やさしい古代史

古田武彦氏の仮説に基づいて、もやのかかったような古代史を解きほぐしていこうというものです。

神武東侵(進)

2006-10-25 15:57:01 | 古代史
 今回の話は、通常「神武東遷」あるいは「神武東征」といわれている神話についてです。この謂われは、兄の五瀬命と弟の若御毛沼命(後の神武天皇)はすでに日向(ひむか、宮崎県)で統治していたが、東にもっとよき地があるのでそこに都を遷す、あるいはよき地を征服する…ということから来ています。
しかし現在では「神武天皇架空説」が通説であり、よってこの神話も単なる机上で作られたお話…とされています。実在と思われる天皇は、国外史料「宋書」に現れる「倭の五王」に比定されている仁徳あるいは履中(彼らは、五世紀に実在したと考えられている)以降…ということになっています。
しかし作り話としても、日向ですでに統治者であった人が、書紀によれば大和の橿原で「始めて、天基(あまつひつぎ)草創(はじめ)たま」い、そこで「始馭天下之(はつくにしらす)天皇」と呼ばれておられることと矛盾するのではないでしょうか。なお第十代の崇神天皇も同じく「御肇国(はつくにしらす)天皇」と呼ばれており、崇神が本当の初代ではないか…との説もあるそうです。しかしこの二人の草創者…という問題は、後の回で説明しましょう。

 今回も古事記の記述を引用し、通説ではどのように解釈されどのように腑に落ちないことがあるのか、古田説ではどのように解説しているのか…を、わたしの理解している範囲で述べます。古事記中巻、p149です(岩波古事記)。

<神倭(かむやまと…とルビ)伊波礼毘古(いはれびこの)命(大和橿原で名乗った名がのっけから出ている)、その伊呂兄(いろせ、同腹の兄)五瀬命と二柱、高千穂宮にまして議(はか)りてのりたまへらく、「何地(いづこ)にまさば、平らけく天の下の政を聞こしめさむ」と。なお東に行かむと思ひて、即ち日向(ひむか…とルビ)より発たして筑紫に幸行(い)でましき。>
まずはここまで…。始めは名乗りの「神倭」。この「倭」は出雲の時代より「竺紫国」を意味していました。ですから本来「神のような竺紫から来た、いわれ(磐余)の長官」と名乗ったはずです。

 いま「竺紫」と書きました。「筑紫」と区別するためです。古事記では、前者をいまの福岡県の範囲、後者を筑紫郡あるいは大字筑紫字筑紫くらいの狭い範囲として使い分けているのです。「天孫降臨」の説明のとき、「竺紫の日向の高千穂の久士布流多気に天降りまさしめき。」と書いたことを覚えておいででしょうか。ですから「高千穂宮」は、前原市にある高祖神社でしょうね。
これでお分かりのように、二人の出発地は「日向(ひむか、宮崎県)ではなく福岡市西区と前原市の境一帯の日向(ひなた)だったのです。いま日向峠や日向川がありますね。
ですから日向より筑紫へ行ったことは、方角的にも違和感はありませんし、また筑紫王の宮殿が字筑紫あたりにあったと考えればお別れの挨拶に行った可能性も捨て切れません。まんざら根拠のない推測…でもないと思っています。なお「天の下」とは漢語の「天下」ではなく、「天降った先」という意味なのです。

 そして二人は豊国の宇佐に行き、次ぎに竺紫の岡田(遠賀郡芦屋)に一年(実際は半年)、またそこより移って安芸の多祁理(たけりの)宮に七年(三年半)、次ぎに吉備に行き高島宮に八年(四年)いた…といいます。
これより見れば、二人は始めから大和侵入を考えていたわけではなく、単に閉塞感を覚える竺紫を出て東のほうに自分たちの土地を持ちたいと考えていただけではないか…、古田説ではそのように考える方もおられます。
そのあとを見てみましょう。しかしやはりそのような地はなかった…。そこで実質八年の回り道の後、率いる久米の衆と吉備の衆と共に、もっと東にあるうまし地への侵入を決意した…、と考えます。

<故、その国(吉備)より上りいでまししとき、亀の甲(せ)に乗りて、釣りしつつ打ちはぶき来る人(羽ばたきして来る人)、速吸門(はやすひのと)に会ひき。ここに呼びよせて「汝は誰ぞ」と問ひたまへば、「僕(あ)は国つ神ぞ」と答へ申しき。また「汝は海道を知れりや」と問ひたまへば、「よく知れり」と答へ申しき。また「みともに仕へまつらむや」と問ひたまへば、「仕へまつらむ」と答へ申しき。故、ここにさおを指し渡して、その御船に引き入れて、即ち名を賜ひて、槁根津日子(さをねつひこ)と号(なづ)けたまひし。>
この「速吸門」を岩波古事記では次のように解説してあります。
「豊予海峡。古事記は東征の順路が違っている。書紀が速吸之門を宇佐の前においているのがよい」と。つまり、大分の佐賀関半島と愛媛の佐田岬半島との間の海峡だ…というのです。この解説が正しいとすると、日向より筑紫へ行き海峡より北にある宇佐に出る…という順路はおかしいことになります。しかもこの海峡とすると、二人が日向(宮崎)より竺紫へ行くときいつも通る海峡ということでしょうから、熟知している海峡ではないでしょうか。槁根津日子(書紀によれば、本名を珍彦(うづひこ)というそうです)という水先案内が必要でしょうか。

 古田先生はこの海峡は「豊予海峡」にあらず、淡路島の南端あの大渦潮で知られる「鳴門海峡」である…とされました。そうであればこそ、この大渦潮をよく知る現地の漁師の案内が必要なのです。槁根津日子の本名が「珍彦つまり渦彦」であることも、このことを暗示していたのです。
淡路島の北にある明石海峡でもだめです。そこは侵入しようとする地の主権が及んでいるところであり、すぐ見つかってしまうでしょう。鳴門海峡を通る危険を冒したからこそ、侵入に成功したのです。八世紀の「書紀」を編纂した大和の史官たち(舎人親王ら)は、当時の土地勘よりして賢しらに伝承を修正したのでしょう。「古事記」のほうが、五、六百年前の伝承を正しく伝えているようです。

 続きを見ましょう。p151です。
<故、その国より上り行きまししとき、浪速(なみはや、難波)の渡りを経て、青雲の白肩津(しらかたのつ)に泊(は)てましき。この時、登美能(とみの)那賀須泥毘古(ながすねひこ)、軍を興して待ち向へて戦ひき。ここに御船に入れたる楯を取りて下り立ちたまひき。故、そこを号(なづ)けて楯津といひき。いまに、日下(くさか)の蓼津といふ。ここに登美毘古と戦ひたまひしとき、五瀬命、御手に登美毘古が痛矢串を負ひたまひき(ひどい矢傷を負われた)。故、ここに詔(の)りたまひしく、「吾は日の神の御子として、日に向かひて戦ふことよからず。故、賤しき奴が痛手を負ひぬ。いまより行きめぐりて、背(そびら)に日を負ひて撃たむ」と期(ちぎ)りたまひて、南の方より廻りいでまししとき、血沼(ちぬの)海に到りてその御手を洗ひたまひき。故、血沼海といふなり。(後略)>
さて、この話こそ神話が信用できない証拠…と江戸時代より今に至るまで言われています。
まず上陸した地が「日下の蓼津」…。いまの東大阪市日下町、日下川のあたりになります。一キロほど南には石切剣箭神社もある生駒山麓で、大阪平野の東端に当たります。江戸時代には、「どうしてこんな内陸に船で行けるのだ」と…、だから作り話だ…としていました。
しかしわたしの手元に「大阪平野のおいたち」(梶山彦太郎・市原実共著、青木書店、1995年発行)という本があります。それによると、約3000年から1600年前まで大阪平野は河内潟・河内湖といってよい大きな湖だったそうです。日下は、その湖の最も奥深い位置にあります。南より森の宮・大阪城のある長柄砂州がのび、南岸に瓜生堂・水走などがあります。たぶん長柄砂州は船を引いて湖に出たのでしょう。そして登美毘古と戦い、五瀬は手痛い矢傷を負った…。
そして「南の方から廻り…」、当時はこのような地質の知識はありませんでしたから、「船で血沼海へ出たようだが、どうして内陸の日下から…」と、これも信用できない証拠とされました。しかし砂州の突端かその対岸に、「南方」という地名があったのです。いま新大阪駅の近くに、阪急京都線「みなみがた」また地下鉄御堂筋線に「西中島南方」として残っています。方角としての「南の方」ではなく、地名としての「南方」だったのです。

 このことを踏まえ古田先生は、「この神武東進説話はリアルである」とされました。吉備あたりまでは「東進」だったようですが、鳴門海峡を越えたときから「東侵」に変わったのです。ですから「東遷」でもなく、「東征」でもないのです。
それにしても現代の学者先生たちまでが、上記のような本があるにもかかわらず、未だに科学的な神話分析をせず「うそだ、うそだ…」といっているとは…。
いかがでしたか。目からうろこ…? ありがたい。