自燈明・法燈明の考察

百界千如

 前の記事で十界互倶を説明しましたが、これに十如是というものが掛け合わされて百界界千如となります。十如是とは法華経の方便品第二で述べられた論理です。

 法華経の方便品第二は、日蓮門下であれば勤行要典で朝晩に読むことですが、多くの人は声を出して読んでいた処で、その内容まで理解するに至ってませんね。これも残念な事です。

「止みなん、舎利弗、復説くべからず。所以は何ん、仏の成就したまえる所は、第一希有難解の法なり。唯仏と仏と乃し能く諸法の実相を究尽したまえり。
所謂諸法の如是相・如是性・如是体・如是力・如是作・如是因・如是縁・如是果・如是報・如是本末究竟等なり。」


(現代語訳)
 舎利佛よ止めなさい。また説いてはいけない。その理由とは仏が成就しているのは第一の難解で信じがたい法なのだ。ただ仏と仏が良く諸法の実相を究め尽くしてしているのである。所謂諸法は是くの如き相、是くの如き性、是くの如き体、是くの如き力、是くの如き作、是くの如き因、是くの如き縁、是くの如き果、是くの如き報、是くの如き本から末は究竟にして等しいのである。

 これがその十如是と言われる箇所ですが、この事について少しここで私が理解している内容を書いてみます。

◆十如是
①是くの如き相
 これは心の働きが、見た目など、表面に表れている姿の事を言います。
②是くの如き性
 これは心の働きが、性質として持ち合わせている事を言います。
③是くの如き体
 先の二つ、見た目(相)と性質(性)が合わさり体として現れます。
④是くの如き力
 体には外に働く力が備わっています。
⑤是くの如き作
 力を持ち合わせた体(からだ)は、外に向けて働きかけを行います。
⑥是くの如き因
 体が外に対して働きかけを行うと、そこに原因を作り出します。
⑦是くの如き縁
 原因が作られても、それが直ぐに結果が作り出される訳では無いのです。作られた原因は冥伏(見えない状態、認知も出来ないのです)し、何かの縁により発動します。
⑧是くの如き果
 縁により発動したものは、結果を招きます。
⑨是くの如き報
 招いた結果により、報いは受ける事になります。
⑩是くの如く本末は究竟にして等しい
 最初の如是相から如是報までは、一貫しており、それぞれの心の状況(十界互倶の心)がそのまま貫かれたものになります。そしてそれがまた如是相から始まる状況へと連鎖していく事になります。

 この十如是を説く事で、釈迦は何を指し示しているかというと、仏と仏のみが究め尽くしている「諸法実相」という事についてです。諸法とは心の働きから発生する現象の仕組みであり、実相とはその働きを起こす根源の実体の事を言います。
 そして諸法(心から出てくる現象面)とは、この十如是で示す様に心から表に出てきて、そしてそれは周囲に対して働きかけ、結果としてその心の本人へと戻ってくるというのです。そしてそれは初め(相・性・体)と経過(力・作・因)終わり(果・報)まで一貫していると説いています。

 この十如是で重要な事は、相(表面に出た姿)と性(性格や性質など内面)により体(体)が成り立つのですが、それらを決めるのは、その瞬間の「心(一念)」です。つまりその心が成仏に真っ直ぐであれば、本末は究竟にして等しい(一貫)わけですから、それも成就するという事なんですね。
 ただこれには体が力用(外への働きかけを)を行い、原因を作った後、それが結果として現れるまでは縁が必要であり、その縁に出会うまでのタイムラグが出てしまうという事です。人はタイムラグがあると、見えなくなり、そこに迷う心も出てしまいます。そしてこの迷う心が、また様々な事を作り出していく事にもなってしまいます。

 釈迦の智慧第一と言われた舎利佛は、この方便品第二で、この諸法実相を聞いたときに悟りを得たといいますが、この様な心(一念)と、それから起きる様々な事の姿(諸法)を理解した時、自身の成仏と言うのを確信したという事かもしれません。またこと事を、法華経の略開三顕一(声聞・縁覚・菩薩の三乗を開いて一仏乗を略した形で顕す)とも呼ばれています。




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