自燈明・法燈明の考察

神や仏について

 新年あけましておめでとうございます。このブログを始めて一年以上経過しました。これまで様々な事について書かせてもらってきましたが、創価学会に関する事から臨死体験の事、また異星人等について思いつくまま書き連ねてきました。ぱっと見た感じでは、テンでバラバラな事を書いているのですが、私の中ではこの世界の成り立ちや、自分の存在の根源的な事柄を思索するなかで、此等は全てつながっている事なのです。

 だから私は創価学会の中でも「変わり者の思考」と揶揄されてもいました。

 こんな私のブログですが、宜しければ今年も宜しくお願い致します。

 さて本年初めの記事ですが、「神様」とか「仏様」という存在について、よく話題になる事があります。神様にもヤソ教(キリスト教・ユダヤ教・イスラム教)の様な一神教の神もいれば、バラモン教(ヒンドゥー教)にある多神教の神々、また日本の八百万の神々の様なアミニズム的なものもあります。
 これらの神々は、人を創造した存在であったり、過去の神話の世界の中の存在であったり、また自然界にある様々な事への畏怖から生まれたものもあるでしょう。共通しているのは人智を超越した存在で、人はこの神に対しては、跪き、様々な誓いを立て、貢物をして祈る事で、救いを求めます。
 一方で仏教でいう「仏様」とは、そもそもが悟りを開いた釈迦を指す言葉でしたが、大乗仏教ではこの宇宙(三千大千世界)には様々な仏がいると説き、仏様というのも釈迦以外にも様々な存在がいる事になっています。そして本来は自己の心に対して内省的な存在の象徴であったものが、何時の間にか先の神々同様に、人智を超えた存在として、人々はそれに跪き、祈る対象となり、そこに救いを求める存在となっている様に想います。

 近年になり、欧米などでは「神」と言っても、その指し示す内容が変化してきている様に思えます。これは例えば深層心理学や、一部のスピリチュアル思想に見られるもので、神とは私達を創造した存在という事では変わらないのですが、異なるのは自分達の外側にあるのでは無く、人々の内面の奥底に普遍的に存在する存在として語られる様になっています。

 神と私達は同質な存在なのである。と言うのです。

 そしてこれは法華経の如来寿量品で解き明かされた「久遠実成の釈尊」という存在にとても親しい内容が語られているのです。

 このブログでも幾度か書き連ねて来ましたが、法華経如来寿量品で明かされる久遠実成の釈尊とは、この世界の始まりと共に存在し開悟したと言われ、人々を教化する為に様々な仏の姿として現れ、菩薩行を行ってきたと言い、実はこの世界に産まれた釈迦も、その本来の姿(本地)は久遠実成の釈尊だと言うのです。

 つまり過去遠々刧から、法を求め、悩み苦しみながら、菩薩行を行ってきた釈尊も、この久遠実成の釈尊の姿であった事を明かしました。

 こういう事から考えると、例えば欧米で最近になり語られる「神」と、法華経で明かされた「久遠実成の釈尊」と言うのは、実は共に同じ事を指向しているのではないか、と私は考えています。呼び名こそ異なれ、共に私達を創り出す(という表現が適切かどうか、そこは再考が必要なのですが)根源的な存在であり、私達一人ひとりはそれとは不可分な存在で、また、私達が「自分」と「他者」、また他の生きとしいける者を分断して認識をしていますが、実はこれ等は共に共通の存在の上に成り立つものであり、同質な存在であるという事ではないでしょうか。

 こうなると、私なんかは「宗教」とか「宗派」による分断も必要ないのでは、とも考えてしまうのです。

 要はそれぞれの経典や聖典で書かれた文言なども、それを別々の言葉で表現したものであり、それらが派生して出来上がったものであって、そこを文字面の細かい所をつまみ出し、互いに言い争いすること自体がナンセンスなのではないでしょうか。

◆「聖(ひじり)」に額ずく習性
 とは言え、人類の心の奥底には抜き難い「宗教への依存心」が存在し、何かしら自分達を超越する存在を作り出し、それを自分の心とは別に求め、依存し、額ずき救いを求めるという様な働きがあります。
 思うに仏教は始まりが内省的な思想であったものが、何時の間にかそこで説かれる「仏」という存在を、自分の心の外にあると理解し、そこに祈り救いを求める教えになってしまったのも、そんな人間の心の問題からかもしれません。

 私が興味深く思う事は、近年になり、例えば「宇宙人ユミットからの手紙」や、その他様々な異星人との遭遇事件の中で語られる異星人達の宗教観とは、先の内面的な神という事や、法華経の如来寿量品の「久遠実成の釈尊」に親しい内容だと言う事です。思うに文明が進み科学技術が進歩する先の宗教観とは、そういう事になるのかもしれませんね。そうなれば宗教観如きで分断され、罵り合い、争う事も無くなるのでしょう。

 まあ、これは私の「妄想」の類の話ですが。

 私が感じている「人間が持つ、宗教に対する脆弱性」というのも、その根本は、この人が「聖(ひじり)」に依存する、という心の特性によることであって、まずは人類はそこを乗り越える必要性があるのではないか。そういう事なのです。

◆神や仏は救いを与えない
 人は悲しい時、行き詰まりそうになった時、苦しいときに「神頼み」をします。

「この苦しさから救ってください」
「この悩みはどうしたらよいのか」
「もっと健康になりたい」
「もっと経済的に豊かになりたい」

 こういう祈りは多岐に渡ります。よく神社の絵馬などをみると、こういう「祈り」の言葉が沢山書かれています。

 では「神」や「仏」が、人間に対して救いを与え、祈りを叶える存在かと言えば、私はそれも違うのかなと想います。

 ここから話すのは、ヤソ教や多神教、また日本国内で一般的に語られる神や仏とは違い、普遍的に私達が内面に存在を感じる(であろう)神や仏という観点からの話です。

 この世界に生きている人間が、その生きている中の価値観で考える「幸せ」「不幸」というのは、あくまでもその人の生活圏内の価値観によるものであり、それは例えば人類の枠組み、また生物と言う枠組みや、もっと広く考えると宇宙規模の枠組みとは異なります。
 例えば個人に取って良いことが、果たして他人にとっても良いことばかりではありません。もっと広く言えば、人類にとって利益があっても、他の生物にとってそれは良い事ではなく、もしかしたら忌避すべき事というのも存在します。

 神や仏が、この宇宙の普遍的な存在であれば、人の祈る事のみに都合よく働くとも思えないのです。

 むしろ重要な事は、いまある自分の境遇の本質を理解するという事であり、それら一つひとつの経験を、どの様に一人ひとりが理解して自分の中に「良き経験」として昇華出来るのか、そういう事ではないでしょうか。

 宮崎駿氏の制作した「もののけ姫」というアニメの中にはシシガミ様というのが出てきますが、このシシガミ様は命を与えもするが奪いもする存在として書かれていました。もしかしたら、神や仏とは、人々を救う存在ではなく、むしろ自分自身を理解するための存在であり、けして個人に救いをもたらす存在ではないのかもしれません。

 個人を救えるのは、その個人そのものであり、何かしら聖(ひじり)の存在がいて、手を差し伸べるという事ではないのではないかな。そんな事と思ったりするのです。

 とまあ、年明け早々から、こんな事をつらつらと考えたりしていますが、皆さんはどの様に考えますか?

 本年もマニアックな事を、つらつら書いていきますので、これからも宜しくお付き合いくださいませ。



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