされています。要は釈迦の言葉が仏教の基本という事ですが、その釈迦の言葉というのが経典という事になっているのです。ただし釈迦の言葉というのは、果たして経典で伝えきられているのでしょうか。
釈迦の言葉が一番最初にまとめられたのは「第一回経典結集」という運動でした。これは釈迦滅後に弟子の迦葉尊者が中心となって、王舎城に阿羅漢500人が集まり、弟子の阿難尊者や優波離尊者も加わって経典と戒律を集めたと言います。そししてこの集められた経典や戒律は口承で伝えられました。
当時のインドにも文字はあったそうですが、何故口承として伝える事にしたのでしょうか。本来、文字があればその方が正確に伝承出来ると考えても良いはずです。少し前には釈迦在世には文字が無かったと言われた事もありましたが、最近では文字があったという事が確認されています。
そこを敢えて何故、口承としたのか。
そこにはインドの文化と「伝承」に対する考え方があったようです。要は口承の方がより正確に伝承できるというのです。
なる程、文字や文書というのは、人に情報を正確に伝達するには、優れた媒体でしょう。しかし文字が故に正確に伝えられない事と言うのもあるのでは無いでしょうか。
例えば貴方が見た夢を、文字だけで人に伝えるとしたら、どれだけ正確に伝える事ができるのでしょうか。そこを想像して頂ければこの事はご理解頂けると重います。
口承であれば、その言葉を暗誦するまでの間、否が応でも、教える側と教えられる側との間で、密接なコミュニケーションが必要となります。そのコミュニケーションにより、文字で伝える事以外の物事についても、そこで伝承する事が出来るでしょう。
よく「口伝に依るべからず」という事を言われますが、口承による伝承の方が、場合に依ってはより真意を伝える事が出来る場合もあるのです。
しかし一方で、口承とは人の主観も入り込みやすいという問題点もあるので、どこまで正確に伝承されるのか、完全なものというにも大いに疑問な事もあるでしょう。
迦葉と釈迦の間に「拈華微笑(ねんげみしょう)」という伝説があります。
これは釈迦が弟子に説法しているとき、一本の花をひねって見せたが、弟子たちはその意味を理解できず沈黙していた。ただ一人、迦葉だけが悟ってにっこりと笑った。釈迦は、迦葉が言葉で表せない仏教の奥義を理解できる者として、彼に仏法の奥義を授けたという説話から来ています。
こういった事柄をつらつら考えてみると、伝える側と伝えられる側には、コミュニケーションとして文字以外の要素も必要ではないかと私は思うのです。そこから考えると「経巻相承」という言葉がありますが、単に経典に書かれている文字を読誦とか、暗記とかだけでは、その真意を受け取る事は難しいのではないでしょうか。
◆伝承で重要な事
このコミュニケーションで重要な事は二点あると思います。本来であれば、人の脳に何かしらのインターフェースを設けて、例えば今流で言えば光ファイバーで情報を互いに伝達できるのであれば、今よりもスムーズに物事を伝承する事が出来ます。
しかし人間が他者とのコミュニケーションをとる事方法は、基本は言葉だけです。言葉とは「文字」を発音しただけのもので、コミュニケーション媒体としては文字と同様に貧弱なものです。しかしこの貧弱な媒体により、人は互いに意思疎通を行い、物事を伝えていかなければなりません。そこで重要となる事は二点あると思います。
一点目は情報を伝える側のボキャブラリー(語彙)と、表現力です。自分が伝えたい事柄を如何に言葉で表現できるのか、そしてその為に必要な語彙をどれだけ持っているのか、そこの能力が問われてきます。
二点目はそれを受け取る側の感受性と、前提となる知識でしょう。要は教えを受け取る側でも、その前提となる知識があってこそ、情報をより正確に受け取る事が出来るのであって、そこの知識と感受性を併せ持っていないと、当然、間違った情報として受け取り、結果として伝承内容は歪曲されたものとなってしまいます。
◆創価学会の限界
この様な事を、私は創価学会の活動を止めてから考えたのですが、そこから考えると創価学会で学んだ事が、どれだけ仏教の本意に沿っているのかという事が、はなはだ懐疑的になりました。
思うに法華経を広宣流布しようという事であれば、単に活動重視で可能な事ではなく、教える側も教えられる側も、不断の取り組みがあって可能となる事であり、その取り組みの上で、常に互いに活発な議論の中で、法華経の事を考えていかねばならないと思うのですが、そういった行動は創価学会の中にはありません。またここで創価学会の事のみ、指摘をしていますが、これは当然、日蓮正宗やその他、自分達の教団の正統性を主張する日蓮系の教団でも同様な事があるのではないでしょうか。
(続く)