やさしい古代史

古田武彦氏の仮説に基づいて、もやのかかったような古代史を解きほぐしていこうというものです。

新生筑紫と王統

2006-10-23 15:16:13 | 古代史
 前回の天孫降臨つまり筑紫征服はすんなり成功したように見受けられますが、実際は激しい抵抗を受けたに相違ありません。その証拠は、まず遺跡です。縄文水田の板付(恐らく出雲時代は白日の国)は深い環濠を持った城塞都市だったそうですし、また弥生早期より終期にかけて機能していた吉野ヶ里(同じく聖=日尻の国)もまた深く大きい環濠都市であったことはご承知の通りです。
次ぎに文献です。後の時代ですが、若御毛沼(わかみけぬの)命(神武天皇と諡された人)が熊野から吉野を通り橿原に拠点を設けるまでの戦闘歌に、筑紫征服戦争の時のものと思われる歌があります。一例を挙げてみましょう。p159です。
  意佐加(おさか)の 大室屋に 人多(さわ)に 来入りおり 人多に 入りおりとも 
   みつみつし(雄雄しい) 久米の子が 頭椎(くぶつつい) 石椎持ち 撃ちてしやまむ (後略)
通説では「おさか」を「忍坂(おしさか)」とし大和磯城郡忍坂村としていますが、古田先生は「御坂」であり背振山系がゆるやかに有明海に落ちていく「坂」ではないか…とされました。そして「大室屋」とは、まさに環濠に囲まれた吉野ヶ里城塞都市…とされたのです。そこには大勢の出雲軍が待ち構えていたのです。そして「久米の子」とは通説の如く「久米という部族の者ども」ではなく、邇邇芸に高天の原から随伴し後志摩(糸島半島の北部)の地に定着した久米部族の兵たちでしょう。筑紫征服時に歌った歌を、苦しい熊野行のとき士気を鼓舞するために思い出したのでしょう。次は「日本書紀」にある歌ですが、紹介しましょう。p204です。
  愛彌詩(えみし)を 一人(ひだり) 百(もも)な人 人は云へども 抵抗(たむかひ)もせず
「えみし」…何という美しい表現でしょうか、「愛彌詩」…。書紀の表現「夷」とは大違いです。「えみしは一人当千のつわものと人は云うが、われら海人の兵には手向かいもしないではないか」という、少々自慢げな歌ですね。「東日流(つがる)外三郡誌」という江戸時代の本に、「われらの祖は賊に追われ逃げてきたが、水田での稲作技術を伴なって来られた…」とあることから、「えみし」とは板付水田に携わっていた人々ではないか…と言われています。ですからこの歌は、海人の兵が板付環濠城塞都市を攻撃したときの歌であり、それを熊野での戦のときに思い出したのでしょう。
 さて邇邇芸らは、博多湾を中心として東は宗像あたりまで、西は唐津あたりまでの海岸に沿った安住の地を得たようです。そして成長した邇邇芸は、御笠の地で美しい娘に会います。p131を見てみましょう。
<ここに「誰が女(むすめ)ぞ」と問ひたまへば、答へ申ししく、「大山津見の神の女、名は神阿多都(かむあたつ)比売、またの名は木花之佐久夜(このはなのさくや)毘売という」と申しき。また「汝の兄弟(はらから)ありや」と問ひたまへば、「我が姉、石長(いはなが)比売あり」と答へ申しき。(後略)>
父の大山津見神は姉と妹の二人を差し出そうとしますが、姉の石長比売が醜い…ということで妹のみを召されます。古田先生は、この石長比売は縄文の象徴…とされました。例えば、御笠山(宝満山)の頂上には巨石があることは知られています。巨石信仰…、これこそが縄文の象徴なのです。この話は、「今より巨石信仰をやめ、新しい信仰…銅矛を祭祀のシンボルとする」という宣言だったのです。さて邇邇芸命が亡くなったとき、日本書紀によれば次の場所に葬られました。p142です。
<よりて、筑紫日向可愛の山陵に葬りまつる。>
通説ではこれを「つくしのひむかのえ」と読み、筑紫を九州島とし日向を宮崎県、そして可愛を延岡市の北方にある可愛岳か…としています。古田先生は、筑紫はやはり今の福岡県であり、日向は福岡市と前原市の境にある高祖山・日向峠・日向川の一帯を指し、可愛とは「え」ではなく「川合い」であろうとされました。つまり日向川と室見川が出合うところ、即ち三種の神器を伴なう最も古い「吉武高木遺跡」が邇邇芸命の陵墓であろう…とされたのです。これであれば、三種の神器の片鱗さえない宮崎県などとせずとも素直に理解できますね。
 この木花佐久夜毘売は、火照(ほでりの)命つまり海幸彦・火須勢理(ほすせりの)命および火遠理(ほをりの)命つまり山幸彦を生みます。山幸彦のまたの名を、天津日高日子穂穂手見(ほほでみの)命といいます。そして海幸彦と山幸彦が争い、海の神である綿津見(わたつみの)神がたまわった塩盈珠(しほみつたま)と塩乾珠(しほふるたま)を使って山幸彦が王統を継ぐことになりました。竜宮城と乙姫さまのおとぎ話の原型でしょうか。そして山幸彦は海神の娘豊玉毘売(とよたまひめ)を娶り、天津日高日子波限建(なぎさたけ)鵜葺草(うがや)葺不合(ふきあえずの)命を生みます。豊玉姫の出身地は、対馬の中央浅茅湾の北岸にある豊玉ではないかといわれています。また葺不合命は、対馬北端の比田勝の海岸あたりの長官という地位を与えられ、どうやら「鵜葺草」という姓(かばね、職制を表す)を持っていたのではないか…ともいわれています。天皇家は氏(うじ、物部や大伴などの苗字)も姓もない…というのが通説ですが、どうやら初めは姓はあったようですね。
 山幸彦つまり穂穂手見命は、長く統治されました。p147です。
<故、日子穂穂手見命は、高千穂の宮に五百八十歳ましき。御陵は即ちその高千穂の山の西にあり。>
通説ではこの高千穂の山を日向(宮崎県)の霧島山としていますが、あの辺りには隼人墓はあるものの、それは九州北部の墓とは全然違います。高祖連山の形容詞であった高千穂をまるで固有名詞の如く使い、よって「高千穂の宮」とはすなわち高祖宮ではないでしょうか。その西には、曽根・三雲・井原・平原などの三種の神器を伴なう王墓があります。そのうちのどれかが、穂穂手見の陵墓でしょう(三雲南小路遺跡か)。この580年の統治…とは、どのような意味でしょう。当時は、今の一年を二年と数えた「二倍年暦」の時代だったようです。三世紀に書かれた陳寿(ちんじゅ)の「三国志魏志倭人伝」に、五世紀宋の史官裴松之(はいしょうし)が注をしているのですが、それに<その人寿考、あるいは百年、あるいは八、九十年。(裴注:魏略に曰く、その俗正歳四節を知らず。ただ春耕秋収を計りて、年紀となす。)>とあり、春の種まきから秋の取入れまでを一年、その逆を一年…としていたようです。ですから580年は、即ち290年…。統治の平均を10年とすれば約30人、15年とすれば20人ほどの穂穂手見がいたことになります。ですから「穂穂手見」とは、後の「天皇」などに匹敵する称号だったのかも知れませんね。そして次の葺不合に、筑紫王朝の王統は引き継がれます。
 あくまでわたしの推測ですが、紀元前200年ころ赤ん坊の邇邇芸が筑紫を征服したとすれば、亡くなったのは紀元前150年ころか…。次の穂穂手見が290年統治したのだから、亡くなったのは紀元140年前後…。葺不合は、150年ころか…と考えられます。まあ、楽しい推理の範囲ですが…。では、また。