自燈明・法燈明の考察

正法について考えた事④

 昨日の関東地方は少し酷暑が和らいだ感じがしました。まあ暑かった事にはかわりないのですが、何とかエアコンをフル回転せずに一日過ごせた様に思えます。
 昨日は午前中に自宅の風呂場と洗面台の水回りを掃除をして、それから嫁と近所の喫茶店に行きました。まあコロナ騒動があってから行ってなかったので久しぶりに行き、アイスコーヒーを飲みました。お客さんの数は、、、ピーク時に比べて半分程度だったでしょうか。店側も利用できる席数を半分程度に絞っていましたからね。

 さて本題です。今日も「正法」という事について、少し考えを巡らせてみたいと思います。



 法華経の陀羅尼品第二十六には、以下の事が説かれています。

「若し我が呪に順ぜずして 説法者を悩乱せば
 頭破れて七分に作ること 阿梨樹の枝の如くならん」

 これは法華経の説法者を悩乱する者の頭を鬼子母神・十羅刹女が阿梨樹の枝のように破ると誓った言葉です。
 この事から妙楽大師が法華文句で「若し悩乱する者は頭七分に破る」と語り、それが日蓮正宗や創価学会で授与している文字曼荼羅にも記載されています。
 日蓮直筆の曼荼羅においても、全ての曼荼羅にはありませんが、一部の曼荼羅にはこの言葉が表記されています。そしてその事について創価学会の解釈は次の様になっています。

「一方、御本尊の右の御肩には、「若悩乱者頭破七分(若し悩乱せん者は頭七分に破れん)」と認められている。「頭七分に破れん」は、「心破作七分(心が七つに破れる)」ともいわれる。御本尊を誹謗し、正法の実践者を迫害する輩は、心がずたずたに裂けてしまうというのである。「心」の崩壊とは、すなわち「精神の機軸」の崩壊である。要(かなめ)の壊れた扇のごとく、人間としての根本が狂ってしまう。そうなれば、当然、正邪も、善悪もわかろうはずがない。正義を憎み、自分で自分の生命を破壊し、地獄の闇へ沈んでいくことになる。」
(随筆/新・人間革命/110/法悟空/仏法は勝負なり から抜粋)

 恐らく似た解釈を日蓮正宗でもしていると思いますが、要は創価学会では自分達が正義であり、それに違うものは地獄の闇へ沈んでいく。そういう事をこの文言は言っているのでという解釈なのでしょう。げに恐ろしき言葉です。

 さて、何度も書きますが法華経の成立とは、釈迦入滅後、約500年後の大乗仏教成立時です。法華経は霊鷲山で釈迦晩年の八年間に説法されたと言いますが、歴史的事実から考えても、例えば舎利弗や目連と言った弟子達は、実際にはその頃には既にこの世を去っていました。そういう事から考えても、法華経を歴史的な事実として捉え、釈迦の時代から既に存在していたというふうに考えるのは、かなり無理があると思います。また法華経の中にある「提婆達多品」にしても、初期の法華経には存在せず、途中から編入された章であるという説もあるので、そういう事から考えると、「経典」としての法華経を「正法」として捉え、単にそれを毀謗する事を戒める事に、一体どれだけの意味があるのでしょうか。

 法華経で大事な事は、「経典」ではなく、そこに説かれている内容だと私は思います。であれば法華経とは何を説こうとした教えであるのか、そこを理解する事が大事であって、単に経文にこう書かれているから、とか、経文にはこうあるからという事で、安易に「罰論」を振り回すのも如何なものかと思います。

 「正法の実践者」と言いますが、この法華経を正法と言うのであれば、そこに書かれている意義を理解しない実践者などは存在するわけもありません。だから実践者が大事というのであれば、当然、法華経の意義を理解する必要があると思うのです。しかしそういった事についての議論とか、語らいという事もなく、自分達の宗派や教団自体が「正法を持っている」という事を前提にして、それに背く事が「誹謗正法だ」という話がとても多いのが実情です。

 私の場合もそうですが、創価学会に異を唱えると、そういう人に対して学会活動家は「勤行はやっているのか」「お題目は1日どのくらい唱えているのか」という様な質問をするのですが、そもそも法華経の意義を理解しないで、お題目を唱えるとか、勤行するという行動にも、どれだけ意味がありますかね。

 お題目を唱える事や勤行する事で、法華経の意義を「不求自得(求めずとも得る事が出来る)」できると考えているのでしょうか?

 今まで私が見てきた範囲で言えば、お題目を唱える事や、勤行するなど「祈る事」に重点を置くと、結果、その人は体験重視に振り回され、おかしな事を言い出す場合が多い様に思えます。

 そもそも「罰」という事で言えば、日本の八百万の神様などは「神罰」という事は聞きますが、「仏が罰を下す」なんていう「仏罰」は存在しないと私は思うのです。

 「そりゃ違う、仏罰とは仏法に違背したから受けるもので、仏が下すものではない」

 そういう事は言われていますが、それでは「仏法」とは何を言いますか?
 単に仏教用語を羅列して語る人はいますが、多くの場合、あまりにも思慮が浅く、間違えた認識や、自分の所属する宗派や教団の受け売りの言葉でしか語れていません。

 思うに法華経では、日蓮が「二箇の大事」と呼んでいる二乗作仏、久遠実成により顕された一念三千という事が法華経の肝心と言われています。では一念三千とはどういう事なんでしょうか。単に十界に十界を具える事で「百界」となり、それに「五陰世間・衆生世間・国土世間」ごとに百界があり、それぞれに十如是が加わって「三千になる」という様な事を言っているんでしょうか。

 そんな数学的な話ではないでしょう。

「私は創価学会で活動しているから正法を実践している」とか「御法主上人猊下の下で正しい信心の筋目を通した信心しているから正法だ」と思っている様では、あまりにお粗末すぎると思うのです。

 でも往々にして、そういう人達の方が、自分を高見に於いて、人を蔑んだりしているんですよね。

 果たしてそれが「正法」なんでしょうか、少しは考えて欲しいものです。

(続く)


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