自燈明・法燈明の考察

天命について考えた

 一昨年前に腎臓腫瘍が見つかり、その年末に入院手術し、それから退院後1年目の再発検査を先日終えました。結果は「問題無し」という事で、担当医からはこれから1年に一回、CT検査による再発検査を続けるようにと言われました。通常、5年間再発しなければ完治とみなすそうですが、腎臓がんの場合、十年以上経過してから再発もありうるという事で、出来れば十年間は再発検査を続けてほしいとも言われました。

 私が今回お世話になった病院は、県立がんセンターという病院ですが、治療以降の再発検査については、基本的に地元の病院でお願いしたいと言われました。要は県ではがん専門の中心的な病院なので、経過観察や軽微な治療等は、地域の病院に任せるというシステムなんですね。今回、1年目の検査で問題なければ、当面の間は問題ないと言う事なのかもしれません。手術で取り残しや、その時に判らない様な極微な転移があった場合、1年目で判明する事があるのでしょうが、今回はそこがクリアになったと言う事なんでしょう。だから地元の病院で続けるようにと。来年からは地元の病院で検査をするための紹介状を来週貰えるそうです。

 半年前にもCT検査をしましたが、今回もCT検査をしてから、担当医の診断を聞くまでに一週間ほどタイムラグがありました。まあこの一週間の間は様々な事を考えてしまうものです。担当医からは再発の可能性について昨年に聞いたのが、2〜3%。
 私の場合、自覚症状もなく健康診断で発見されたのですが、がんは3センチから4センチ程度の大きさでした。このサイズの場合、過去の統計から言われている再発率という事なんだそうですが、手術後の病理検査の結果、悪性度は5段階のうちの4、ステージは初期なのですが、そこは患者個々に違うようなのです。だからこの一週間は、結構不安な期間でした。

 人の寿命とは判らないものです。

 なにせ私が創価学会活動家の時、一緒に活動していた同年代のメンバーでも、既に鬼籍に入ってしまった人もいます。また昨年には同じく私が何かと活動家時代にお世話になった先輩たちの幾人かも鬼籍に入ってしまいました。みな年齢は60代後半から70代前半です。

 簡単に「亡くなる」と言いますが、亡くなった先にどの様な世界が待っているのか、多くの人は解っていません。斯くいう私も様々な文献や体験談から、おおよその事は聞いていますが、実際に体験した訳ではありません。私の両親も既に鬼籍に入ってしまいましたが、両親がその後、どの様な世界を見ているのか、そこすら知る由もないのです。
 死後の事が解らないから「死」が不安なのではありません。それ以外にも、やはり今の家族を置いて行ってしまうことにも不安があります。私は生活費を稼ぐ大黒柱ですから、もし私が居なくなれば、家族の生活が困窮してしまうでしょう。またこの家族と別れてしまうという事も、私が感じている不安の大きな要因でもあるのです。

 仏教では人生で受ける苦悩を四苦と呼んでいます。「生苦:生きる事自体の苦しみ」「老苦:老いていく事の苦しみ」「病苦:病による苦しみ」。これら3つの苦しみを生み出す根本的な苦しみが「死苦:死ぬ事の苦しみ」だと言われています。つまり人が生きていく中で受ける苦しみの根源には、死ぬ事への苦しみが有るというのです。
 思うにこの死苦ですが、これには死に対する認識や理解が及ばないが故の漠然たる苦しみ、今の自分自身の存在が壊される苦しみ、そして肉体的に感受する苦痛に対する苦しみ、そして愛する人と別れなければならなくなる苦しみという、この4つが絡み合ったものでは無いでしょうか。

 これに対して、認識や理解が及ばないという事については、死という事実を学ぶ中で軽減できるかもしれません。科学的に証明しろとか言って、そこに拘る事ではなく、自分自身が死をどの様に理解していくかで、ここは乗り越えられる様に思えます。ただ此処には思想哲学の助力も必要です。
 またこの世界から自分が消えてしまい、全てが無に帰してしまうという事について、これはやはり突き詰めると我執(自分が持っている様々な執着)を少しでも減らすことで軽減できるかもしれません。
 また肉体的に感受する苦痛に対する苦しみは、現代医学ではかなり進んできていると言われていますが、肉体的な苦痛にはメンタルが影響を与える事も言われていますので、やはり自身の生き方や考え方について、そこは自己修練も必要なのでしょう。
 そして家族等との別れは、やはりどこかで別離するという事をしっかりと意識して、日々の生き方の中でそれに基づき生活していくしかありません。ここは執着を断つという事ではなく、最終的には互いに感謝出来る存在になっていく事に務めるしかありません。

 こんな事をつらつらと考えていたりもしましたが、やはり一番の根本には「天命を知る」というのが、こういった死を乗り越えるには必要な事なのかと思ったりします。

 思うに人がこの世界に生まれ出てきたのには「天命」というのがあるのではないか、私はこの年齢になってそう感じる事が多くなりました。ここでいう「天命」とは、この世界に生まれでからには為すべきことが有ると言う事です。ただここで言う「為すべきこと」とは何も大層な役割とか、良く言われる使命と言うような事を指すわけではありません。もしかしたら経験すべき事かもしれませんし、自分自身が取り組むべき事かもしれません。そこは一人ひとりが、ある意味で「人生として決めるべき事」と言っても良いでしょう。

 もっと簡単に言えば、自分自身の人生の落とし所と言っても良いかもしれませんね。

 人は好むと好まざるとに関わらず、どんな人であっても「死」を乗り越えていかねばなりません。これを避けれる人は、今の地球に生きる80億人の人々の中に、誰一人例外となる人は居ないのです。であれば人はこの事について、もっと真剣に考えるべきであり、その上で「天命」について知るべきではないでしょうか。

 私の場合、今回受けた病院の検査結果で、1年間の猶予を得たという事になりますから、真面目にこの事を考えなければならないのでしょう。

 前の記事にも書きましたが、古代インドの四住期の中の「林住期」と「遊行期」が、これを考えるためにとても大事な気がするのですが、少なくとも今の日本社会の中では、これを考える事も大変な事かもしれません。何せ「人生100年時代」と銘打って、私の親の世代にあった「(定年後の)第二の人生」すらなく、死ぬまで現役で働き続けろという風潮になってきてますからね。でも社会風潮はともかく、自分の人生を納得いく人生としたいので考えてみたいと思います。


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