自燈明・法燈明の考察

日蓮を切っ掛けとして、仏教やこの世界に対する思索を始めました。

創価学会の言う信心の確信とは

2020年10月16日 12時43分17秒 | 思う事
 今朝は涼しさを通り越して、寒さまで感じました。いよいよ秋も深まり、冬に向かって動き出しているんですね。

 さて、先日から様々な書籍を読み、また個人的に考える事しきりなんですが、昨今の日本の政治や社会の状況、また表向きの国際的な状況を見ていると、人類社会は中々ヤバげな方向に向かっているやに思います。

 この様な状況の中で日本の政治の動き、また社会の動きも、どうもピントがずれてしまっている感じがしてなりません。これに対処するには、国民一人ひとりが社会や政治に対して関心を持つ必要があります。しかし今の日本国内では、長く続いた政治の茶番劇もあってか、国民の中には政治に対する「しらけ」が蔓延している様に思えます。

 そんな中、創価学会の活動家達は精力的に「集票活動」を行っています。これは想定ですが、その数は200万人前後はいるでしょう。


 昭和三十年代から創価学会は政治に関与し始めていますが、政治とはそれまでお金がかかるものでした。しかし創価学会ではお金ではなく「信仰心」で政治を行っていましたので、当時の世の中ではとても奇妙に映った事でしょう。

 この「信仰心」で創価学会の活動家が政治に関与する事は、現代でも行われています。学会員の大半の人達は、彼らの信仰活動の一環として、集票活動を行っているのです。

 信仰心で動く事自体、悪い様には見えません。しかしそこには、政治の本質には目を向けず、結果として一部の宗教指導者の指示の下、本来、政治を見るに大事な事である「批判力」や「思考力」を奪われてしまい、思考停止の状況で動いてしまうという状況が発生しているのです。

 最近ネットでも出ていますが、公明党の遠山議員が、日本会議の会合の出席し、そこで声明文を恭しく受け取っている動画を見ても、その本質的な問題点に何も疑問すら抱く事が出来ない学会活動家の多さに、私はこの事を感じています。

 今の日本の「自公連立政権」とは、こういった創価学会の活動に支えられながら、国民の多くの「しらけ」を背景として、成立していると言っても過言ではないでしょう。

 こういった問題を、肝心の創価学会の活動家に投げかけても、彼らの多くに届く事はありません。何故ならば、彼らには「信心の確信」というのが、心の奥底に根付いてしまっているからです。

 創価学会の言う「信心の確信」とは何なのか。

 それは彼らが創価学会の活動や、日常の信仰の中で経験した「信仰体験」と言ってもいいでしょう。「祈って、動いて、結果を出す」。この様な事が創価学会の中では指導されています。そして「結果を出す」事を多く体験する事を「信心の確信を深める」という呼び方をしています。

 「病気が治った」「仕事に就職する事ができた」「結婚できた」

 人生を生きる中で、人は様々な願望を持つものです。しかしそれら願望の多くは叶う事がなく、それにより人は苦しみを感じる事は良くある話です。
 創価学会では「御本尊」という日蓮の顕した文字曼荼羅に御題目を唱え、創価学会の指導に従い活動する事で、そういった願望を叶える事が出来ると教えます。

 「祈りとして叶わざる事なしの御本尊」

 そしてこういった願望を叶えた「信仰体験」を得る事は、創価学会の中でも結構な確率で起きるものです。

 こういった願望が叶うという「信仰体験」を数多くすると、それはその人の中で「創価学会の指導性に間違いはない」という事を、強烈に焼き付けていきます。そしてこの「焼き付ける事を多く経験する事」を「信心の確信を深める」と、創価学会では呼んでいるのです。

 「信心の確信」を掴んだ人間は、創価学会の指導性に多少の矛盾があっても、その確信を揺るがせる事はありません。そこには「信仰体験」という経験に基づく裏付けがあるからです。そしてそういった人達が、組織の中で「幹部」という役割を与えられると、この縛りは強くなっていく一方で、その縛りを破るには、自分の中にある「同調圧力」を打ち破り、組織内で構築した人間関係や、自身が信じて生きてきた事をも否定する事が必要になります。そしてこれはその人にとって、とても大きな「心理的な外傷(キズ)」を与える事にもなるのです。

 だから創価学会の活動家は、創価学会に対して否定的な言動を見ると、過剰に反応してしまう事もあるでしょう。また創価学会が「本仏」として尊崇する日蓮という鎌倉時代の僧侶は、時の幕府と戦い、時の仏教界とも熾烈な闘争をしていた事もあり、創価学会の指導者は、その日蓮の姿を鮮烈に取り上げながら「組織を破壊するのは極悪である」と指導し、その「(組織に対する)悪」を徹底して責め抜く事を「極善」「正義」と教え込む事から、活動家にはその過剰反応がより強く出てくるのではないでしょうか。

 ネットの中に見る創価学会の「現役活動家」や、今の指導部には離反しても、池田会長に心酔する人達、またアンチ創価学会の中で繰り広げられる「論争」に、私は常にその過剰反応の姿を見てしまうのです。

 「おいおい、語るのは正論に聞こえても、そもそも、その言動は何なのよ?」とね。

 私は常々思うのです。
 人間の心とは「想いを形にする力」というのを普遍的に備えています。だからこそ、歴史的に宗教というものには「信仰体験」とか「奇跡体験」というのが付いて回っているのでしょう。そして宗教指導部は、そういった人間の心の特性を知り、それをバネにして自分達の運営する宗教に人間を縛り付けて居るるのではないでしょうか。

 人間が生きて行く上で「願望」とは、時として大きな力を与えてくれる根源になります。大事な事は、その「願望」を自身の心の姿を理解し、自身の理性によって制御する事であり、その「願望」により執着を強固にし、振り回されない様に、つねに自身の中には客観性を持つ事ではないでしょうか。

 創価学会の教える「信心の確信」とは、実は自分の心を縛り付ける強固な「絆(ほだし)」と気付くべきだと思いますよ。

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