自燈明・法燈明の考察

人生についての考察(2)

 武漢肺炎の猛威は世界を覆っています。
 この世界は今後、どの様に進んでいくのか、そこはまさに「神のみぞ知る」という事になると思いますが、過去の歴史を紐解けば、永遠に続く感染症というのはありません。問題は、この感染症が終息した後の世界はどの様な世界になっているのか、そしてそこで日本はどの様な立ち位置にあるのか。

 そこだと私は考えています。

◆人は何故生まれるのか
 この命題は、過去から様々語られている事ですが、この回答は人類社会の中で未だに明確に出ていません。でもこの事ついては、恐らくこの先でも答えなんて出てこないでしょう。
 「人はどこからきて、どこへ行くのか。そして何故生まれて来るのか」
 この回答は、恐らく社会の中というよりも、社会の中で生きる一人ひとりの胸の中にしか存在しえないと思うのです。

 私自身はどうなのか。私は日蓮の教えを信じてきた事もあるので、この事について日蓮の教えがベースとなっています。

 創価学会でよく言う事は、法華経如来寿量品の自我偈には「衆生所遊楽」という言葉があるのだから、この世界には「楽しみ」に生まれてきたのだという言葉です。まあこれは創価学会の中で教えられた事です。
 そしてこの「遊楽」とは楽しい事もそうですが、苦しい事も旺盛な生命力で「楽しみ」に変えられる事が出来る事を含んでいると言うのですが、実際に経文を見ると、そのような事を述べているの訳ではありません。

 自我偈で言われているのは、久遠の釈迦が住む処の事を言っていて、人々が苦悩の炎にむせび泣いていても、私の住む場所は安穏であり、常に天人が沢山いて、衆生は遊楽する処だと述べているのです。

 この「衆生所遊楽」から、日蓮はこの世界に生まれる目的を「自受法楽」と解釈し、「自ら法楽を受ける」為に、この世界に生まれてきたと考えていた様です。この事は門下の四条金吾に与えられた御書で述べられています。

「苦をば苦とさとり楽をば楽とひらき苦楽ともに思い合せて南無妙法蓮華経とうちとなへゐさせ給へ、これあに自受法楽にあらずや」
(四条金吾殿御返事)

 この御文を見る限り、「旺盛な生命力で乗り越える」という事を語っているわけではなく、苦しい事は逃げず、苦しい本質を理解し(苦と悟り)、楽しい事は楽しいと素直に共有し(楽と開き)、お題目を唱えていく事こそが「自受法楽」何だと語っているのです。

 実は昨今言われてるニューエイジの中では「この人生は学びの為に生まれて来た」と語るものがあったり、「苦しいことも悲しいことも経験で、そういう経験を通して魂の成長をする為に生まれて来た」という話が多くあります。
 私は、先の日蓮の言葉も、近年云われているこの様な言葉も、大元では同じ事を指向していると考えています。

 つまり人生とは、様々な事を経験し、それらを通してより自分の心を豊かにする為に生まれて来たという事だと考えているのです。

◆宿業(カルマ)について
 さて、私達が生きるこの世界に、私達は様々な事を経験する為に生まれて来たと言っても、日々の生活の中で、様々な苦悩がある事は何ら変わる事はありません。

 よく仏法とは「因果の理法」であり、人が苦悩するのは過去世においての行いによる「宿業(カルマ)」がある為で、そのカルマが結果として現れ、人はその報いとして様々な苦悩を受けると言います。
 創価学会や日蓮正宗では、こういう宿業を日蓮の文字曼荼羅にお題目を唱える事で「転重軽受(重いことを転じて軽く受ける)」出来ると語っていて、「宿命転換」という言葉を使っています。(人間革命と言っている人もいます)

 しかしこの「宿業」という考え方の大本は、釈迦在世にあったバラモン教に起源があると言われています。このバラモン教(現在ではヒンズー教となっています)では、カーストが定められていますが、その細かい差別の根底にあるのも、この宿業論であると言われています。

 そこから考えると、果たして仏教の開祖である釈迦は、この宿業論を肯定していたのでしょうか。要は人間とは過去世(記憶にすらない)の行いによって、現世で縛られる存在だという事を、この宿業論では肯定してしまう事になってしまいます。

 この宿業論について、仏法では「願兼於業」という考え方があります。これは菩薩は本来、宿業を持たないのですが、法を弘める為に敢えて宿業を自ら作り願って生まれて来ると言うものです。

 じつは欧米で臨死体験や中間世を研究している、臨床精神科医のJ.L.ホイットン氏は、自身が今まで診てきた多くの臨床例の結論から、カルマ(宿業)とは自身が生まれる前の中間世(仏教でいう中有)で、自らの人生の「課題」として持って生まれて来たと言う説を述べています。これは逆行催眠で中有の状態に移行させた被験者が共通で語った事だというのですが、これは仏教でいう「願兼於業」にとても近しい内容です。

 こういった「宿業(カルマ)」という考え方については、肯定も否定も出来ません。何故ならば「科学的に論拠立てて」という以前に、この事の本質は一人ひとりの心の奥底にある事なので、それを第三者に納得できるような証跡(エビデンス)を提示して説明できるものでは無いからです。

 しかし、だからこそ、こういった事を自分自身の中で、どの様に解釈して信じていくのか、実はそこに人生をどの様に生きていくのか、またその人生の価値を決めるかが、かかってくると思えてなりません。

◆まとめ
 私自身、三十年以上に渡り創価学会に縁して、そこで様々な事を教えられて来ました。しかしそれと同時に、多くの人の人生を見る事も出来ましたし、自分自身の人生でも多くの経験をしてきました。
 そこから感じた事ですが、私は恐らく「何かしら」の目的を決めてこの人生をスタートしてきたと思いますし、何かしらのレール(大枠の計画的なもので、完全に確定したものではない)を引いてきたのかもしれないと感じています。

 だからこそ、この人生をより真剣に大事に生きていく事。また目の前に出てくる人生の上での様々な事象についても、より深く洞察をしていく必要があると感じているのです。

(続く)


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