自燈明・法燈明の考察

仏教を学ぶ矜持について

 今日は散歩しながら記事を書いています。この「散歩」とは東洋医学に基づく言葉だそうで、薬を服用した後、その薬を全身に散らすために歩く。だから「散歩」というのだそうです。

 また仏教では「歩行禅」というのもあると言いますが、歩くことで心を落ち着かせ、様々な思考を巡らせる事も出来ると言います。

 歩く事、これには様々な効用があるようなので、持続可能な運動としては、お薦めかと思いますよ。

 さて、今回の記事は少し最近考えている事を記事にしてみます。



 仏教という思想は「演繹法」と言われています。私達が学生時代に教わるのは、大半が「帰納法」という思想でから、この演繹法というのはあまり馴染みがありません。
 帰納法とは代表的には数学的な思考でしょう。公式を地道に一つづつ証明し、それら公式の結果をまとめて一つの定理を導き出すという方法です。
 一方、仏教は演繹法と言われています。これは先に定理を提示して、その定理の元で様々な公式を証明していく方法なのです。

 帰納法の場合、これは一つ一つの結果を観察したり、計算していく事がとても大事になります。そしてそれら複数の結果を思慮深く観察する事がとても大事なように思いますが、演繹法の場合、展開するための、その定理を展開する為に様々な知識がとても大事になるのです。

 演繹法と帰納法、どちらが優れているとか、どちらが大事と言うことではありません。これは言わば思考法の話であり、それぞれに長所と短所があるものであり、人はそれぞれの思考法を場合によって選択し、最適な解答を求めていく事になると思うのです。

 仏教の場合、様々な理論があります。四諦、八正道、十二因縁、一念三千等など。法論という事では、これらの理論を帰納法的に積み上げて、相手方の論理矛盾をついたりしますが、そもそも基礎となる論理の多くは、釈迦の「開悟=悟り」を元にして、演繹法により導き出された論になるかと思うのです。

 そして日蓮仏法(まあ一部でこの様な呼称をしてますが)の場合も同様で、基本となる定理は御題目である七文字で、そこから様々な意義を紡ぎ出しています。これは御義口伝の「南無妙法蓮華経」の項目を読めば解ります。

 私はこの演繹法の仏教を学ぶ際、大事なことは、多くの事柄について学ぶ事だと考えています。何故なら一大定理から様々な事を引っ張り出すには、それなりに知識が必要であり、そして引っ張り出した事を一大定理に関連付けて説明する智慧も当然必要になるからです。

 具体的に言えば、例えば創価学会の幹部を見れはわかりますね。同じ前提で話をし始めても、それぞれの人によりそこから導き出す解答は千差万別。高いものもあれば、低過ぎて話にならないものすらあります。

 過去に、リーマン・ショックの時、ある地元の区幹部は、混乱する世界経済について、多くの会員の前で「世界広宣流布が進んでいる為に、魔が出来した姿なんだ!」なんて事を力説し、そこで如何に創価学会の活動が大事な事なのか力説していました。

 これを聞いた時、私は大きな脱力感を覚えたのですが、周囲を見回すと皆が目を爛々と輝かせて頷いていたのです。
 この情景を見た時に「嗚呼、この組織も終わりが近いなぁ」と個人的に感じたりもしましたが、恐らくこの区幹部は、自分の持てる情報と、日常の限定された思考範囲の中から、こんな下らなくも思える結論を導き出し、それを臆面もなく多くの会員の前で開陳したわけです。

 少し長くなりましたが、演繹法の思想とは、要は解釈する側にどれだけの知識と智慧が問われるものであり、思想を展開する上でも様々な知識を持つ必要がると思われます。

 その事から仏教を学ぶ際には、広く知識を得ておく必要があると思うのです。日蓮自身も、鎌倉時代当時、仏教関連以外の事も、広く学んでいる節が御書と言われる遺文を読むと解ります。これは何も日蓮に限った事ではありませんが、やはり仏教を学ぶ場合には、それなりに広く知識を開き、思考する種となるものを自身の中に蓄積しておく必要があるのではないでしょうか。

 ふとそんな事を考えました。

 あとこの演繹法である仏教とは、様々な展開が可能である事から、やもすると本筋とは異なる事を展開してしまう危険性もあります。創価学会の中で、怪しげな話が出てくるのも、こういった事によるのかもしれません。

 そしてこれは何も創価学会に限られた事ではありません。古くは堅樹院日寛師の「六巻抄」も煮たような部類に入ると思うのです。

 日寛師のいた頃の興門派寺院では、日辰師の教学が主流であり、富士大石寺は田舎の山寺本山で、けして主流にはなりえない状態でした。しかしおりしも興門派内には、天台教学へ傾く風潮のある中で、日寛師は中古天台を基礎とした教学を構築し、そもそも大石寺にあった弘安二年の板曼荼羅を中心として、日蓮本仏論を基本とした論理を構築したのです。

 これが「六巻抄」ですね。

 この六巻抄の論理は、天台教学への傾倒が出てきていた興門派の中で、またたく間に主導権を得て、それまでの日辰師の教学を凌駕、主流の教学となりました。そして当時、疲弊していた田舎の山寺であった大石寺を結果として宣揚する事になりました。だから堅樹院日寛師は「中興の祖」と呼ばれる様になった。私はこの様に理解しています。

 しかしこの日寛師の教学は、そもそも建立起源に問題のあった弘安二年大本尊を基礎に置き、開目抄にある「一念三千の法門は但法華経の本門寿量品の文の底にしづめたり、竜樹天親知つてしかもいまだひろいいださず但我が天台智者のみこれをいだけり。」という文底という言葉から、「文底秘沈(文の底に秘密に沈められた)」を引用、日蓮の真意を誠に不可思議な存在としてしまいした。これは端的に言えば「経文上には無い、そこ奥底に真意がある」という事で、結果として大石寺を始めとして、創価学会や顕正会等に、都合の良い論点を提供してしまっています。

 演繹法の仏教を扱う場合、基礎的に知識も必要ですが、それと共に「本義(本来の意義)」についてもしっかりと意識をして、思考は進める必要があるという事なのです。

 私はこの場で様々な事を思考しています。しかしそれに際しては、この「知識」と「本義」をしっかり意識して、なるべくずれない思考で進めて行く。常にこの事を考えています。

 でもまあ、かなりおっパずれた思考を展開していますけどね。
 気を付けつつ、今後も様々展開をしていきます。



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