自燈明・法燈明の考察

日蓮の仏法は世界で受け入れられるのか

 今日の関東地方は雨がバラつき肌寒い陽気となっていましたね。そんな中で私は人類歴史について少し思索を始めています。しかし様々な情報を、インターネットというのは得ることが出来ますが、やもすると情報の海の中で溺れそうになる事もあります。この情報の大海原の中で、自身が知りたい事を得る為には、しっかりと「知りたい事の軸」を握りしめなくてはならないと、最近は特に感じてしまいます。

 さて今日の本題です。
 私は若い頃に、「世界広布」という言葉を無邪気にも信じてきました。要は日蓮大聖人の仏法と、創価学会の思想性を世界の人達に理解をさせ、それを信仰させる事で、人類史の中で平和な世紀を作り出し、いま人類が抱えている諸問題を解決する智慧を得る事も出来るようになる。これを無邪気に真面目に信じていたのです。

 私は所謂「ノストラダムスの大予言」世代です。小学生の頃、友達との間で話題になっていたのは「1999年7月に人類は滅びる」という、今から見たら他愛もない都市伝説の様な事でした。

 そして成人する頃には、日本社会はまさに「バブル経済」真っ盛り、子供の頃に考えていた様な「終末思想」なんて、どこ吹く風という感じになり、世界も「ベルリンの壁」の消失に代表されますが冷戦終結を迎え、融和ムードになっていました。

 しかし、この「これから良き時代に向かう」という様な世界的な雰囲気は、長く続くことは無かったのです。世界は民族紛争や国家間の経済格差から、まるでモザイクの様に、より細かなブロックによる紛争が発生していきました。
 この紛争の中には、ルワンダ大虐殺やボスニア・ヘルツェゴヴィナ戦争で行われたエスニッククレンジング(民族浄化)という様な状況も発生したりして、二十世紀末に向けて、新たなきな臭い状況になっていったのです。

 そんな中で、創価学会では「2001年5月3日」を迎えました。この日は池田会長が「平和と幸福への歓喜の法戦を、全て君たちに託したい」と長編詩「青年よ、21世紀の広布の山を登れ」の中で謳っていた日でした。

 しかし世界では、同年の9月11日に、ニューヨークに於いてWTCビルに旅客機が突っ込み二棟の巨大ビルは大倒壊、ペンダゴンにも航空機自爆テロが起きるなど「同時多発テロ」が発生し、一気に世界はアメリカを中心として「テロとの戦い」へと動き出しました。そして創価学会の政治部門である公明党は、2007年に改正イラク特措法の成立にも加担し、2008年にはアフガニスタン駐留米軍への自衛隊による給油支援を定めたテロ対策海上阻止活動に対する補給支援活動の実施に関する特別措置法(補給支援特措法)にも賛成、2014年には日本国憲法の解釈を変更し、他国を武力で守る効果を持つ集団的自衛権の行使を限定容認することで大筋合意したのです。

 果たして世界は良くなってきたのか、むしろ混迷の度を増したのではないか。その当時、私が率直に考えた事です。

 私が創価学会の活動に、こういった疑問を抱き始めたのは、2001年後半からですが、そこから様々な事を思索してきました。そして行き着いたのが、そもそも「日蓮仏法は世界で受け入れられるのか」という事です。

 私は自分の事を振り返ると、小さい頃、「ノストラダムスの大予言」を知った当時から、この世界というのは実に不確実なものであり、簡単に壊れてしまうという事を感じていました。そして自分が生きて行く時代で、この壊れやすい世界を変える可能性を創価学会に感じていたのかもしれません。しかしその創価学会が、蓋を開けると何ら人類社会に貢献を成しえていない現実を理解し、その原因について思いを巡らした結果、この創価学会の信仰の中心にあった、「日蓮仏法」という事に行きついたのです。

 以下の動画を見て下さい。

Tina Turner Chant "Nam-Myoho-Renge-Kyo"

 これは云わずと知れた「ティナ・ターナ」です。以前にハリウッド映画でも取り上げられましたが、彼女は創価学会により仏教を知り、そこで人生を取り戻しました。この事は、過去に多くの創価学会の活動家が胸を貼って語っていた事です。

 この勤行のシーンがこの動画ですが、創価学会の教義を知っている人は、この動画に違和感を感じませんか?

 端的に私が何を言いたいのか。
 それは、今の人類社会の中で、創価学会が呼んでいる「日蓮仏法」というのは、受け入れられるのか。そういう事を言いたいのです。

 海外では仏教と言えば「釈迦」を指します。そこに釈迦を超える本仏という日蓮を語った処で通じるのでしょうか?
 そんな事を言ていったら、世界の中で創価学会の思想は、そもそも受け入れられないでしょう。

 また創価学会では「折伏」と言いますが、この修行法も日本国内は「邪智謗法の国」だから折伏で、世界は「無知悪国」なので摂受だと言っています。しかしこの表現も実はごまかしがあります。

 「折伏」というのは「絶対正義の元に、相手の論理を組み伏して信じさせる」という事を指しますが、欧米やそのほかの国では、民族も宗教も違えば文化も異なります。そこに日本の鎌倉時代からの仏教を以って「絶対正義」なんて語る事は不可能です。だからそもそも「折伏」なんていう行為自体が無意味なのです。

 要は「折伏」なんてのは、人類普遍のもの足りえないし、それは日本の一宗教の「独りよがり」の行為でしか存在しえないという事です。

 この事は、先のティナ・ターナの勤行を見れば解るでしょう。
 彼女が動画で行ってる「勤行」は、彼女の信仰体験を元に、彼女が信じた創価学会の信心の姿を端的に顕しています。そしてそれは釈迦の仏像の前で座禅を組み、その姿で呪文の様に法華経の経文を読む。

 これはつまり「日本の中の創価学会の思想」を受け取ったのではなく、それを彼女なりに理解した姿で受け取り実践したという事に他なりません。

 つまるところ、過去に作家の五木寛之氏が述べていた様に「宗教が土着するという事は、土着先の宗教と融合する事だ」という事であり、そうなると、そもそも創価学会の推し進めていた広宣流布観を見直ししなければならないのです。

 そもそも「単一の思想や宗教を広げる事で、人類の宿命展開や、世界平和を実現する」なんて事自体、単なる日本の中の一宗教団体の夢想に過ぎなかったという事でしょう。

 もし世界を変えるのであれば、そこには「人財」が必要になります。
 良いですか「人材(部材としての人)」ではなく「人財(財の様な人)」です。そしてそういった人財群が、人類の抱える業ともいえる問題と、そこに向けた解決策を仏教を元に思考し、それを一人ひとりが地道に自分の周囲で実践する。それは恐らく小さい動きかもしれませんが、それを着実に進める事が大事だと、私は思うのです。

 しかし残念ながら、今の創価学会では、組織の政治的な意向にそぐわなければ、その人を査問をかけ、組織から除外する行動を取っています。しかも姑息な事ですが、表立って行う事はしていません。そして組織内で「頑張る人材群」とは、思考停止をしていたり、自分自身で哲学性を以って考える事すら出来ない人達ばかりです。

 これをもって「日蓮仏法を世界宗教化する」なんて、出来る訳がありませんよね。

 つまるとこと、私が若い頃に考えていた「世界を変える可能性を創価学会に感じていた」というのは、単なる夢想に過ぎず、現実的な事では無かったという事なのでしょう。

 こういった事は、創価学会に籍を置いて、活動している人達には考えてほしい事なんですけどね。


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