少し時間が空いてしまいました。五重の相対について続けます。
この五重の相対を語る時、自分達の信じる宗教が如何に正統なものなのか、そこに視点を置いて語られますが、今の時代、自分達の信じる宗教が正統で、それ以外は邪ま(邪教)な宗教であるという考え自体、人類にとって有害なものはありません。
なにせ宗教により創り出される正義という言葉から、その宗教を信じる人は如何なる残虐な行為でさえ、正当化出来てしまうからです。
この時代に問われるのは宗教の正邪ではなく、その宗教により自分の心に対して如何に理解を深める事が出来るのか、そこにこそ重点を置くべきであり、宗教とは自分自身の心の理解を深めるツールの一つと考えるべきではないでしょうか。その上でこの「五重の相対」という考え方は、とても大事な示唆を含む理論になってくると私は考えています。
①内外相対
日蓮の生きていた鎌倉時代。宗教と理解をされていたのは婆羅門教、儒教、道教、そして仏教といったものでしょう。そして五重の相対の中では、内道を仏教とし仏教以外を外道としていました。ただこれはざっくり二つに分けていた訳ではありません。
・儒教、道教:過去から未来への因果律を知らず、現在に仁義を尽くし孝養しても人を救う事は出来ない。
・婆羅門教 :過去から未来への因果律を知っていても、生死という問題を離れる事が出来ない。
一言で外道と分類しても上記の様な差異があり、ここでは過去から未来への因果律という事を云っていますが、簡単に言えば生死の問題を直視していない事から、これらは仏教に劣るという事を日蓮は述べているのです。
私はこの年齢になって実感している事ですが、この世界で人が感じる問題、そして苦しみの根底には「自分という存在」「自分の心(自我)」という事への洞察なくして解決は無いと言う事です。詰まる処、人はどの様な宗教に入ろうとも、どの様な信仰を実践しようとも、自分の心に対する洞察なくしては、人生で経験するあらゆる問題を乗り越える事は出来ないという事ではないかと思うのです。
仏教とは学ぶと本来はこの「自分の心」という事に焦点を当てた教えだと感じるのですが、今の世の中にある仏教では、実にこの観点を失っている宗派や教団が多い様に思えます。
人が宗教に関わる時、これは特定の宗教に入信する事もそうですが、例えば神社仏閣に祈る時、どうしてもその解決を目の前にある「仏像」や対象物。いわゆる「本尊」というものに対して願掛けの様な祈りをしてしまいます。私は長年、創価学会に関与してきましたが、創価学会も仏教教団を自称していますが、悩みや苦しみ、また個人の願望を日蓮の顕した文字曼荼羅に対してひたすら救済や願望成就をぶつけます。「御本尊ちゃま!お願い!」「〇〇が叶いますように!」「〇〇の病が治りますように!」。まるでその文字曼荼羅に対して祈祷師の如く祈る事が大事であり、それによって所願満足できると教えています。そしてその祈祷が叶うと「祈りとして叶わざるなしの御本尊様だ!」と信じてしまうのです。
これはまさに「外道の宗教」でしかありません。何故ならばそこに「自分の心」に対する理解を深めようという視点が欠如しているからです。
そもそも仏教とは自己の内面を観じ、そこにある心への理解を深める事で、人生に起きる神羅万象を理解しようというものであって、何も超絶的な存在に自身を預け、御すがり信心を教えるものではありません。しかし多くの仏教宗派やその亜流教団では、どの様な言葉を述べたとしても、結果、信徒に対して「御すがり信心」しか教えていないのが現状ではないでしょうか。
ここでは創価学会を始め、仏教宗派とまとめてしまいましたが、世界にある如何なる宗教であっても、自分の内面の心に向き合う事が出来ますが、それを教える宗教というのは殆ど皆無と言っても良いでしょう。しかしこの「内外相対」という観点を考えてみると、やはり自分自身の内面に関する洞察無くして、人々が自分自身の生きる人生を理解し、この世界に生きる事に益するものは無い。そういう事では無いかと思うのです。
またこういった心の内面と向き合う事を教えずに、自分の心以外の「超絶的な存在」に依存させる宗教というのは、結果として人々をコントロールする事の出来る「最高のツール」として、一部の特権的な集団に利用されてしまう危険性があります。いわゆる「管理的宗教(カストディアン的な宗教)」ですね。そして今の人類社会の殆どの宗教が、この管理的宗教であり、一部の宗教指導者たちが信徒を自分達の権益を守る「駒」として利用しているのが実情でしょう。
そういう意味で、今の世界にある宗教とはカール・マルクスの言う「宗教とは阿片である」という指摘通りだと思いますよ。
今の人類文明が、これから次の段階に向けて開花出来るのか、それとも文明が崩壊の方向に進んでしまうのか。まずは宗教を信じる人達が、この「内外相対」で示されている観点を持てるのか。そこがとても大事になってくると私は考えています。