自燈明・法燈明の考察

立正安国論④

 一日というのは実に早いもので、日曜日も終わってしまいます。現在、テレワーク体制なので、明日は仕事と言っても実際には自宅に朝から居るわけで、通勤という事がなく、仕事に関してもそこに管理者の目はありません。

 そういう事で、気楽と言えば気楽にも思えますが、ある期間の間に仕事の形を作らねばならず、その面からすれば仕事のストレスはあまり変わらないんですよね。

 さて、今回は立正安国論を続けます。この立正安国論の中心的な話は「神天上の法門」です。



 「神天上の法門」では、国に正法があっても尊重しなくなるか、そもそも正法が無くなってしまうと、その国に居た聖人はその国を捨て去り、諸天善神も法味を得られない事から、威光を無くし、結果としてその国を捨て去ってしまうというものです。そして聖人や諸天善神が国を捨て去ると、その国には悪鬼や魔民がやってきて、結果としてその国には様々な災難が降り掛かってくるというのです。

 日蓮が正嘉の大地震に遭い、その後の鎌倉の惨状を見た時に、この事を実感したのではないでしょうか。

「去ぬる正嘉元年[太歳丁巳]八月二十三日戌亥の尅の大地震を見て之を勘う」
(立正安国論奥書)

 立正安国論の奥書で「之を勘う」とあるのは、この事だったのでしょう。

 正嘉の大震災で大きな被害を受けた鎌倉。しかしその二年後に忍性房良観は時の執権の父親である北条重時に招聘され、鎌倉で活動をしていました。しかしそれは鎌倉仏教界の頂点に立つための動きであり、最終的(1262年)には鎌倉念仏宗の念空道教の支持を取り付け鎌倉仏教の頂点に立ちました。

 人々が大きな被災を受け、苦悩の最中にある時に、鎌倉仏教界では様々な権力争いがあった事でしょう。日蓮はその仏教僧の動きを見て、一体、どの様な事を感じたのでしょうか。

「本来、仏教僧とは国の安寧を祈る者であるはず。また人々を救済する立場にあるはず」

 本来は仏教を学び、修するべき僧侶たちが自分達の権力闘争に明け暮れている。またそれを助長しているのが、鎌倉幕府の政策でした。

 諸天善神とは様々な仏法守護の神々ですが、それは人々の心の中にある。しかしその人々の心も震災に遭った事により、一人ひとりがそれぞれ生き残りる為に、自分自身を守る事で汲々としている。そういった社会では、当然、「人の為」という視点は無くなるでしょう。そしてその社会の精神的指導者たる僧侶も、社会の為ではなく、それぞれが自分自身の利権確保を念頭に生きている。

 本来「聖人」として政に意見を言うべき立場の僧侶が、鎌倉幕府に阿諛してまともな意見を言わないし、言う事も無い。ここに「聖人は国を捨て去り」という姿を観たのかもしれません。また人々が自分自身が生き残る為に、犯罪行為に走っているという姿をみせていたのかもしれません。そこには強盗もあれば殺人もあった事でしょう。また本来、丁重に葬られるべき亡骸ですら打ち捨てられている状況。これを見た時には「諸天は法味を得られないので、国を捨て去った」という姿を観たのではないかと思うのです。

 こういった事に、日蓮は「神天上の法門」を見て取ったという事はないでしょうか。

 そしてその社会を諫める為に、日蓮は鎌倉仏教界の要となっていた念仏宗を取り上げて、痛烈ともいえる鎌倉仏教界への指弾と、それを助長している鎌倉幕府の施政についても指弾をしたのではないかと思うのです。

 日蓮はもともと天台宗で仏教を学びました。その天台宗の教えの中核は、大乗仏教の中心となるのは法華経であり、法華経の思想とは「人は皆が元来仏である」という思想、そして人々は同じ仏という心を持ち生まれて来ているという思想です。しかしそんな法華第一の教えを学んでいるはずの僧侶が、それを破壊して何ら省みる事すらないという、当時の鎌倉仏教界に対して一石を投じたと思うのです。

 私は立正安国論にあるテーマとは、そこにあると考えているのです。けして日蓮の自説を押し付けているのではないと思います。幼年期から青年期にかけて見てきた社会の矛盾、人々の苦悩する姿。そして時の都ともいう鎌倉でも、そこに本来あるべき仏教僧の姿も無ければ、民草を考える為政者の姿も見えてこない。

 そういった社会への憤りが、この立正安国論にある様に思えてならないのです。



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