自燈明・法燈明の考察

日蓮を切っ掛けとして、仏教やこの世界に対する思索を始めました。

本尊開眼という事について④

2020年09月03日 09時33分13秒 | 日蓮仏法再考
 大方の予想通りというか、台風10号が特別警戒級の台風として、週末に九州近海に接近するそうです。毎度思う事ですが「第三の選択」という物語の中では、1957年にアメリカのハンツビルで開催された科学者の会議で「近い将来、地球は温暖化により人類が住むのに適さなくなる」という事が議論されたという事を思い出してしまいます。

 最近では熱中症の方が新型コロナウィルスよりも被害が大きい様ですが、その大半がエアコンをつけていない状況にあった人だと言います。果たして今の日本の夏というのは、エアコンを付けていない人は生きていけないのでしょうか。

 この陽気、社会状況を見る度に、様々な事を考えざるを得ない状況ですね。

 さて、前の記事まで「木絵二像開眼之事」という御書を読んできましたが、そこにあったのは一貫して仏像に対する開眼の事でした。では日蓮の文字曼荼羅は「開眼」を必要とするのでしょうか。そもそもの開眼の意味について再度振り返りをすると開眼とは以下の事でした。

 ①新たに作られた仏像や仏画などを堂宇に安置して供養する際に行う儀式のこと

 果たして日蓮の文字曼荼羅は「仏画」に入るのかという疑問があります。確かに日蓮の文字曼荼羅は十界曼荼羅と言いますが、諸尊は文字で書かれており、それが果たして従来の仏画の範疇に入るモノなのでしょうか。

 また開眼とは「眼を開く」と言い、そもそもの原点は仏像を造立し、最終的に「黒目」を書き入れる事を指して「開眼」と言いました。では十界の文字曼荼羅の諸尊の何れの「開眼」を行うというのでしょうか。

 まあこの様な事をコチョコチョと書いてみてもしょうがない事なので、端的にこの「木絵二像開眼之事」を用いた「開眼論」を言うのであれば、当然、仏像建立という事を今の大石寺や法華講員は認めるのでしょうか。

 実は日蓮正宗という宗派は、自らの本尊について結構ゆるゆるな宗派という一面もあるのです。

 以前に創価学会がまだ大石寺と共にあった時、当時男子部であった私は塔頭内のある坊を休憩坊として割り当てられ、そこの本堂で題目三唱をしたのですが、そこでは文字曼荼羅の下に日蓮の御影像が安置されているのを見て驚きました。だって仏像はそれまで「謗法」と教えられてきたのですから。

(柳澤宏道著「石山本尊の研究」から抜粋)

 そして丑寅勤行に参加すると、当時の大客殿には板曼荼羅の左右に日蓮と日興師の御影像が安置されていたのです。

(柳澤宏道著「石山本尊の研究」から抜粋)

 ただ私達の自宅や近所の寺院では、曼荼羅のみの「一幅式」という形式が一般的で、御影像を置くなんて事は微塵も教えられていません。

(柳澤宏道著「石山本尊の研究」から抜粋)

 この文字曼荼羅を安置する事を「奉安形式」と呼んでいて、日蓮門下(身延山系を含む)では曼荼羅一幅の形式や、曼荼羅のもとに日蓮御影を置く一幅一体式というのは一般的でした。そしてこれは大石寺以外でも先に紹介した様に存在しますが、一幅二体式のみが大石寺独自の奉安形式と言われています。

 何故ならこれは日蓮本仏論を元にした奉安形式だと言われているからです。

 身延山系と同じ奉安形式を総本山の塔頭坊内に許す。そういう事から「ゆるゆる」であったと私は感じています。

 またこの様な大石寺の状況を見ると、日蓮本仏論と、そうでない奉安形式が混在している事になるのですが、ここに木絵二像開眼之事による「開眼」を主張するという事であれば、他仏像(例えば釈迦仏等)も奉安するという事も認めるという事になるのです。

 果たして法華講などが「文字曼荼羅に開眼は必要」と言いますが、自分達が主張している御書に、そういった意義があるという事を理解しているのでしょうか。

 思うに過去の様々な文献から見れば、文字曼荼羅の開眼は「必ず実施」されたものでは無いようですし、ここまで述べた様に、その主張する中身と大石寺の奉安形式から見える本尊観からすれば、本来「開眼」というのは重要視していない様に見えるのです。

 そもそも大石寺や法華講が主張している、日蓮の文字曼荼羅の「開眼論」には、根本的な大きな問題があると私は考えています。それは自身の人生を他者に預けているという事です。

 この事について「思考実験」で考えてみます。

 例えば「幸せになりたい」とか「苦しさから逃れたい」と言う人が2人いて、同じ日蓮の文字曼荼羅、例えば創価学会で授与している日寛師の文字曼荼羅に共に祈ったとします。一つの文字曼荼羅は開眼無しで授与したとし、もう一つは大石寺で主張している貫首による「開眼」という儀式を経たものとします。しかし儀式をしたとかしないとかで、見た目は何も変わりません。

 すると大石寺の主張するのは、儀式を行った方が「功徳聚」という力用を持ち合わせているという事であり、もう片方は「奪功徳」としての魔の力用を持つという事になります。

 思考実験ですが、これも「理証」の一つです。

 この事は、何を表すかと言えば、要は大石寺の貫首が人の幸不幸を左右する能力を有しているという事になり、大石寺の貫首とはそういう立場であると暗に主張している事なのです。
 法華講の人達は自分達の人生の幸福になる、不孝になるという「仕分けの力」を持つ事を赤の他人(この場合には大石寺の貫首)が持つ事を認めるんですかね。そしてそれこそが日蓮の求めた仏教の考え方だと言うのでしょうか。

 「文字曼荼羅には開眼が必要」

 その様に主張する事は勝手です。でもその主張を他人に押し付けるのはどうなんですかね?

 その様な事をする前に、自分達の主張している根拠の御書の意義について、また自分達の宗派の本尊の奉安形式について、少しは考えを巡らすべきではないでしょうか。

 そんな事を考えないから、結果として宗教貴族の言いなりになってしまうのではありませんか?

 本尊開眼の事については、これで一旦、終了します。

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1 コメント

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常在寺で (還じゃく於本人)
2020-09-03 11:05:39
私が中学生のころだったと思いますが、池袋の常在寺が木造からビルに建て替わりました。信徒席も畳ではなく背もたれのない長椅子に座るようになりました。その常在寺には御影がありました。ちょっとおどろきましたけど。

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