やさしい古代史

古田武彦氏の仮説に基づいて、もやのかかったような古代史を解きほぐしていこうというものです。

国譲り神話(2)

2006-10-19 21:18:19 | 古代史
 「国譲り」神話とは、どのような性格…何を言わんとしているのでしょうか。銅矛・銅剣の武力を背景に、第一の臣であった海人族が主筋に当たる出雲王朝に対し主権の譲渡を強要した…この史実を背景にした神話と考えられています。まず出雲本国に対する強要が「国譲り」神話、そして出雲の支配地であった筑紫への侵攻が次回のテーマの「天孫降臨(てんそんこうりん)」神話でしょう。
 ではまず、天照大御神(あまてらすおほみかみ)の宣言から見てみましょう。P111です。
<天照大御神の命もちて(お言葉で、仰せで)、「豊葦原(とよあしはら)の千秋長五百秋(ちあきのながいほあき、いつまでも続く)の水穂の国は、わが御子、正勝吾勝勝速日(まさかつあかつかつはやひ、正しくわたしは太陽の如く早く勝った)天之忍穂(あまのおしほ、海人族の豊かな稲穂を支配する)耳命(みみのみこと、耳は支配者を表す称号)の知らす国(治める国)ぞ」と言(こと)よさしたまひて(委任されて)、天降したまひき。>
一方的な宣言では、すんなり支配できるはずもありません。出雲本国や筑紫の人々は、やはり反抗したようです。それで国譲りを強要するため、出雲へ人が遣わすことにします。天の安の川の川原(対馬海流に臨む壱岐の島だろう)に神々を集め相談しました。まず天菩比(あめのほひの)神を遣わしましたが、大国主神に媚びて三年(当時は今の一年が二年に相当していたので、実際は一年半)ほども連絡をしませんでした。そこでまた神々が相談して、今度は天若日子(あめのわかひこ)を遣わしました。しかし天若日子は葦原の中つ国を我が物にしようと思い、大国主神の娘下照比売(したてるひめ)を娶って八年(四年)も復命をしませんでした。逆に様子を見に行った使いを殺したのです。これは、二度とも大国主の調略によって国譲りの強要が失敗したことを表しているのでしょうか。
 そしてついに三度目の使いとして、建御雷(たけみかづち)の神を大将に天鳥船(あまのとりふね)の神を副将として遣わすことにしました。さて、p121を見てみます。
<ここをもちてこの二柱の神、出雲の国の伊那佐の小浜に降りいたりて、十掬剣(とつかのつるぎ)を抜きて、逆しまに浪の穂に刺し立て(切っ先を上に向け柄を波頭に立て)、その剣の前に趺(あぐ)みまして(あぐらをかいて)、その大国主神に問ひてのりたまひしく、「天照大御神、高木神の命もちて、問ひに使わせり。汝がうしはける(統治している)葦原の中つ国は、わが御子の知らす国ぞと言よさしたまひき。故、汝が心は奈何(いか)に」とのりたまひき。ここに答え申ししく、「僕(あ)はえ申さじ。わが子、八重言代主(やへことしろぬし)の神、これ申すべし。しかるに鳥の遊びし、魚取りに、御大の前(みほのさき、美保の埼)にいきて、未だ還りこず」と申しき。故ここに天鳥船神を遣わして、八重言代主神を召し来て、問ひたまひしときに、その父の大神に語りて言ひしく、「恐(かしこ)し。この国は天つ神の御子にたてまつらむ」といひて、即ちその船を踏み傾けて、天の逆手を青柴垣(あおふしがき)に打ちなして(呪術で船を神の籠もる所として…の意味らしい)、隠りき(死ぬこと)。>
美保神社には、「青柴垣神事」というお祭りがあるそうです。二組の氏子の頭家を決め、一年間潔斎をし、前日からは断食をして、まさに神がかった状態で神事に臨むのだそうです(「古代出雲と風土記世界」。瀧音能之編、河出書房新社)。そして「神の葬式」といわれ悲しい儀式だそうですが、その後群衆が神船の飾り付けを奪い合うことは入水自殺を悲しむ表現でしょうか。
 父と長男は、国譲りを(武力を前に泣く泣く)了承しました。しかしまだ勇猛果敢な弟、建御名方(たけみなかたの)神がいました。しかしその建御名方が、ついに降伏する所を見てみましょう。p121です。
<(前略)かく申す間に、その建御名方神、千引きの岩を手末にささげて来て(千人の人が引くような岩を手先に軽々と掲げてきて)、「誰ぞわが国に来て、忍び忍びにかく物言う(こそこそと言っているのは)。しからば力競べ(ちからくらべ)せむ。故、われ先にその(建御雷)の御手を取らむ」と言ひき。故、その御手を取らしむれば、即ち立氷に取り成し(氷柱となり)、また剣刃と取り成しつ(剣の刃となった。建御雷は剣の化身だった、つまり武力を使ったこと)。故ここに恐れて退きおりき。ここに(建御雷が)その建御名方神の手を取らむと乞ひ帰して取りたまへば、若葦を取るが如、掴みひしぎて投げ離ちたまへば、即ち逃げ去(い)にき。故追い行きて、科野国の州羽の海(信濃の諏訪湖)に迫め到りて、殺さむとしたまふ時、建御名方神申ししく、「恐し。我をな殺したまひそ。この地を除きては、他処(あだしところ)に行かじ。また我が父、大国主神の命に違(たが)はじ。八重言代主神の言に違はじ。この葦原の中つ国は、天つ神の御子の命の随(まにま)に献(たてまつ)らむ」と申しき。>
まさに武力で以って国譲りを強要した…と言っています。出雲本国を屈服させた海人族は、いよいよ次回に筑紫を侵略します。これを「天孫降臨」神話と言います。でもなぜ建御名方は科野に逃げたのでしょうか。諏訪湖の近くに、尖石遺跡があります。ここでは、遺跡の北西にある和田峠の黒曜石を背景にした城門都市(古田先生の謂い)を見ることができるそうです。縄文時代、隠岐の島の黒曜石をバックにした出雲、和田峠のそれをバックにした科野、相互援助条約…なんか結んでいたのでしょうかね。