やさしい古代史

古田武彦氏の仮説に基づいて、もやのかかったような古代史を解きほぐしていこうというものです。

古田説とは?

2006-10-04 18:39:14 | 古代史
 ブログなるものに、初めて取り組みます。よろしくお願いいたします。
わたしたちは中学高校と、古代日本の歴史を習ってきましたね。例えば、福岡県志賀島より江戸時代に発見された金印「漢委奴国王」は「かんのわのなこくおう」と読み大和の倭国が筑紫の奴国をしていただいたものとか、女王卑弥呼の「邪馬台国」は近畿大和にあったあるいは九州筑紫にあったという二説があり決着していないとか、「日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや…。云々」は聖徳太子が隋の煬帝に出した国書…とかです。でも何かすっきりしない…という感覚はありませんでしたか。そう、隔靴掻痒…という感覚です。
 これは、「この日本は、古代より近畿天皇家が連綿と統治されてきた」という説、一つの大きな仮説による教育のせいだろうと思われます。この仮説を「一元史観」といいましょう。一元史観においては、すべての歴史的事件を近畿天皇家によるものとした…。発掘された遺跡・遺物も、すべて近畿天皇家に結び付けられている…。だからこそ解釈に無理が生じ、わたしたちは「そうだろうか、そうではないのではないか」という疑問を抱きつつそれを押し殺さざるを得ないのです。
 わたしは、連綿として続いてきた皇室を尊敬しています。このたびの悠仁さまのお誕生も、心から悦ばしいことだと思います。しかし現代の皇室に対する気持ちと、古代日本の歴史を混同してはならないと考えます。
 さて、古田説とはどのような仮説でしょうか。それは、「古代日本には、いまの沖縄、九州南部(薩摩、大隈)、その北部(筑紫、肥、豊)それに吉備や大和、はるかな吾妻や蝦夷の地にも、それぞれの主権と文化があった」という多元史観がベースです。そして「そのうち、筑紫王朝ひいては九州王朝だけが、大陸歴代の王朝や半島の国々からこの列島を代表する主権として認められていた」とする仮設です。つまり「近畿天皇家に先行して、紀元前四、三世紀より七世紀終りまでほぼ千年にわたり、九州王朝が主権者であり続けた」というものです。
 この古田説という仮説を以って日本古代史をながめれば、隔靴掻痒感はなくなるのか。これを皆さんと共に考えていきたいのです。わたしは、わたしが理解する範囲で、古田説を説明しましょう。
古田武彦先生の著書は数多いのですが、わたしが考える代表的なものは次です。三部作の一:「『邪馬台国』はなかった」・「失われた九州王朝」・「盗まれた神話」、三部作の二:「『風土記』にいた卑弥呼」・「日本列島の大王たち」・「法隆寺の中の九州王朝」、万葉集批判:「人麿の運命」・「古代史の十字路-万葉批判」、その他:「多元的古代の成立-上・下」・「壬申大乱」・「関東に大王あり」。これら著書を、できれば図書館や書店・古書店で入手され呼んでみてください。
このほか日本の史料として、「古事記」・「日本書紀」・「万葉集」は必要でしょう。また大陸や半島の史料として簡単に手に入るものは、「中国正史日本伝(1)(魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭(俀)国伝)」、「中国正史日本伝(2)(旧唐書倭国/日本伝・宋史日本伝・元史日本伝)」、「朝鮮正史日本伝1(三国史記倭人伝・ほか六編)」どぇす。いずれも「岩波文庫」で見られます。
いずれにせよ、手元においておかれたほうがよいでしょうね。
 この初回は、このくらいにしましょう。次回からわたしが隔靴掻痒感を持っているテーマを上げ、いわゆる通説を述べてその隔靴掻痒感のある箇所を指摘し、古田説ではそれがどのように説明されるのか…というやり方で書いていきましょう。それはおかしいとか、なぜどうしてとか、いろいろなコメントをお待ちしております。わたしの理解の範囲で、理解を超えるものはもう一度勉強しなおしてから、あるいは古田先生にお訊ねしてでも答えるように努力します。よろしく。