やさしい古代史

古田武彦氏の仮説に基づいて、もやのかかったような古代史を解きほぐしていこうというものです。

天孫降臨

2006-10-21 16:42:27 | 古代史
 前回で「天の…」という亦の名を持つ島々(国々)が、海人族がまだ出雲の第一の家来であったころの領域であった…ことを述べました。そして第一の家来が、出雲王朝に権力の譲渡を迫った…、これが「国譲り」神話の根幹であった…ことも述べました。でも今の若い方は、「国生み神話」とか「国譲り、また天孫降臨(てんそんこうりん)」神話などというものをご存じないのではないでしょうか(わたしのように65以上の方は、あるいは…)。
しかしやはり、これら神話は学校で教える必要があると思います。小学校のときには、因幡(いなば)の白ウサギとか山幸彦と豊玉姫の話などの素朴なおとぎ話ではどうでしょう。中学になれば、国生みとか天孫降臨、また神武東進の話とか範囲を拡げて…。高校では、これらを科学的に分析した授業をしてもらいたいものです。そうすれば長じても日本に誇りを持ち日本の歴史に造詣が深くなり、日本人として堂々たる国際人が育つのではないでしょうか。今朝の新聞によれば、文部科学大臣が「日本史を必須科目に…」とおっしゃったとか…。えっと驚きました。人格形成の時期に、日本史が選択科目だったとは…。ぜひ実現させてください。
 さて初め天照大御神は子の天の忍穂耳命を葦原の中つ国に遣わすつもりだったのですが、出雲軍との戦の間に孫の天津日高日子(あまつひたかひこ、対馬の北端に「比田勝」という地がある。そこの長官…の意か)番能(ほの)邇邇芸命(ににぎのみこと)が生まれたのです。そこで急遽予定変更して、孫を遣わすことにしました。岩波古事記、p127です。
<…邇邇芸命にみことおほせて、「この豊葦原の水穂の国は、汝知らさむ国ぞと言よさしたまふ。故、命のまに見天降るべし」とのりたまふ。>
そして道案内として、猿田毘古(さるたひこ)の神が自ら仕えるのですが、筑紫に残る伝承(神社などの踊りなど)によれば邇邇芸たちに抵抗する神様…ということのようです。さていよいよ供を連れて天降りします。
<ここに天児屋命(あめのこやねのみこと)・布刀玉(ふとたまの)命・天宇受売(あめのうずめの)命・伊斯許理度売(いしごりどめの)命・玉祖(たまのやの)命、併せて五伴緒(いつとものを)を分かち加えて、天降したまひき。ここにそのをきし(招きし)八尺(やさか)の勾玉(まがたま)・鏡・また草那芸剣(くさなぎのつるぎ)、また常世思金(とこよのおもひかねの)神・手力男(たぢからをの)神・天石門別(あめのいわとわけの)神を副へたまひて、詔(の)りたまひしく、(後略)…>
それぞれの職制を持つ五伴緒、政治的側近や近衛軍的性格の三人の神、そして王権のシンボルである三種の神器「玉・鏡・剣」とともに降しました。この三種の神器は、弥生時代の北部九州では多く出土するのですが、大和など関西では古墳時代にならないと出土しないことは、皆さんご承知のとおりです。
さていよいよ、天降りの場面です。p129です。
<故ここに…邇邇芸命に詔りたまひて、天の石位(いわくら)を離れ(壱岐・対馬の高天の原を出立し…でしょう)、天の八重多那雲(やえたなくも)を押し分けて(雲になぞらえていますが、玄界灘の波を蹴立てて…の意でしょう)、いつのちわきちわきて(堂々と波間を分けて…でしょう)天の浮橋にうきじまりそりたたして(注ではなかなか難解とあって意味を取りかねていますが、古田先生は船から陸に渡す歩橋のことで、ついに上陸…という感慨で橋の上に身を反らせているリアルな描写といわれています)、竺紫(ちくし)の日向(ひなた)の高千穂の久士布流多気(くしふるたけ)に天降りまさしめき。(中略)ここに詔りたまひて、「ここは、韓国(からくに)に向かいて真来通り、笠沙(かささ)の御前(みまえ)にして、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり。故、ここはいとよき地」と詔りたまひて、底つ岩根に宮柱ふとしりて、高天の原に氷椽(ひぎ)たかしりて坐(ま)しき。>
すこし長い引用でしたが、高天の原を「天空 heavenn」としている通説としては、上陸するまでの解釈も支離滅裂となって、神話は造り話である…の根拠としています。上陸した「竺紫」を九州島全体とし、「日向の高千穂の…」から天から日向(ひゅうが、宮崎県)の高千穂連山に降りてきた…としています。そこには標高1700mの韓国岳もありますしね、久士布流岳もどれかを昔そう言っていたのだろう…と。そして言われた「韓国に向かい…」も意味がわからず、本居宣長の「古事記伝」では「カラ国=空虚国」として今に至っているようです。岩波古事記では、韓国はやはり半島の韓国だろう…としていますが。そして「笠沙」は、鹿児島県野間半島の「笠沙」であろう…と。しかし古田先生は、「竺紫」は福岡県を指し、古事記においては春日・太宰府あたりを指すときには「筑紫」と書き分けている…とされました。ですから「日向」は「ひゅうが」ではなく「ひなた」と読み、福岡市西区と前原市の境にある「高祖連山・日向峠・日向川」あたりである…とされました。黒田長政文書に、高祖連山に「日向山、くしふる山」が現存していたことを突き止められたのです。「高千穂の」は固有名詞ではなく、高祖連山の形容詞だったのです。だからくしふる岳に登って見れば、自然に「ここは海の向こうの韓国から真っ直ぐ来れる所であり、笠沙つまり御笠山(いまの宝満山)や御笠川を前にした地だ…」と言葉が出てくるのです。高祖山で北を臨んだ左には征服した菜畑縄文水田や曲田水田、そして右には板付水田が望めます。竺紫に上陸し出雲の支配地を征服した邇邇芸ら一行の胸の高ぶりは、如何ばかりだったでしょうか。
 「天孫降臨」神話とは、壱岐・対馬の高天の原の海人族がもと出雲の地であった竺紫を征服した史実をベースにしたお話だったのです。因みに九州の考古学者の間で、「初末中初」とよくいわれるそうです。意味するところは、「弥生初期末から中期初頭に、時代区分としてはBC200年前後、北部九州から出土する遺物の様相ががらりと変わる…」ということだそうです。例えば、「三種の神器」が出土し始めます。板付などの縄文水田が廃れ、吉野ヶ里のように川のそばの湿地帯に弥生水田が営まれ始めます。糸島半島東付け根にある今宿産の石斧の変わりに、銅器の分布が始まる…などのようです。いかがでしたか、天孫降臨…。ではまた…。

国譲り神話(2)

2006-10-19 21:18:19 | 古代史
 「国譲り」神話とは、どのような性格…何を言わんとしているのでしょうか。銅矛・銅剣の武力を背景に、第一の臣であった海人族が主筋に当たる出雲王朝に対し主権の譲渡を強要した…この史実を背景にした神話と考えられています。まず出雲本国に対する強要が「国譲り」神話、そして出雲の支配地であった筑紫への侵攻が次回のテーマの「天孫降臨(てんそんこうりん)」神話でしょう。
 ではまず、天照大御神(あまてらすおほみかみ)の宣言から見てみましょう。P111です。
<天照大御神の命もちて(お言葉で、仰せで)、「豊葦原(とよあしはら)の千秋長五百秋(ちあきのながいほあき、いつまでも続く)の水穂の国は、わが御子、正勝吾勝勝速日(まさかつあかつかつはやひ、正しくわたしは太陽の如く早く勝った)天之忍穂(あまのおしほ、海人族の豊かな稲穂を支配する)耳命(みみのみこと、耳は支配者を表す称号)の知らす国(治める国)ぞ」と言(こと)よさしたまひて(委任されて)、天降したまひき。>
一方的な宣言では、すんなり支配できるはずもありません。出雲本国や筑紫の人々は、やはり反抗したようです。それで国譲りを強要するため、出雲へ人が遣わすことにします。天の安の川の川原(対馬海流に臨む壱岐の島だろう)に神々を集め相談しました。まず天菩比(あめのほひの)神を遣わしましたが、大国主神に媚びて三年(当時は今の一年が二年に相当していたので、実際は一年半)ほども連絡をしませんでした。そこでまた神々が相談して、今度は天若日子(あめのわかひこ)を遣わしました。しかし天若日子は葦原の中つ国を我が物にしようと思い、大国主神の娘下照比売(したてるひめ)を娶って八年(四年)も復命をしませんでした。逆に様子を見に行った使いを殺したのです。これは、二度とも大国主の調略によって国譲りの強要が失敗したことを表しているのでしょうか。
 そしてついに三度目の使いとして、建御雷(たけみかづち)の神を大将に天鳥船(あまのとりふね)の神を副将として遣わすことにしました。さて、p121を見てみます。
<ここをもちてこの二柱の神、出雲の国の伊那佐の小浜に降りいたりて、十掬剣(とつかのつるぎ)を抜きて、逆しまに浪の穂に刺し立て(切っ先を上に向け柄を波頭に立て)、その剣の前に趺(あぐ)みまして(あぐらをかいて)、その大国主神に問ひてのりたまひしく、「天照大御神、高木神の命もちて、問ひに使わせり。汝がうしはける(統治している)葦原の中つ国は、わが御子の知らす国ぞと言よさしたまひき。故、汝が心は奈何(いか)に」とのりたまひき。ここに答え申ししく、「僕(あ)はえ申さじ。わが子、八重言代主(やへことしろぬし)の神、これ申すべし。しかるに鳥の遊びし、魚取りに、御大の前(みほのさき、美保の埼)にいきて、未だ還りこず」と申しき。故ここに天鳥船神を遣わして、八重言代主神を召し来て、問ひたまひしときに、その父の大神に語りて言ひしく、「恐(かしこ)し。この国は天つ神の御子にたてまつらむ」といひて、即ちその船を踏み傾けて、天の逆手を青柴垣(あおふしがき)に打ちなして(呪術で船を神の籠もる所として…の意味らしい)、隠りき(死ぬこと)。>
美保神社には、「青柴垣神事」というお祭りがあるそうです。二組の氏子の頭家を決め、一年間潔斎をし、前日からは断食をして、まさに神がかった状態で神事に臨むのだそうです(「古代出雲と風土記世界」。瀧音能之編、河出書房新社)。そして「神の葬式」といわれ悲しい儀式だそうですが、その後群衆が神船の飾り付けを奪い合うことは入水自殺を悲しむ表現でしょうか。
 父と長男は、国譲りを(武力を前に泣く泣く)了承しました。しかしまだ勇猛果敢な弟、建御名方(たけみなかたの)神がいました。しかしその建御名方が、ついに降伏する所を見てみましょう。p121です。
<(前略)かく申す間に、その建御名方神、千引きの岩を手末にささげて来て(千人の人が引くような岩を手先に軽々と掲げてきて)、「誰ぞわが国に来て、忍び忍びにかく物言う(こそこそと言っているのは)。しからば力競べ(ちからくらべ)せむ。故、われ先にその(建御雷)の御手を取らむ」と言ひき。故、その御手を取らしむれば、即ち立氷に取り成し(氷柱となり)、また剣刃と取り成しつ(剣の刃となった。建御雷は剣の化身だった、つまり武力を使ったこと)。故ここに恐れて退きおりき。ここに(建御雷が)その建御名方神の手を取らむと乞ひ帰して取りたまへば、若葦を取るが如、掴みひしぎて投げ離ちたまへば、即ち逃げ去(い)にき。故追い行きて、科野国の州羽の海(信濃の諏訪湖)に迫め到りて、殺さむとしたまふ時、建御名方神申ししく、「恐し。我をな殺したまひそ。この地を除きては、他処(あだしところ)に行かじ。また我が父、大国主神の命に違(たが)はじ。八重言代主神の言に違はじ。この葦原の中つ国は、天つ神の御子の命の随(まにま)に献(たてまつ)らむ」と申しき。>
まさに武力で以って国譲りを強要した…と言っています。出雲本国を屈服させた海人族は、いよいよ次回に筑紫を侵略します。これを「天孫降臨」神話と言います。でもなぜ建御名方は科野に逃げたのでしょうか。諏訪湖の近くに、尖石遺跡があります。ここでは、遺跡の北西にある和田峠の黒曜石を背景にした城門都市(古田先生の謂い)を見ることができるそうです。縄文時代、隠岐の島の黒曜石をバックにした出雲、和田峠のそれをバックにした科野、相互援助条約…なんか結んでいたのでしょうかね。

国譲り神話(1)

2006-10-18 16:20:01 | 古代史
 前回は、縄文時代よりこの列島西半分を支配していたのは出雲にあった王朝であり出雲本国のほか筑紫および半島南岸が範囲であったこと、そのころの九州島は筑紫・豊・肥そして熊曽の四ヶ国しかなかったこと、同じころ壱岐・対馬に住む海人族は出雲の一番の家来であったこと…をお話しました。
因みに現存する「出雲国風土記」には、「国引き神話」なるものがあります。古田先生は、国を引き寄せる道具は地に打つ「杭」と引っ張る「綱」と引き寄せの対象とする国に打つ込む「木のすき」の三つだけであり、金属が出てこないから縄文の神話である…とされました。四ヶ所から引いて来ます。すこし長くなりますが、軽快な語り口を引用してみましょう。(小学館日本古典文学全集「風土記」)。
<意宇(おう)と名づくる所以は、国引きましし八束水臣津(やつかみずおみづ)の命、詔(の)りたまひしく、「八雲立つ出雲の国は、狭布(さぬ)の稚国(わかくに。織る途中のためまだ幅の狭い布)なるかも。初国小さく作らせり。故、作り縫はむ」と詔たまひて、「栲衾(たくぶすま。白い夜具で、新羅の枕詞)志羅紀の三埼を、国の余りありやと見れば、国の余りあり」と詔りたまひて、童女(をとめ)の胸すき(童女の胸のように平らなすき)取らして、大魚の支太衝きわけて(おふをのきだつきわけて。大魚を捕るにはえらを狙って鉾を突刺す。そのように大地にすきを突刺して)波多須々支穂(はたすすきほ。旗のようになびくススキの穂)振りわけて、三身の綱(三本よりの丈夫な綱)打ちかけて、霜つづら(霜で黒くなったつづら)繰るや繰るやに(引いて手繰り寄せれば)、河船のもそろもそろに(船を川上に引いていくようにゆっくりと)、国来(くにこ)国来と引き来、縫へる国は去豆折絶(こずのおりたえ。去豆の山の線がすとんと落ちるところ)よりして、八穂尓(やほに。大量の土で杵築の枕詞)支豆支の御埼(きずきのみさき。今の大社町日御碕)なり。(中略)また「北門(きたど)の佐伎の国(さきのくに。通説では隠岐の島としているがこれでは共食いである…として、出雲の北つまり今の北朝鮮ムスタン埼ではないかとされた)を、国の余りあるやと…(中略。上と同じようなフレーズが続く)。…狭田の国(今の宍道湖の北、鹿島町佐陀本郷)、これなり。また、「北門の良波(よなみ。通説ではやはり隠岐の島とするが、上と同じ理由でロシヤのウラジオストックではないかとされた)を、国の余り…(中略。同じフレーズ)。…闇見の国(くらみ。松江市新庄町辺り)、これなり。また、「高志の都都(つう)の三埼(能登半島であろう)を、国の余り…(中略。同じフレーズ)。…三穂の埼(美保関町)なり。(後略)>
 いかがでしたでしょうか。なかなか雄大な国引き神話でしたね。しかし戦後の教科書では、「神話は五、六世紀の大和の史官が机上ででっち上げたもの」として教えられてはいません(扶桑社の「新しい歴史教科書」ではすこし触れていますが、科学的ではないようです)。前回の「国生み」神話も、今回の「国譲り」神話も、後ご説明します「天孫降臨」や「神武東進あるいは東侵」といわれる神話なども軒並みです。神話とはある史実に基づいた伝承である…として、古田先生は科学のメスを入れられました。この「国譲り」神話はどうでしょう。先に、縄文より列島の西半分は出雲の支配下にあった…といいました。そして、高天の原にいた海人族は出雲の一番の家来であった…とも。そして弥生前期の末ころ、わたしは大体紀元前200年ころではないかと思っていますが、アマテルという巫女(みこ)の首長のころ、半島よりいち早く銅の武器(銅剣や銅矛など)を手に入れていた海人族は、主権者である出雲(大国主命など)に対し「国譲り」を強要したのです。わたしがBC200年ころと思う理由は、秦がBC249年に主筋の(東)周を滅ぼしBC221年には燕や斉といった六国を滅ぼして統一をなしました。つまり海人族としては、実力さえあれば主筋をも倒せる…と思ったに違いない。それが動機だった…と思うからです。では次回は、岩波「古事記」に沿ってみることにします。

高天の原と国生み神話(2)

2006-10-13 15:14:15 | 古代史
 前回(1)では、「高天の原」は天上界heavenではなく壱岐・対馬および沖ノ島などの島嶼であること、そこに住む海人族が新しい金属の武器「銅矛」を以って先行した出雲の勢力を打ち負かしたこと…などを述べました。
先行した出雲王朝が、「記」の「須勢理毘売(すせりひめ)の嫉妬(p103)」という段に見えます。この毘売は須佐之男命(すさのをのみこと)の娘で、出雲の主権者大国主(おおくにぬしの)命の妻なのです。毘売を「嫡后(ちゃくごう)」というのちの「皇后」に匹敵する称号で称していることでもわかります。大国主は八千矛(やちほこの)神などというまたの名をいくつか持っていますが、古田先生によると本来は別の神が神神習合によって一つにまとめられたもの…ということです。それはさておき、すこし長くなりますが「記」より引用してみましょう。
「またその(八千矛の)神の嫡后(おほきさき)須勢理毘売、いたく嫉妬(うはなりねたみ)したまひき。故、その日子遅(ひこじ)の神(つまり夫)わびて(困惑して)、出雲より倭国に上りまさむとして、…歌ひたまひしく、
  ぬばたまの 黒き御衣(みけし)を まつぶさに(すっかり) 取り装(よそ)ひ 沖つ鳥 胸見るとき …(以下略。この後二度も「沖つ鳥 胸見るとき」のフレーズが繰り返され、これより会いに行く人が暗示されている)
とうたひたまひき。ここにその后、大御酒盃を取り、立ち依りささげて歌ひたまひしく、
  八千矛の 神の命や あが大国主 汝(な)こそは 男(を)にいませば 打ち廻る(みる。めぐる) 島の埼々 かき廻る 磯の埼おちず(港ごとに) 若草の 妻持たせらめ(いわゆる現地妻)…(以下略。この歌から、島伝いに倭国に上る様子がわかる)
(中略)…故、この大国主神、胸形の奥津宮(むなかたのおきつみや)にます神、多紀理毘売(たぎりひめの)命を娶(めと)して生める子は…(攻略)」
通説によれば、この「倭国に上りまさむ…」を「大和に行くこと」としているのです。まさに一元史観というイデオロギーのなせることですね。島伝いに対馬海流を遡っていく…という歌の中身と一致しません。川上に行くことを「川を上る」というのと同じことです。そして最終的には、胸形(福岡県宗像郡)の奥津宮(沖の島にある)にます多紀理毘売と結婚するのです。どうしてそこが「大和」でしょうか。ですから古田先生は、「この倭国は、筑紫でなければならない」とされたのです。出雲は、「倭」と認識されていないということです。この一連の神話は、まだ筑紫などが出雲の支配下にあったころの話…ということですよね。
 出雲の威の及んでいる地は出雲本国のほかに、筑紫の三ヶ所と韓の地(三世紀には狗邪韓国、のち任那といわれる)であったことは前回述べました。では海人族が淤能碁呂(おのごろ)島に天降って生んだ…つまり矛を以って征服した地はわかるのでしょうか。多くの島(国生み神話ですから「国」のこと)が生まれましたが、古田先生は「天の…」という亦の名を持つ島が初期の範囲であろう…とされました。次です(p57)。
(1)隠岐の三つ子島、亦の名は天の忍許呂別(おしころわけ、隠岐の島の島前)。(2)伊伎(いきの)島、亦の名は天比登都柱(あめひとつばしら、壱岐の島)。(3)津島、亦の名は天の狭手依比売(さでよりひめ、対馬)。(4)大倭豊秋津島、亦の名は天御虚空豊秋津根別(あまつみそらとよあきつねわけ、美称を取り除けば豊の秋津、別府湾に臨む国東半島の安岐)。(5)女(ひめ)島、亦の名は天一根(あめひとつね、前原市の北西糸島半島の西の姫島か?)。(6)知訶(ちかの)島、亦の名は天の忍男(おしを、長崎県五島列島)。(7)両児(ふたごの)島、亦の名は天両屋(あめふたや、沖の島)。
なお古田先生は「淤能碁呂島」を語幹の「のこ」が共通であることから、博多湾内にある「能古(のこの)島」であろうとされています。そうすると伊邪那岐命が黄泉の国から逃げ帰ったあと禊(みそぎ)をする「竺紫の日向(ひなた、いま福岡市西区と前原市の境に地名が残っている)の橘(つまり立ち鼻で、岬のこと)の小門(をど、いま西区姪浜の北に小戸として地名が残っている)の阿波岐原(不明、しかし「~原」という福岡県に多い地名であることは確か)」にも近く、何らかの関連があるかもしれませんね。
なお、いまの九州の最も古い政治地図も「記」に残っています(p57)。
「…故、筑紫国は白日別(しらひわけ)といい、豊国は豊日別(とよひわけ)といい、肥国は建日向日豊久士比泥別(たけひむかひとよくじひねわけ)といい、熊曽国は建日別(たけひわけ)といふ。」
つまり、四ヶ国しかない。前回「大年神」の神裔に、「白日神」があったことを覚えておいでであろうか。ずばり「筑紫」として出てきましたね。そして豊国も熊曽国も、簡単な呼び名です。この「~別」というのは、分配・分割されているという意味でしょうか。次ぎに肥国。これは長い。古田先生はこう解釈されました。すなはち「建日向日」とは「熊曽国へ向かう途中の…」の意味、「豊久士比泥」とは「豊国の根分けつまり分国にして、奇し火つまり不知火のある国」のこと、とされました。岩波古事記の如く、「名義未詳」とすることもありませんね。
 二回にわたって筑紫に先行した出雲王朝の政治地図、壱岐・対馬の海人族が最も偉い家来であったころの支配地図、それと同じころと思われる九州島の政治地図…などを示しました。次回は次のステップへ進みましょう。では…。

高天の原と国生み神話(1)

2006-10-10 16:51:54 | 古代史
 国内史料として、近畿天皇家胎内で作られた「古事記」および「日本書紀」(それぞれ「記・紀」という)があることはご承知のことと思います。「記」は太朝臣安万侶が712年に上梓し、「紀」は舎人親王らによって720年に編纂されたものです。「紀」は朝廷内で人々に何度も講義され、「これがわが国の歴史じゃ…」と頭に叩き込まれました。その影響は、今に及んでいるのですが…。しかし「記」は、それが成立したことすら次の「続日本紀」に記されていないのです。幻の史書として人々の脳裏より消え去っていましたが、六、七百年後の中世にひょっこり世に現れたのだそうです。この「記紀」の比較研究は、古くから行われてきました。「記」は素朴な伝承が書かれた物語的史書であり、「紀」は大陸の史書を真似し史書たらんとして書かれている。しかし「神代の巻」において「紀」の一書類の中には、「記」の記述より素朴なものもある…、というのが大体の評価でしょう。とりあえず「神代の巻」においては、「記」をベースに説明し「紀」は比較説明が必要なときに用いましょう。
 「神代の巻」の舞台は「高天の原」と「筑紫」ですが、後の段になりますが「大国主命に対する国譲り」の話とか「出雲神話」それに別史料「出雲国の風土記」をひもとくと、どうやら筑紫に先行してまず縄文より弥生の初めころまで隠岐の島の黒曜石を力の背景とした出雲がこの列島西半分の主権者であった…という姿が浮かび上がります。その出雲が支配していた地が、痕跡として「記」の中にあります。「大年神」の神頴裔…といわれるものです(p109)。
  大年神-大国御魂神:大国本国の神(支配者)
      -韓神:新羅の地の神。天降り地でもある。半島南岸、洛東江沿い
      -曽富理神:筑前高祖(たかす)連山あたりの神
      -白日神:筑前春日・太宰府あたりの神。いま「白」のつく地がある
      -聖神:日の尻…甘木から久留米あたりの神 
つまり出雲国は、出雲本国に加え半島南岸・九州筑紫の地の支配者だったようです。板付とか菜畑・曲田などの縄文水田は、出雲国の支配するところだったようです。
 では「高天の原」の時代は、特定できないのでしょうか。できます。絶対年代は無理でも、大まかな時代はわかるのです。岩波古事記をベースにしますが、表記はわかりやすくしています。
「ここに天つ神諸の命以ちて、伊邪那岐(いざなぎ)の命・伊邪那美(いざなみ)の命、二柱の神に、「このただよえる国を修めつくり固めなせ」と詔(のり)て、天の沼矛(ぬぼこ)を賜ひて、言依(ことよ)さしたまひき」(p53)
ここにはっきりと「天の沼矛」つまり壱岐・対馬それに筑前・豊前を中心に出土する「銅矛」によって、すなわち「銅矛」という武力によって国々を征服していった…と主張しているのです。銅矛は弥生時代、おおまかに紀元前四、三百年に入ってきた…といったころでしょうか。
次に「高天の原」とは、どこなのでしょう。通説では、「天heaven、天上界つまり人間生活の投影された信仰上の世界」とされています。しかし古田先生は、「高天の原」から「天降る」地点はたった三ヶ所しかない…ことに注目されました。すなわち(1)上記二柱の神が天降った「淤能碁呂(おのごろ)島(p53)」。また番能邇邇芸(ほのににぎの)命が天降った「竺紫の日向(ひなた)の高千穂の久士布流多気(くしふるたけ)」、(2)須佐之男(すさのをの)命が天降った「出雲国の肥の河上(斐伊川のほとり)、名は鳥髪(p85)」、そして(3)素戔鳴尊(すさのをのみこと)、その子五十猛(いそたけるの)神を帥(ひき)ひて新羅国に天降りまして…(紀。第八段第四の一書)。つまり、「高天の原」から途中の経由地なしで「天降る」ことができたのは、筑紫と出雲と新羅の三ヶ所だけなのです。古田先生は「高天の原」はこの三ヶ所に内接する所…と考えられ、「壱岐・対馬および沖の島」などの島嶼…とされました。そこが「天heaven」であれば、この三ヶ所だけでなくどこへでも「天降る」ことができたはずでしょう。因みに「天の安川」とは「対馬海流」のことであり、対馬海流に乗って出雲や新羅に行くことを天「降る…」といい、逆に帰ってくることを「上る」といった…ようです。
 隠岐の島の黒曜石を力の源泉にした出雲の支配は、ようやく終わりを告げようとしています。大陸から半島を通ってもたらされる「銅器:銅矛や銅剣」を、いち早く入手できる位置に「高天の原」があるのですから…。
因みに古田先生によれば、対馬空港より程近いところに「阿麻氐留(あまてる)神社」があり、当時の氏子総代の方が「わたしのところの神様は、出雲の一番の家来だったので最も遅く参内し、最も早く帰られていた」と話してくださったそうです。この話はまだ出雲が主、阿麻氐留神が従のときの話だったのです。この「あま」は、「海人」を表し佳字で「天」と表示したのではないでしょうか。つまり「高天の原」の人々は、「海人」族だったのです。今回はこれまで…。