やさしい古代史

古田武彦氏の仮説に基づいて、もやのかかったような古代史を解きほぐしていこうというものです。

邪馬壹国(1)

2006-10-30 15:26:44 | 古代史
 一世紀57年に倭(ゐ)国王が後漢(ごかん)に使いし、光武帝より「漢委奴国王(かんのゐどこくおう)」と刻まれた金印を賜りました。そして二世紀107年には、倭国帥升(すいしょう)王が生口(せいこう。軍事的捕虜))百六十人を献じて安帝に親しく見(まみ)えました。
そしてこの「倭国」を「大和(やまと)近畿天皇家」とすると、書紀によれば(古事記は当然)当時の天皇とされている垂仁や景行の記事には「後漢に使いした…」事績は何もないという矛盾を生じました。しかも万葉集などによれば、大和は七世紀後半(天智の晩年ころ)まで「山跡、夜麻登」などと表現され、「倭」が「やまと」と読まれるのはその後であると言う事実とも矛盾します。
ですから古田武彦説「七世紀終り(700年)まで、近畿天皇家に先行して筑紫(ちくし)に九州王朝があった」という仮説を導入すれば、これらの矛盾はすべて解消する…ということを述べました。つまりまだ出雲が主権者であった紀元前三百年ころより七世紀後半まで、「倭」は「ちくし」と読まれていたこととも矛盾しません。ですから九州王朝が「白村江の戦い(662年)」で唐・新羅連合軍に敗れた後、衰退していく九州王朝を横目に近畿天皇家は「倭」を「やまと」と読ませるようにしたのです。大陸や半島の国々に千年の歴史の重みをもって知られた「倭」を、取り込ま(パクら)ざるを得なかった…というところでしょうか。

 前置きが長くなりましたが、いよいよ三世紀の「倭国」です。三世紀の倭国の記録は、蜀に生まれのち魏(220-265年)に仕えそして西晋(265-316年)の史官となった陳寿(233-297年)によって280年ころ著された「三国志(魏志倭人伝)」に残されています。これはまさに、同時代史料といえます。八世紀はじめの「記紀」とは、その信憑性において比べ物になりません。
ある学者など「皇国史観」に凝り固まって、「しかし、魏志倭人伝を書いた歴史家は、日本列島に来ていない。それより約40年前に日本を訪れた使者が聞いたことを、歴史家が記していると想像されているにすぎない。また、その使者にしても、列島の玄関口にあたる福岡県のある地点にとどまり、邪馬台国を訪れてもいないし、日本列島を旅してもいない。記事は必ずしも正確とはいえず、邪馬台国が日本のどこにあったのかはっきりしていない。大和(奈良県)説、九州説など、いまだに論争が続いている。」(「新しい歴史教科書・市販本」扶桑社、2001年版)といっています。この言い方では探求する態度を放棄し、「三国志」よりも「記紀」に重きを置いています(その理由など、理由になっていないと見ますが…。しかしこの方は、動物的感で"使者は福岡県までは来た"といっています。邪馬台国大和説の先生が…、です。恐るべき直感であることは、そのうちわかりますよ)。
古田先生は定説の感のあったいままでの説を、「『邪馬台国』はなかった」という著書で完膚なきまで論破されました(わたしにはそう見えます)。この著書での主張をなぞりながら、わたしは「古田説」を紹介していくつもりです。

 ご承知のように、この「邪馬台国」論争は、長い歴史を持っています。肝心の「魏志倭人伝」には「邪馬壹国」とあるのですが、いつしか「邪馬臺国」とされ今では当用漢字で代用して「邪馬台国」とされています。岩波文庫の「魏志倭人伝」(和田・石原編)においても、本文では「邪馬壹国」とするものの注記で「壹は臺の誤り」とするだけで、何故なのかその理由はありません。
古田先生がこの改訂を遡って調べられたところ、江戸時代の松下見林という人が「異称日本伝」に引いた「後漢書」を解説した箇所において「いま按ずるに、邪馬臺国は大和国なり。…邪馬臺は大和の和訓なり」といったことが始めだったそうです。見林は、「古より倭王(天皇)は、大和で治められた」というイデオロギー皇国史観によって「魏志倭人伝」の「邪馬壹国」を捨て、「臺」が「と」と読めるのかどうか検証もせず強引に「後漢書」の「邪馬臺国」を採ったのです。確かに「後漢書」(宋の范曄が426年ころ著した)は、一般的な倭国の解説には「魏志倭人伝」を五世紀の知識で修正しながら使っています。その一つに、「魏志倭人伝」では王のいる国は女王のいる「邪馬壹国」と女王国に属している「伊都国」の二ヶ国だったのですが、五世紀では多くの王がいたらしく「(三十許国の)国、みな王を称し、世々統を伝ふ。その大倭王は、邪馬臺国に居す」とあります。范曄のいわゆる「地の文(解説文)」の中なのです。年代つき文では、前に紹介しました57年及び107年の記事がありますね。
そして後に新井白石は、この「やまと」という改訂に追従し、「やまと」といえば筑後にも「山門」がある…、といって九州説の先駆けとなりました。そしてこれまで、大体京大系の先生方は「大和説」、東大系は「九州説」として論争されているのだそうです。しかし肝心要の「魏志倭人伝」の「邪馬壹国」を捨て去った論争なんて、なんだか相撲をボクシングのマットの上で取っている…という感じがしませんか。ちぐはぐなのです。
それ以降、それぞれの説に有利になるように「倭人伝」の原文を書き換えて説明されるのです。江戸時代の見林や白石はまあよし…としましょう。しかし現代の学者先生までも、ろくな検証もせずに「やまと」と唱えられているのは…ねぇ(因みに代用した「台」は「と」と読めます。しかし…ねぇ)。隔靴掻痒になるはずです。
三世紀では「邪馬壹国」、五世紀およびそれ以降は「邪馬臺国」…これが真相でしょう。ことほど左様に皇国史観に寄りかかった「邪馬臺は大和の和訓なり」を金科玉条として、古田先生の言われる「魏志倭人伝の共同改訂」があります。それをすこし紹介しましょう。

 どの説の学者も「ここは原文の誤り」としている箇所、定説化している改訂は三ヶ所あるといわれます。
第一は地名記事で、「その道里を計るに、まさに会稽東治の東にあるべし。」にある「東治(とうち)」は「東冶(とうや)」の間違い…というものです。
第二は貢献年代で、「景初二年六月、倭の女王、大夫難升米を遣わし、郡に詣(いた)り、天子に詣りて朝献せんことを求む。」の「景初二年」が「景初三年」の誤り…とするものです。
第三は国名記事で、「始めて一海を度(わた)る、千余里。対海国に至る。…名づけて瀚海(かんかい)といふ。一大国に至る。」の「対海国」は「対馬国」の、そして「一大国」は「一支国」の誤り…というのです。
どうでもいいような誤りに見えますが、古田先生は「文献批判の方法が問題であって、これを放っておいて「倭人伝は誤りが多い」というレッテルを貼られれば、学者がいっせいに自説に都合のいいように原文をいじくり廻しはじめる…これが怖いのだ」といわれます。さて先生はどのようにして「これらの改定は、非」と論証されたのでしょう。次回はそれを見てみましょう。

古事記と日本書紀

2006-10-26 18:19:52 | 古代史
 大陸の戦国時代から前漢・後漢を通じて、我が列島は大陸の王朝より「倭・倭国」と呼ばれていたことはお話しました。縄文時代より弥生初期の末ころまで、出雲王朝の支配する半島南岸部そして壱岐・対馬を通って筑紫あたりまでを指していたようです。そして弥生中期に入ってそれまで出雲の第一の臣であった壱岐・対馬など島嶼にいた海人族は、いち早く得た銅矛・銅剣などの金属製の武器を背景に出雲に国譲りを迫り、筑紫への侵略を敢行して成功しました。それは、大陸でそれまでの宗主であった東周を秦が滅ぼしたBC249年、あるいは秦が残る諸侯を滅ぼして全土を統一したBC221年からそう隔たらないころ…、BC200年前後…と考えてもそんなに的外れではないと考えます。海人族の巫女にして女酋であった天照(アマテル)が、大陸でもそうならわが国でも…と考えてもおかしくはないでしょう。
そして弥生時代中期から後期にかけて、出雲・淡路を東限とした銅矛・銅剣の祭祀圏と、出雲・淡路を西限とした銅鐸祭祀圏があったことはご承知の通りです。出雲・淡路は、どちらの祭祀圏にも含まれていたようです。弥生時代というのはこれまで、約六百年ほど続きBC300年からAD300年ほどにあて、これを三分して初期・中期・後期と呼んでいました。しかしこれもあくまで「仮説」であったわけで、近頃弥生の初めをBC800年ころとし終わりを百年ほど繰り上げてAD200年ころ…とする説も出されました。このような時代区分はまだ定説化していないようですから、わたしのこのブログではできるだけ西暦で示すようにします。その根拠も、できるだけ納得いただけるようにして示しましょう。あくまで推測ですが、天照の孫の邇邇芸が赤子のとき筑紫侵略に成功し、成長して筑紫(の北岸あたり)を統治し、子をなし亡くなったときをBC150年ころ…としましょう。その子山幸彦またの名を穂穂手見は五百八十年統治したといいますから、実際は二百九十年…筑紫王穂穂手見が三十代から二十代続いたのです。二世紀中ごろまでの出雲ー筑紫の歴史を鳥瞰してみました。
 初めのころの女王と思われる人の筑紫の北半分ほどを征服する話が、神功(「紀」は書紀)の初めのところにあります。紹介しましょう。岩波書紀のp332です。
<また荷持田村(のとりたふれ、甘木市秋月町野鳥か…とされる)に、羽白熊鷲といふ者あり。その人となり、強く健(こは)し。また身に翼ありて、よく飛びて高く翔る。ここを以って、皇命に従わず。つねに人民をかすむ。…皇后、熊鷲を撃たむと欲して、橿日(かしひ、香椎)宮より松峽(まつをの、朝倉郡三輪町栗田か…とされる)宮に遷りたまふ。時につむじ風たちまちに起りて、御笠(みかさ)ふけおとされぬ。その所を号(なづ)けて御笠といふ。…層増岐野(そそきの、怡土郡雷山とされるが、次ぎに夜須にかかわる地名説話があるので夜須あたりか)に至りて、即ち兵を起こして羽白熊鷲を撃ちて滅(ころ)しつ。左右に謂(かた)りて曰く、「熊鷲を取り得つ。我が心、即ち安し」とのたまふ。故、その所を号けて安(夜須町あたりか、そこに安野もある)といふ。(後略)>
この神功皇后は実在が不確かな人ですが、神功記(「記」は古事記)では新羅征伐をしたことや正当な後継者に反逆したことなどが記されています。しかし神功紀では、このように翼を持ち高く翔る力のある羽白熊鷲を撃つ神話的な話(恐らく筑紫の史書「日本旧記」からの盗用)、新羅征伐や反乱の話(話の筋立ては記と同じ)、それに加えて三世紀の魏志倭人伝を引用(孫引きか?)して筑紫の女王卑弥呼・壱与の魏および西晋への貢献を記し(慎重に名を伏せてある)、百済との国交開始の話を(恐らく百済の史書「百済記」や「日本旧記」を盗用して)入れてあるのです。古田先生の云われる「橿日の女王」の羽白熊鷲討伐譚は筑紫初期の穂穂手見の事績でしょうし、六十六年条「この年、晋の武帝の泰始二年(266年)…」で始まる記事は倭人伝にある壱与の貢献を入れたものです。このように「日本書紀」では紀元前であろう話から四世紀の記事まで、ほぼ四百年にわたる話を「神功皇后」という人物の中に入れているのです。どうも胡散臭い!
 これから見ると「古事記」は、若御毛沼や配下の久米衆が東侵時に持ってきたあるいは覚えていた一つの話からなる「出雲ー筑紫にかかわる神話」を伝承させて来た…といえそうです。それに比べて「書紀」の神話は、同じような伝承と共に、後に(恐らくは筑紫滅亡後に)手に入れたおびただしい異説も記載してある史書も取り入れ、多いところでは十一種の一書(あるふみ)を併記しています。そして「神武紀」以降、つまり若御毛沼が大和の片隅橿原で自立した後は、一書群はぴったりと無くなるのです。ですから「古事記」は文学的…といわれる理由は、ひとえに伝承が素朴な姿を示しているからでしょう。八世紀(712年)に書かれたものですから記述中に「天皇」という称号は現れますが、「神武」とか「崇神」などの漢風諡号(しごう、おくりな)はありません。しかし日本書紀は「神武紀」以降、百済史料といわれる「百済記」「百済新撰」「百済本紀」など、また雄略紀二十一年条にひょっこりと顔を出す(恐らく筑紫王朝の史書)「日本旧記」の記事を取り入れて…いや盗用して、注記としたりあるいは本文化して「記」にはない記事で満たしています。なぜこのような手段をとったのか…、この答えは古田先生によれば、「古よりこの列島は近畿天皇家が統治されてきており、大陸王朝との交流も百済など半島諸国とのかかわりも、すべて近畿天皇家によるものである…という主張をせんがため…」といわれます。即ち「万世一系」の、イデオロギーの書なのです。ですから「古事記」は712年に上梓されても、720年に「日本書紀」が出来るや世に現れざるべき書「禁書」として、偶然見出される中世まで隠されたのです。「古事記」の成立の話は、次の史書「続日本紀」に何も記されていません。
取り留めのない話になりましたが、またすこし寄り道しました。ご勘弁ください。

神武東侵(進)

2006-10-25 15:57:01 | 古代史
 今回の話は、通常「神武東遷」あるいは「神武東征」といわれている神話についてです。この謂われは、兄の五瀬命と弟の若御毛沼命(後の神武天皇)はすでに日向(ひむか、宮崎県)で統治していたが、東にもっとよき地があるのでそこに都を遷す、あるいはよき地を征服する…ということから来ています。
しかし現在では「神武天皇架空説」が通説であり、よってこの神話も単なる机上で作られたお話…とされています。実在と思われる天皇は、国外史料「宋書」に現れる「倭の五王」に比定されている仁徳あるいは履中(彼らは、五世紀に実在したと考えられている)以降…ということになっています。
しかし作り話としても、日向ですでに統治者であった人が、書紀によれば大和の橿原で「始めて、天基(あまつひつぎ)草創(はじめ)たま」い、そこで「始馭天下之(はつくにしらす)天皇」と呼ばれておられることと矛盾するのではないでしょうか。なお第十代の崇神天皇も同じく「御肇国(はつくにしらす)天皇」と呼ばれており、崇神が本当の初代ではないか…との説もあるそうです。しかしこの二人の草創者…という問題は、後の回で説明しましょう。

 今回も古事記の記述を引用し、通説ではどのように解釈されどのように腑に落ちないことがあるのか、古田説ではどのように解説しているのか…を、わたしの理解している範囲で述べます。古事記中巻、p149です(岩波古事記)。

<神倭(かむやまと…とルビ)伊波礼毘古(いはれびこの)命(大和橿原で名乗った名がのっけから出ている)、その伊呂兄(いろせ、同腹の兄)五瀬命と二柱、高千穂宮にまして議(はか)りてのりたまへらく、「何地(いづこ)にまさば、平らけく天の下の政を聞こしめさむ」と。なお東に行かむと思ひて、即ち日向(ひむか…とルビ)より発たして筑紫に幸行(い)でましき。>
まずはここまで…。始めは名乗りの「神倭」。この「倭」は出雲の時代より「竺紫国」を意味していました。ですから本来「神のような竺紫から来た、いわれ(磐余)の長官」と名乗ったはずです。

 いま「竺紫」と書きました。「筑紫」と区別するためです。古事記では、前者をいまの福岡県の範囲、後者を筑紫郡あるいは大字筑紫字筑紫くらいの狭い範囲として使い分けているのです。「天孫降臨」の説明のとき、「竺紫の日向の高千穂の久士布流多気に天降りまさしめき。」と書いたことを覚えておいででしょうか。ですから「高千穂宮」は、前原市にある高祖神社でしょうね。
これでお分かりのように、二人の出発地は「日向(ひむか、宮崎県)ではなく福岡市西区と前原市の境一帯の日向(ひなた)だったのです。いま日向峠や日向川がありますね。
ですから日向より筑紫へ行ったことは、方角的にも違和感はありませんし、また筑紫王の宮殿が字筑紫あたりにあったと考えればお別れの挨拶に行った可能性も捨て切れません。まんざら根拠のない推測…でもないと思っています。なお「天の下」とは漢語の「天下」ではなく、「天降った先」という意味なのです。

 そして二人は豊国の宇佐に行き、次ぎに竺紫の岡田(遠賀郡芦屋)に一年(実際は半年)、またそこより移って安芸の多祁理(たけりの)宮に七年(三年半)、次ぎに吉備に行き高島宮に八年(四年)いた…といいます。
これより見れば、二人は始めから大和侵入を考えていたわけではなく、単に閉塞感を覚える竺紫を出て東のほうに自分たちの土地を持ちたいと考えていただけではないか…、古田説ではそのように考える方もおられます。
そのあとを見てみましょう。しかしやはりそのような地はなかった…。そこで実質八年の回り道の後、率いる久米の衆と吉備の衆と共に、もっと東にあるうまし地への侵入を決意した…、と考えます。

<故、その国(吉備)より上りいでまししとき、亀の甲(せ)に乗りて、釣りしつつ打ちはぶき来る人(羽ばたきして来る人)、速吸門(はやすひのと)に会ひき。ここに呼びよせて「汝は誰ぞ」と問ひたまへば、「僕(あ)は国つ神ぞ」と答へ申しき。また「汝は海道を知れりや」と問ひたまへば、「よく知れり」と答へ申しき。また「みともに仕へまつらむや」と問ひたまへば、「仕へまつらむ」と答へ申しき。故、ここにさおを指し渡して、その御船に引き入れて、即ち名を賜ひて、槁根津日子(さをねつひこ)と号(なづ)けたまひし。>
この「速吸門」を岩波古事記では次のように解説してあります。
「豊予海峡。古事記は東征の順路が違っている。書紀が速吸之門を宇佐の前においているのがよい」と。つまり、大分の佐賀関半島と愛媛の佐田岬半島との間の海峡だ…というのです。この解説が正しいとすると、日向より筑紫へ行き海峡より北にある宇佐に出る…という順路はおかしいことになります。しかもこの海峡とすると、二人が日向(宮崎)より竺紫へ行くときいつも通る海峡ということでしょうから、熟知している海峡ではないでしょうか。槁根津日子(書紀によれば、本名を珍彦(うづひこ)というそうです)という水先案内が必要でしょうか。

 古田先生はこの海峡は「豊予海峡」にあらず、淡路島の南端あの大渦潮で知られる「鳴門海峡」である…とされました。そうであればこそ、この大渦潮をよく知る現地の漁師の案内が必要なのです。槁根津日子の本名が「珍彦つまり渦彦」であることも、このことを暗示していたのです。
淡路島の北にある明石海峡でもだめです。そこは侵入しようとする地の主権が及んでいるところであり、すぐ見つかってしまうでしょう。鳴門海峡を通る危険を冒したからこそ、侵入に成功したのです。八世紀の「書紀」を編纂した大和の史官たち(舎人親王ら)は、当時の土地勘よりして賢しらに伝承を修正したのでしょう。「古事記」のほうが、五、六百年前の伝承を正しく伝えているようです。

 続きを見ましょう。p151です。
<故、その国より上り行きまししとき、浪速(なみはや、難波)の渡りを経て、青雲の白肩津(しらかたのつ)に泊(は)てましき。この時、登美能(とみの)那賀須泥毘古(ながすねひこ)、軍を興して待ち向へて戦ひき。ここに御船に入れたる楯を取りて下り立ちたまひき。故、そこを号(なづ)けて楯津といひき。いまに、日下(くさか)の蓼津といふ。ここに登美毘古と戦ひたまひしとき、五瀬命、御手に登美毘古が痛矢串を負ひたまひき(ひどい矢傷を負われた)。故、ここに詔(の)りたまひしく、「吾は日の神の御子として、日に向かひて戦ふことよからず。故、賤しき奴が痛手を負ひぬ。いまより行きめぐりて、背(そびら)に日を負ひて撃たむ」と期(ちぎ)りたまひて、南の方より廻りいでまししとき、血沼(ちぬの)海に到りてその御手を洗ひたまひき。故、血沼海といふなり。(後略)>
さて、この話こそ神話が信用できない証拠…と江戸時代より今に至るまで言われています。
まず上陸した地が「日下の蓼津」…。いまの東大阪市日下町、日下川のあたりになります。一キロほど南には石切剣箭神社もある生駒山麓で、大阪平野の東端に当たります。江戸時代には、「どうしてこんな内陸に船で行けるのだ」と…、だから作り話だ…としていました。
しかしわたしの手元に「大阪平野のおいたち」(梶山彦太郎・市原実共著、青木書店、1995年発行)という本があります。それによると、約3000年から1600年前まで大阪平野は河内潟・河内湖といってよい大きな湖だったそうです。日下は、その湖の最も奥深い位置にあります。南より森の宮・大阪城のある長柄砂州がのび、南岸に瓜生堂・水走などがあります。たぶん長柄砂州は船を引いて湖に出たのでしょう。そして登美毘古と戦い、五瀬は手痛い矢傷を負った…。
そして「南の方から廻り…」、当時はこのような地質の知識はありませんでしたから、「船で血沼海へ出たようだが、どうして内陸の日下から…」と、これも信用できない証拠とされました。しかし砂州の突端かその対岸に、「南方」という地名があったのです。いま新大阪駅の近くに、阪急京都線「みなみがた」また地下鉄御堂筋線に「西中島南方」として残っています。方角としての「南の方」ではなく、地名としての「南方」だったのです。

 このことを踏まえ古田先生は、「この神武東進説話はリアルである」とされました。吉備あたりまでは「東進」だったようですが、鳴門海峡を越えたときから「東侵」に変わったのです。ですから「東遷」でもなく、「東征」でもないのです。
それにしても現代の学者先生たちまでが、上記のような本があるにもかかわらず、未だに科学的な神話分析をせず「うそだ、うそだ…」といっているとは…。
いかがでしたか。目からうろこ…? ありがたい。

筑紫王朝の後漢への貢献

2006-10-24 16:03:55 | 古代史
 わたしは前回「そして次の葺不合に、筑紫王朝の王統は引き継がれます。」と書いてしまいました。これは間違いでした。ここに、取り消します。葺不合は、記紀などの記述からすると王統につながる人物ではあるが決して本流ではありません。対馬の北端の海岸べりの長官でしかない、傍流なのです。ですからその息子たち、五瀬(いつせの)命と若御毛沼(わかみけぬの)命が、「東へ行ってみよう」と筑紫を離れる意味がよくわかります。
 この詳細は後に譲るとして、今回は筑紫と後漢との関連についてお話しましょう。「後漢書」です。先の「金印『漢委奴国王』」で紹介しましたように、倭国は後漢の光武帝の晩年に使いしました。
<建武中元二年(57年)、倭奴国、奉貢朝賀す。使人、自ら大夫と称す。倭国の南界を極めるや、光武、賜うに印綬を以ってす。>(後漢書東夷伝)
このときの倭王は、何代目の「穂穂手見」だったのでしょうか。「後漢書」は三国(魏・呉・蜀)時代の前の王朝(後漢、25-220年)の史書ですが、宋の史官范曄(はんよう、398-445年)が426年ころ著したものです。後漢が滅びた二百年ほど後にできたのです。ですから一般の記事はほとんど西晋(265-316年)の陳寿(ちんじゅ、233-297年)が280年ころ著した「三国志(魏志倭人伝など)」を、五世紀当時の知識で改変しながらも踏襲しています。しかしこの「建武中元二年」の記事は、現に金印が発見されたことにより信憑性の高さが証明されたのです。自ら称した「大夫」とは何でしょうか。それは「周(西:BC1027-BC771年、東:BC771-BC249年)」の諸侯に対する爵位「卿・大夫・士」だったのです。周の天子より見て皇族や上位の臣および直属する夷蛮の王(倭王も含む)が「卿」、その臣で政に携わるものが「大夫」そして武人が「士」なのです。その遺制が周が滅び後漢の時代になっても、遠い東夷の国にあったのです。まさに文化のドーナツ現象であり、後漢の天子や百僚は驚いたことでしょうね。
そして「南界を極めるや…」とはどのような意味でしょうか。たぶん、初代の邇邇芸から二百年以上経つと、九州島北岸の地より熊曽の国つまり建日別あたりまで筑紫の王「穂穂手見」の支配下に入った…ということでしょうか。絶対年代はわからないのですが、書紀の景行天皇の十二年条に「九州東部…大分県や宮崎県それに鹿児島県東などの討伐譚」とも言っていい話があります。つまり西側…鹿児島県西や熊本県など有明海沿岸は、討伐の対象から外れているのです。本当に景行の討伐譚であれば日向(宮崎県)に来たとき「おー、父祖の出発の地へ来た…」などの感嘆があってよさそうですが、何もなく冷たいものです。この話は古事記にはないので、古田先生は九州王朝の史書「日本旧記」より盗って挿入されたもの…と言っておられます。その中に、次の歌があるのです。p295-296です。
<秋七月の…、筑紫後国(みちのしりのくに)の御木(みき)に到りて、高田行宮(かりみや)にまします。時に倒れたる樹あり。長さ九百七十丈。百僚、その樹をふみて往来(かよ)ふ。時人、歌(うたよみ)して曰く、
  朝霜の 御木のさ小橋 魔弊菟耆瀰(まへつきみ) い渡らすも 御木の小橋 (後略)>
通説では「まへつきみ」を「群臣」とし単なる重臣にしていますが、その後の「い渡らすも」という荘厳な言い回しからすると、「前つ君」はつまり筑紫の王であり百僚打ちそろって凱旋を御木まで出迎えている様子です。その本拠地は「前なる地」、今の「前原(まえばる)」ではないだろうか…と言われました。語源は「前」、「-原」は福岡県に多い接尾語だからです。もし「南界を極めた」事件が史書に記録され、それを書紀が景行のところに盗用したとすれば(歴史を仮定でしゃべるのはルール違反ですが)、南界を極めた征服戦は一世紀前半…ということになります。まあ、ちょっとした遊び、ロマンと思ってご勘弁ください。
 それより五十年ほどしたとき、今度は王自ら天子に見(まみ)えたようです。
<安帝の永初元年(107年)、倭国王帥升(すいしょう)ら、生口(せいこう、戦で得た捕虜)百六十人を献じ、請見を願う。>(後漢書東夷伝)
始めて倭王の名「帥升」が記録されました。この捕虜は、安芸や吉備との戦で得たのでしょうか。いや、あまり推測はしますまい。しかしまあ百六十人とは、捕虜の身にはなんとも気の毒ですが、豪勢なものです。そして倭王自ら後漢の都洛陽に行ったことがわかるのは、「請見」の文字です。これは「会うことを請う、面会を求める」意味ですから、帥升王自ら天子と見えたことがわかるのです。この頃になれば、筑紫王朝のあらゆる制度…、例えば身分制、政治の仕組み、軍制、領地の分割等々が固定してきたのではないでしょうか。国内が安定していなければ、筑紫を留守にして王が洛陽へ赴くことなぞ出来るはずはないからです。これは、まんざらでたらめな推測ではないと思われます。この帥升王は、何代目の「穂穂手見」でしょうか。
 日本書紀によれば、57年は垂仁のとき、107年は景行のときにあてられています。しかしどこを見ても、彼らが後漢へ使いした…などは見出せません。史書「日本旧記」には書かれてあったのでしょうが、九州島討伐譚のみを盗用し、後漢への使いは盗用しようにも実感がわかず諦めたのでしょうか。これを見ても、「倭国」は大和にあらず、筑紫としたほうがすんなりと理解できる…でしょう。神話によれば、大国主が島伝いに「倭国」に上り胸形の多紀理毘売と結婚することからも「倭」は筑紫であり、権力は「国譲り、天孫降臨」によって出雲から筑紫に移ったことは明白ですし、やはり後漢に使いした倭国は筑紫にあったのです。これで一つの仮説「古田説」が成立することが証明されましたね。次回はすこし寄り道をして、「神武東進・侵」のお話をしましょう。では…。

新生筑紫と王統

2006-10-23 15:16:13 | 古代史
 前回の天孫降臨つまり筑紫征服はすんなり成功したように見受けられますが、実際は激しい抵抗を受けたに相違ありません。その証拠は、まず遺跡です。縄文水田の板付(恐らく出雲時代は白日の国)は深い環濠を持った城塞都市だったそうですし、また弥生早期より終期にかけて機能していた吉野ヶ里(同じく聖=日尻の国)もまた深く大きい環濠都市であったことはご承知の通りです。
次ぎに文献です。後の時代ですが、若御毛沼(わかみけぬの)命(神武天皇と諡された人)が熊野から吉野を通り橿原に拠点を設けるまでの戦闘歌に、筑紫征服戦争の時のものと思われる歌があります。一例を挙げてみましょう。p159です。
  意佐加(おさか)の 大室屋に 人多(さわ)に 来入りおり 人多に 入りおりとも 
   みつみつし(雄雄しい) 久米の子が 頭椎(くぶつつい) 石椎持ち 撃ちてしやまむ (後略)
通説では「おさか」を「忍坂(おしさか)」とし大和磯城郡忍坂村としていますが、古田先生は「御坂」であり背振山系がゆるやかに有明海に落ちていく「坂」ではないか…とされました。そして「大室屋」とは、まさに環濠に囲まれた吉野ヶ里城塞都市…とされたのです。そこには大勢の出雲軍が待ち構えていたのです。そして「久米の子」とは通説の如く「久米という部族の者ども」ではなく、邇邇芸に高天の原から随伴し後志摩(糸島半島の北部)の地に定着した久米部族の兵たちでしょう。筑紫征服時に歌った歌を、苦しい熊野行のとき士気を鼓舞するために思い出したのでしょう。次は「日本書紀」にある歌ですが、紹介しましょう。p204です。
  愛彌詩(えみし)を 一人(ひだり) 百(もも)な人 人は云へども 抵抗(たむかひ)もせず
「えみし」…何という美しい表現でしょうか、「愛彌詩」…。書紀の表現「夷」とは大違いです。「えみしは一人当千のつわものと人は云うが、われら海人の兵には手向かいもしないではないか」という、少々自慢げな歌ですね。「東日流(つがる)外三郡誌」という江戸時代の本に、「われらの祖は賊に追われ逃げてきたが、水田での稲作技術を伴なって来られた…」とあることから、「えみし」とは板付水田に携わっていた人々ではないか…と言われています。ですからこの歌は、海人の兵が板付環濠城塞都市を攻撃したときの歌であり、それを熊野での戦のときに思い出したのでしょう。
 さて邇邇芸らは、博多湾を中心として東は宗像あたりまで、西は唐津あたりまでの海岸に沿った安住の地を得たようです。そして成長した邇邇芸は、御笠の地で美しい娘に会います。p131を見てみましょう。
<ここに「誰が女(むすめ)ぞ」と問ひたまへば、答へ申ししく、「大山津見の神の女、名は神阿多都(かむあたつ)比売、またの名は木花之佐久夜(このはなのさくや)毘売という」と申しき。また「汝の兄弟(はらから)ありや」と問ひたまへば、「我が姉、石長(いはなが)比売あり」と答へ申しき。(後略)>
父の大山津見神は姉と妹の二人を差し出そうとしますが、姉の石長比売が醜い…ということで妹のみを召されます。古田先生は、この石長比売は縄文の象徴…とされました。例えば、御笠山(宝満山)の頂上には巨石があることは知られています。巨石信仰…、これこそが縄文の象徴なのです。この話は、「今より巨石信仰をやめ、新しい信仰…銅矛を祭祀のシンボルとする」という宣言だったのです。さて邇邇芸命が亡くなったとき、日本書紀によれば次の場所に葬られました。p142です。
<よりて、筑紫日向可愛の山陵に葬りまつる。>
通説ではこれを「つくしのひむかのえ」と読み、筑紫を九州島とし日向を宮崎県、そして可愛を延岡市の北方にある可愛岳か…としています。古田先生は、筑紫はやはり今の福岡県であり、日向は福岡市と前原市の境にある高祖山・日向峠・日向川の一帯を指し、可愛とは「え」ではなく「川合い」であろうとされました。つまり日向川と室見川が出合うところ、即ち三種の神器を伴なう最も古い「吉武高木遺跡」が邇邇芸命の陵墓であろう…とされたのです。これであれば、三種の神器の片鱗さえない宮崎県などとせずとも素直に理解できますね。
 この木花佐久夜毘売は、火照(ほでりの)命つまり海幸彦・火須勢理(ほすせりの)命および火遠理(ほをりの)命つまり山幸彦を生みます。山幸彦のまたの名を、天津日高日子穂穂手見(ほほでみの)命といいます。そして海幸彦と山幸彦が争い、海の神である綿津見(わたつみの)神がたまわった塩盈珠(しほみつたま)と塩乾珠(しほふるたま)を使って山幸彦が王統を継ぐことになりました。竜宮城と乙姫さまのおとぎ話の原型でしょうか。そして山幸彦は海神の娘豊玉毘売(とよたまひめ)を娶り、天津日高日子波限建(なぎさたけ)鵜葺草(うがや)葺不合(ふきあえずの)命を生みます。豊玉姫の出身地は、対馬の中央浅茅湾の北岸にある豊玉ではないかといわれています。また葺不合命は、対馬北端の比田勝の海岸あたりの長官という地位を与えられ、どうやら「鵜葺草」という姓(かばね、職制を表す)を持っていたのではないか…ともいわれています。天皇家は氏(うじ、物部や大伴などの苗字)も姓もない…というのが通説ですが、どうやら初めは姓はあったようですね。
 山幸彦つまり穂穂手見命は、長く統治されました。p147です。
<故、日子穂穂手見命は、高千穂の宮に五百八十歳ましき。御陵は即ちその高千穂の山の西にあり。>
通説ではこの高千穂の山を日向(宮崎県)の霧島山としていますが、あの辺りには隼人墓はあるものの、それは九州北部の墓とは全然違います。高祖連山の形容詞であった高千穂をまるで固有名詞の如く使い、よって「高千穂の宮」とはすなわち高祖宮ではないでしょうか。その西には、曽根・三雲・井原・平原などの三種の神器を伴なう王墓があります。そのうちのどれかが、穂穂手見の陵墓でしょう(三雲南小路遺跡か)。この580年の統治…とは、どのような意味でしょう。当時は、今の一年を二年と数えた「二倍年暦」の時代だったようです。三世紀に書かれた陳寿(ちんじゅ)の「三国志魏志倭人伝」に、五世紀宋の史官裴松之(はいしょうし)が注をしているのですが、それに<その人寿考、あるいは百年、あるいは八、九十年。(裴注:魏略に曰く、その俗正歳四節を知らず。ただ春耕秋収を計りて、年紀となす。)>とあり、春の種まきから秋の取入れまでを一年、その逆を一年…としていたようです。ですから580年は、即ち290年…。統治の平均を10年とすれば約30人、15年とすれば20人ほどの穂穂手見がいたことになります。ですから「穂穂手見」とは、後の「天皇」などに匹敵する称号だったのかも知れませんね。そして次の葺不合に、筑紫王朝の王統は引き継がれます。
 あくまでわたしの推測ですが、紀元前200年ころ赤ん坊の邇邇芸が筑紫を征服したとすれば、亡くなったのは紀元前150年ころか…。次の穂穂手見が290年統治したのだから、亡くなったのは紀元140年前後…。葺不合は、150年ころか…と考えられます。まあ、楽しい推理の範囲ですが…。では、また。