やさしい古代史

古田武彦氏の仮説に基づいて、もやのかかったような古代史を解きほぐしていこうというものです。

九州王朝衰退への道(7)

2007-04-29 15:40:00 | 古代史
『夏の海戦』
 九州王朝は大部隊を派兵し、いよいよ唐・新羅の連合軍に決戦を挑みます。陸での戦いはいまだ決着はついておらず、この海軍の戦いが運命を決めそうです。
では、書紀を見てみましょう。

 天智紀二年(663年、旧唐書年で662年)の初め、田来津らが戦っている陸では新羅の猛攻を受け、再び堅固な要塞である州柔城へ還りましたね。
<三月に、前将軍上毛野(かみつけの)君稚子(わかこ)・間人(はしひと)連大蓋、中将軍巨勢神前(こせのかむさき)臣訳語(をさ)・三輪君根麻呂、後将軍阿倍引田臣比羅夫・大宅(おほやけ)臣鎌柄(かまつか)を遣わして、二万七千人を率いて、新羅を打たしむ。
夏五月の…に、犬上君(本注:名をもらせり)馳せて、兵事を高麗に告げて還る。糺解(くげ。豊章のこと)を石城(忠清南道扶余の東南にある石城里)に見る。糺解、よりて福信が罪を語る。>(天智紀二年条、663年。旧唐書年で662年)
三軍編成の軍を率いる将軍らが、示されています。この二万七千の兵士らは、九州王朝の天子幸山の下知により集まって来たのでしょう。大豪族とはいえ地方の主権者の一人でしかない大和王朝が、全国に下知できるはずはありませんから…。
その証拠に、第一軍を率いる上毛野君とは、人麿が明日香皇子の挽歌に歌った背面の国・毛人の国である吾妻の上毛野国の豪族でしょう。大和にも下知は届いていたのでしょうが、中大兄皇子(天智)は母の足姫(斉明)の死を奇貨として大和に引き上げているのです。
この六人の将軍は、すべて九州王朝の息のかかった人々のはずです。その証拠に、生き延びてあと大和に仕えたであろう間人連大蓋と阿倍引田臣比羅夫を除いて、岩波書紀は「他に見えず」と注記しています。上毛野君は、先にいいましたように吾妻の豪族…。間人連は、本拠がどこか分かりません。巨勢神前臣は、肥前(佐賀市巨勢町から吉野ヶ里のある神埼あたり)の豪族ではないでしょうか。三輪君は筑紫三輪の豪族にして、「君」姓よりして天子の一族かもしれませんね。阿倍引田臣は、斉明紀四年条に「越国守」とあります。しかし彼も、筑紫の臣でしょう。大宅臣も、その出身地は不明です。
 そして五月に、二万七千の一人と思われる犬上君が高句麗へ使いします。戦闘部隊を率いる将ではなく、「君」姓を持つ参謀のような役目でしょうか。大和の臣でない証拠に、名がわからない…と。九州王朝は出兵したぞ、高句麗も備えよ…とか伝えたのでしょうか。その折豊章と会いました。百済陣内に生じていた不協和音について、豊章は犬上君に愚痴をこぼしたようです。

<六月に、前将軍上毛野君稚子ら、新羅の沙鼻(・)岐奴江、二つの城を取る。百済の王豊章、福信が謀反(きみかたぶ)くる心あるを疑いて、革を以って掌をうがちゆわう。…(中略)王、健児(力のある兵士)を勒(ととの)えて、(福信を)斬りて首を醢(すし、しおから)にす。
秋八月の(13日)に、新羅、百済王の己が良将を斬れるを以って、直に(百済)国に入りてまず州柔(つぬ)を取らむことを謀れり。ここに百済、賊(新羅)の計る所を知りて、諸将に謂(かた)りて曰く、「いま聞く、大日本国の救将廬原(いほはら)君臣、健児万余を率いて、まさに海を越えて至らむ。願はくば、諸の将軍らは、予め図るべし。我自ら往きて、白江(はくこう。錦江の河口付近)に待ち饗(あ)へむ」という。(17日)に、賊将、州柔に至りて、その王城を囲む。>(天智紀二年条)
6月に上毛野君稚子らは、進撃して二つの城を抜きました。一方百済軍内では、ついに豊章が猛将福信を斬る…という事態になりました。せっかくの九州王朝の援軍も、肝心な百済が内紛を起こして弱体化するようでは、士気にも響きます。案の定新羅に付け入る隙を与え、堅固な州柔まで囲まれました。
廬原君は筑紫の将軍でしょうが、海軍を率いているようです。それで豊章は州柔を捨て、白江に行って廬原君の軍と合流をもくろんだようです。
州柔にいた田来津ら五千の兵も、上毛野君らに率いられた万余の陸軍も、とりあえず豊章の百済軍と行動を共にして白村江に来て、そこに停泊していた自らの軍船に乗り込んだのでしょう。

 さて、上記の続きです。陸戦と海戦が、混在して書かれているようです。
<大唐の軍将、戦船一百七十艘を率いて、白村江に陣烈(つらな)れり。(27日)に、日本の船師(海軍、海兵)のまづ至る者と、大唐の船師と合い戦う。日本不利(ま)けて退く。大唐、陣を堅(かた)めて守る。(28日)に、日本の諸将と、百済の王と、気象(あるかたち。両軍の船の陣立てとか戦闘のための状況とか)を観ずして、相謂(かた)りて曰く、「我ら先を争はば、彼、自ずから退くべし」という。更に日本の伍(つら。軍の隊列、船団の陣立て)乱れたる中軍の卒を(三輪君根麻呂が?)率いて、進みて大唐の陣を堅くせる軍を打つ。大唐、即ち左右より船を挟みて囲み戦う。須臾(とき、しゅゆ。短い時間、ほんの少しの間)の際(ま)に、官軍(書紀の謂い、九州王朝軍)敗続(やぶ)れぬ。水に赴(おもぶ)きて溺れ死ぬろ者衆(おほ)し。艫舳(へとも)廻旋(めぐら)すこと得ず。朴市田来津、天を仰ぎて誓い、歯を食いしばりて嗔(いか)り、数十人を殺しつ。ここに戦死せぬ。この時に百済の王豊章、数人と船に乗りて、高麗に逃げ去りぬ。
九月の(7日)に、百済の州柔城、始めて唐に降る。この時に国人相謂りて曰く、「州柔降りぬ。こと如何にということ無し。百済の名、今日に絶えぬ。…(中略)(24日)に、日本の船師(海兵)、及び佐平余自身・達率木素貴子・谷那晋首・憶礼福留、併せて国民(くにのたみ)ら、弖礼城に至る。明日(25日)、船発ちて始めて日本に向かう。>(天智紀二年条)
これが「夏の海戦」の戦闘情景です。日を追って、淡々と記述されています。なんだか、映画かTVのドラマを見ているような錯覚に陥ります。
8月27日に軍船同士の小競り合い、28日の無謀な突入(突撃?)、何度試みられたか不明ですが…、結局大敗! われ先に突入するものですから、味方の船同士が団子状になったのではないでしょうか。そこを左右から挟まれ、矢や火矢などを射掛けられた! どうもこの記述から、唐の軍船は大きく、筑紫の戦闘船は小型ではなかったのかと思われます。田来津も戦闘船に乗って、数十人も殺した…のでしょうか。矢に当たったたり、軍船が燃えてしまったり、揺れる小船にバランスを崩して海に落ちて溺れ死ぬものが多かった…と。白村江(はくすきのえ)の海は、赤い血で染まったのでしょう。
九州王朝の救援軍の大敗を尻目に、百済王豊章は供の数人とうまく高句麗に逃げ去ったようです。
 9月に入って7日には、ついに陸戦でも州柔城を落とされてしまいました! そして百済の敗残兵や新羅の支配を潔しとしない民らは、九州王朝軍の生き残りと共に9月25日に「日本(九州の筑紫)」へ向かった…と。

 660年(あるいは661年)9月の田来津ら五千の兵の派遣、662年3月の上毛野君稚子らに率いられた二万七千の本隊の派兵…。「冬の陸戦」のときの臨場感あふれる田来津の諫言、「夏の海戦」の戦闘状況の描写…。これらは全て、海陸の戦に生き残って筑紫に帰り、あと大和に仕えた人々の供述に基づいたものと考えます。大和の中大兄皇子(天智)は、母足姫(斉明)の死を奇貨として(大和の軍と共に)引き上げてしまったのですから…。
大和は参戦していない…という証拠を、あと・次回で紹介します。

 この戦いを、唐側から見た記録です。
<(劉)仁軌、倭兵と白江の口に遇う。四戦して捷(か)ち、その船四百艘を焚(や)く。煙燄(煙やほのお)天に漲(みなぎ)り、海水みな赤となす。賊衆大いに潰(つい)え、(百済王)余豊身を脱して而して走る。その宝剣を獲る。偽王子(偽といったのは唐の名分で、滅んで無くなった百済の王子だから)扶余忠勝・忠志ら、士女及び倭衆並びに耽羅国使を率い、一時に並び降る。百済諸城、みなまた帰順す。>(旧唐書劉仁軌伝)
ここで戦った相手を「倭兵、賊衆、倭衆」などと呼んでいます。「旧唐書」には、「倭国伝」と「日本国伝」があるといいましたね。前者は「九州王朝」を指し、後者が列島の主権者になったあとの「大和」だとも…。ですから劉仁軌伝」における「倭」は、あくまで「九州王朝」であることはご理解いただけたでしょうか。
しかし四百艘を失うとは…。前に紹介しました「倭国伝」には、陸戦・海戦とも記録はありません。残念?です。

 次に、百済伝を見てみましょう。
<龍朔二年(662年)七月、(扶余豊)また使いを遣わして高麗及び倭国に往かしめ、兵を請ひて以って官軍(唐軍のこと)を拒(ふせ)がしむ。(劉)仁軌、扶余豊の衆に白江の口に遇い、四戦みな捷(か)つ。その船四百艘を焚(や)き、賊衆大潰す。扶余豊、身を脱して走る。偽王子、夫余忠勝。忠志、士女及び倭衆を率いて並びに降る。百済諸城、みなまた帰順す。孫仁師(左威衛将軍)と劉仁願(郎将)らと、振旅して帰る(凱旋した)。>(旧唐書百済伝)
ここでも「倭国、倭衆」がありますが、いずれも「九州王朝、その将兵」を指すことは自明ですね。

 ついでに唐と組んで戦った新羅の文武王が、ほぼ十年後の671年に唐へ出した報告書も見てみましょう。
<このとき倭国の船兵、来たりて百済を助く。倭船千艘、留まりて白沙にあり。百済の精騎(選りすぐりの騎兵)、岸の上(ほとり)にて船を守る。新羅の驍騎(ぎょうき。強く猛々しい騎兵)、漢(唐のこと)の前鋒となり、先に岸の陣を破る。周留城(州柔城のこと)肝を失い、遂に即ち降下す。>(三国史記新羅本紀)
これによれば、九州王朝の軍船は千艘…。27,000+5,000の兵が乗り込んでいたとすれば、単純計算で(武器や食料も積んでいたと見て)一艘に40人から50人ほどが乗れる大きさの船…となります。
 最近の新聞によれば、四世紀始め(古墳時代初期)の遺跡から出土した線刻画を元に復元が進んでいた古代船が完成し、この4月29日に兵庫県新温泉町の諸寄港で進水式を迎える…そうです。この実物大の古代船は、全長約11メートル・幅約1.5メートルそして高さは約2.2メートルあるそうで、漕ぎ手8人が乗り込むことが出来るそうです。この船は「準構造船」だそうですから、七世紀の「夏の海戦」では40-50人乗りの「構造船」だったかもしれません。
最終的には今年10月にオープンする「県立考古博物館(兵庫県播磨町)」に展示されるそうですから、皆さんぜひ見に行ってください。
進水式のあと県立香住水産高校のボート部の8人が漕いで港内を回るそうです。これも見てみたいなー。

 さて参考に、次も見てみましょう。
<劉仁軌及び別帥杜爽(とそう)・夫余隆(唐に担がれた百済の王子)、水軍及び粮船(食料を積んだ船)を帥(ひき)い、熊津江より白江に往き、以って陸軍と会し、同じく周留城に趨(せま)る。倭人と白江の口に遇い、四戦してみな克(か)ち、その船四百艘を焚く。煙炎、天を灼(や)き、海水丹(たん。赤い色)となれり。>(三国史記百済本紀)

 この「夏の海戦」で、九州王朝は再起不能となるまで打ちのめされ、国の息の根を止められたようです。
明日香皇子も戦死し、天子幸山も行方知れずになっていました。恐らく筑紫の伝統に従い、天子自ら軍の先頭に立って戦っていたでしょうから…。
因みに万葉集には、柿本朝臣人麿が、幸山の母や后が嘆き悲しむ心を詠んだ歌があるそうです。いつか古田先生の著書より、それらを紹介しましょう。

 この敗戦により、九州王朝は衰退に向かいます。しかし名目上にせよ、700年まではその命脈を保ちました。
そして大和王朝は、701年に唐の則天武后にこの列島の主権者である…と認められ、本来九州年号の「大化七年」である年に「大宝元年」と元を建てたのです。
ようやく「建元の権利」を、大和は持ったのです。そして、いまの「平成」まで続いているのです。

 さて次回は、「冬の陸戦、夏の海戦」で大敗を被った九州王朝を横目に、大和内の喜びようを眺めてみましょう。

九州王朝衰退への道(6)

2007-04-27 13:55:56 | 古代史
『冬の陸戦』(続き)
 少し寄り道をして、楽しいお話をしましょう。古田先生の著書、「壬申大乱」(p77~。東洋書林、2001年10月刊)によります。

 ――万葉集中の「白眉」をなす人麿作歌がある。それは今問題の「壬申の乱」を歌い上げた雄編とされている。(改行)確かにその全分量は万葉集中でも最大だ。しかも、作者が何し負う人麿というのである。万葉集を代表する名歌と称しても過言ではあるまい。(改行)そして事実、壬申の乱を正面から論ずる諸家、日本古代史学の専門家こぞって、この歌を掲示し、有名な壬申の乱を語る、いわば「生き証人」のように扱ってきたのである。(改行)それは天武天皇の子、高市皇子に対する挽歌だ。(改行)長いけれど、重要な史料として、その全文をあげよう。巻第二である(万葉199番歌)。
   (…ただし解説では短歌は省略します。)( )内は筆者

  高市皇子(たけちのみこ)尊の城上(きのへ)の殯宮(あらきのみや)の時、柿本朝臣人麿の作る歌 一首並びに短歌

 かけまくも ゆゆしきかも 言はまくも あにや畏(かしこ)き 明日香の
 真神(まかみ)の原に ひさかたの 天つ御門(みかど)を かしこくも
 定めたまひて 神さぶと 磐隠(いはがく)ります やすみしし
 わご大王(おほきみ)の きこしめす 背面(そとも)の国の 真木立つ
 不破(ふは)山越えて 狛剣(こまつるぎ) 和蹔(わざみ)が原の
 行宮(かりみや)に 天降(あも)り座(いま)して 天の下
 治めたまひ 食(を)す国を 定めたまふと 鶏(とり)が鳴く
 吾妻の国の 御軍士(みいくさ)を 召したまひて ちはやぶる
 人を和(やは)せと 服従(まつろ)はぬ 国を治めと 皇子ながら
 任(よさ)したまへば 大御身(おほみみ)に 太刀取り帯(お)はし
 大御手(おほみて)に 弓取り持たし 御軍士を あどもひたまひ
 齊(ととの)ふる 鼓の音は 雷(いかづち)の 声(おと)と聞くまで
 吹きなせる 小角(くだ)の音も 敵(あた)見たる 虎がほゆると
 諸人(もろびと)の おびゆるまでに 捧げたる 幡のなびきは 冬ごもり
 春さり来れば 野ごとに 着きてある火の 風の共(むた)
 なびくが如く 取り持てる 弓弭(ゆはず)の騒ぎ み雪降る
 冬の林に つむじかも い巻き渡ると 思ふまで 聞きの恐(かしこ)く
 引き放つ 矢の繁けく 大雪の 乱れて来れ 服従(まつろ)はず
 立ち向ひしも 露霜(つゆしも)の 消(け)なば消ぬべく 行く鳥の 
 あらそふ間(はし)に 度会(わたらひ)の 齋(いつき)の宮ゆ
 神風に い吹き惑(まど)はし 天雲(あまくも)を 日の目も見せず
 常闇(とこやみ)に 覆ひたまひて 定めてし 瑞穂(みずほ)の国を
 神ながら 太敷きまして やすみしし わご大王の 天の下
 申したまへば 万世(よろずよ)に 然しもあらむと 木綿(ゆふ)花の
 栄ゆる時に わご大王 皇子の御門を 神宮に 装(よそ)ひまつりて
 使はしし 御門の人も 白栲(しろたへ)の 麻衣着(あさころもき)
 埴安(はにやす)の(1) 御門の原に 茜さす 日のことごと 
 鹿(しし)じもの い匍ひ伏しつつ ぬばたまの 夕べになれば 大殿を
 ふりさけ見つつ 鶉(うずら)なす い匍ひもとほり 侍(さもら)へど
 侍ひ得ねば 春鳥の さまよひぬれば 嘆きも いまだ過ぎぬに
 憶(おも)ひも いまだ尽きねば 言(こと)さへく 百済の原ゆ
 神葬(はぶ)り 葬りいまして 麻裳(あさも)よし 城上の宮を(2)
 常宮(とこみや)と  高くまつりて 神ながら 鎮(しづ)まりましぬ
 然れども わご大王の 万世と 思ほしめして 作らしし 
 香具山の宮(3) 万世に 過ぎむと思へや 天のごと ふりさけ見つつ
 玉だすき かけて偲(しの)はむ 恐(かしこ)かれども

(中略)右の著名の歌、万葉学者の誰一人知らぬ人とてなきこの一連の歌に対して、わたしの投ずべき一石、それは次のようだ。(改行)「これらの歌は、本当に『壬申の乱』を歌ったものか」と。この問いに対するわたしの答え。それは次の一語だ。(改行)――「否!」――

 このように言われ、結論として「この歌は、半島における「冬の陸戦」を歌ったものだ」と論証されたのです。その理由をかいつまんで紹介しましょう。
(1)季節:「壬申の乱」は天武紀によると、(開始)天武元年六月二十二日~(終結)同七月二十三日の一ヶ月間。まさに真夏です。戦った将兵の鎧の下は、流れる汗であったでしょう。しかしこの歌の情景は、冬から早春にかけてですね。「冬ごもり、み雪降る 冬の林に、大雪の 乱れて来れ」は冬、そして「春さり来れば、春鳥の さまよひぬれば」は早春の情景です。
ですからこの歌は、どのような偉い万葉学者が唱えようと、決して「壬申の乱」を歌ったものではない…といわれます。
(2)原文の書き換え:平安末期の写本「元暦校本」が最も優秀だそうですが、岩波万葉集は次の三点で書き換えてあるそうです。では、元に戻してみると…、
  (1)埴安の(岩波)⇒垣安の(元暦校本)。「垣安」では大和内にその地を求め得ないが、「埴安」に変えると「大和の香具山の側の埴安の池」と結びつけることができるのだそうです。では「垣安」の意味は、古田先生によれば、「かき」の「か」は「神」の「か」と同じく「神聖な」の意味、「き」は「城・柵」で「城辺(きのへ)」の「城」にあたるそうです。「やす(安)」は太宰府の近くの「夜須」であり、「垣安」とは「神聖な夜須」ということになるそうです。
  (2)城上の宮(岩波)⇒木上の宮(元暦校本)。この歌の核心をなす地名ですが、これまで「ここだ!」というところは見つかっていないそうです。延喜式によれば、高市皇子の墓は「大和国広瀬郡三立岡」とあり、いまの広陵町だそうです。しかしそこには「城上」なる地名はなく、そこで"混乱"が生じていました。しかし「木上」が「きのへ」とするならば、筑前の「下座(しもつくら)郡」に「城辺(きのへ)」があるのだそうです。あの「夜須郡」、つまり「垣安」の近くだそうです。そして「上座(かむつあさくら)郡」つまり「朝倉郡」には、次に出てきます「麻氐良布(まてらふ)神社」があります。
  (3)香具山の宮(岩波)⇒香未山の宮(元暦校本)。確かに「香具山」は、大和三山としてあります。ですから通説は、大和内の歌である…とこれに安住してきました。では「香未山の宮」はどうでしょうか。これは「かみやま」、つまり「神山の宮」であるといわれます。筑紫朝倉郡(杷木町志波)にある「麻氐良布山」がすなわち「神山」であり、そのいただきに「麻氐良布神社」があるのだそうです。「太宰管内志(上)」には、そこの祭神として、「伊弉諾尊・斉明天皇・天智天皇・明日香皇子」が祭られているそうです。最後の「明日香皇子」とは誰でしょうか。この名前は、大和の胎内で作られた古事記・日本書紀及び万葉集にも登場していない「名」なのです。しかし筑紫九州王朝の地では、「祭神」に加えられるほど追慕されていたようです。ですから上記長歌にも、「明日香の、皇子ながら…」と歌い込まれたのではないでしょうか。この明日香皇子は、冬の陸戦で戦死されたのでしょう。
(3)長歌の中に「百済の原」とあります。これを通説では「大和北葛城郡(広陵町)百済村」とし、「飛鳥より城上に行く途中…」というような解説をしているそうです。しかし古田先生は、「これは戦場としての半島の百済の原だ」と言われます。この方が、全く納得出来ます。
(4)次は「和蹔(わざみ)が原」。この美濃国関が原一帯にある「わざみ」という字使いは、書紀天武紀に頻繁に出てくるそうです。ですからこの歌が「壬申の乱」を主題とした証拠…とされてきました。しかし元暦校本では「和射見(わざみ)」。しかも、この冠詞は「狛剣」。この「こま」は「固麻・高麗」ともいい、いわゆる「百済」を指す言葉だそうです。高句麗だけではないのです。これは、「百済の和射見という地」の意味なのです。明日香皇子は、この地で戦いそして戦死したのでしょうか。従来、「高市皇子は美濃のわざみが原で戦い、そして24年後の696年に大和の百済の原で葬られた」とされてきました。「時」と「場所」をばらばらにした解釈…、私は納得できません。
(5)次に「吾妻の国の 御軍士を」があります。通説ではこれを"「あづまの国」と読み、「あづま」は一般に「東」を指し、この歌では信濃辺りの兵だろう…"としています。しかし"「あづま、吾妻」を以って一般的に「東」を指した例があるか。筑紫の人は吉備や大和を「あづま」と呼んでいるか…"などと問えば、誰もが首を横に振るのではないでしょうか。古田先生は、「これは固有地名であり、"あづま"の地名は上毛野国(群馬県)に多く見られる」といわれます。あの「カタシロ大王・寺」のいた地です。そしてこの地から、九州王朝の天子幸山の下知に応え、「上毛野君稚子」が兵を率いて馳せ参じていたことは、あとで皆さんに紹介しましょう。
(6)「背面の国の 真木立つ 不破山超えて」というフレーズについて考えましょう。旧唐書の日本国伝に、「その国界、東西南北、各数千里。西海・南界、みな大海に至り、東界・北界、大山ありて限りを為す。山外はすなはち毛人の国、と」とあったことを覚えていらっしゃるでしょう。八世紀になってすら、大和王朝の直接統治域は日本アルプスあたりまでだった…ことですね。その山の外ということを、この歌では「背面の国」と詠んだのです。ですから毛人の国である関東の吾妻から九州へ、「不破山越えて」駆けつけたのでしょう。
(7)次に、この歌に詠まれた悲劇の主人公「明日香皇子」とは誰でしょうか。大和の人物ではない…といいました。この歌の中に、「大王」(読みは"おほきみ”)があります。これから考えると、「明日香」という方は「皇子」にして「天子の元における大王である」と考えざるを得ません。天子幸山の一族でしょうか。彼が百済の地で軍を率いて戦い、若くして戦死した…。筑紫の人々はそのような「明日香皇子」を忘れることが出来ず、「神山」としての「麻氐良布山」の頂に祖先神の「伊弉諾尊」と共にお祀りした…。後の世に、「斉明天皇、天智天皇」が合祀された…というところが真相でしょうか。
 因みに、筑紫にも「飛鳥(ひちょう、あすか)」という地名があったそうですが(明治15年調べ)、今では「飛島(とびしま)」という字になっているそうです(「井上の地名」柿原久之『故郷の花』第12号、小郡市郷土史研究会)。「明日香」の名は、「飛鳥」に由来するのでしょうか。

 この歌は、結局「高市皇子」に対する挽歌ではありませんでした。
「壬申の乱」を詠んだ歌とすれば、例え挽歌であっても「壬申の乱における高市皇子の大活躍、その結果の大伴皇子側に対する大勝利…」などがないのも不思議だと古田先生はいわれます。この長歌では、「一大激戦のあと、歌の対象となった人物が消え去った」という、"悲劇の様相"しか浮かばない…ともいわれます。万葉学者の誰一人として、このことに気づかなかったのでしょうか。

 以上で万葉199番歌に対する、古田先生の論証を紹介しました。江戸時代以来の長い間「歌の題」に惑わされ、これを「壬申の乱」を詠んだもの…としてきていました。しかし古田先生によって、「これは百済において明日香皇子が戦死した「冬の陸戦」を詠んだもの…ということが分かりました。
万葉集は全て「大和朝廷の主か仕える臣によって詠まれた歌」なのか…、このような疑問から古田先生は次を世に問われました。
  ・「人麿の運命」 原書房 1994年4月
  ・「古代史の十字路―万葉批判」 東洋書林 2001年4月
そしてこのブログで紹介しました「壬申大乱」へと続くのです。
皆さんも一度読んでください。眼からうろこ…の古代史が目の前に現れますよ。
さて次回は、いよいよ「夏の海戦」へと進みましょう。では…。

九州王朝衰退への道(5)

2007-04-26 14:32:13 | 古代史
『冬の陸戦』
 662年(旧唐書年)の夏に起ったとされる「白村江の戦い」を、古田先生は「夏の海戦」とされました。しかしその半年ほど前、661年の冬から662年の早春にかけて、百済の大地を戦場とした戦があったのです。これを称して、「冬の陸戦」とされました。それを辿ってみましょう。

 前回、天智紀三年条(664年)にあった<夏五月の…に、百済の鎮将劉仁願、朝散大夫郭務悰を遣わして…>というのを「軍使の往来での三年のズレを勘案すると、この事件は661年…。」としました。しかしこれは書紀と旧唐書年の一年のズレを考慮すれば、600年ではなかったか…と思います。「夏の海戦」の二年前になります。ですから百済の王子豊章を送ったと見る660年「九月」には、郭務悰らは太宰府にいたことになります。
また最後に、「当然九州王朝は百済再興に手を貸すことを決意していましたから、この661年の始めにはお膝もとの九州をはじめ全国に出兵の下知を発したはずです。」とも書きました。しかしこれも、豊章を送ると同時かその直後…、660年9月か10月だったと考えます。しかし軍備の手配は、それ以前より行っていたでしょう。あの「持統の吉野幸」を見る限り…。

 その軍備の手配として、大和でも軍船を作ったようですが…。しかし大和は気乗り薄だった…、どうしても唐と戦いたくなかった…ようです。
<十二月…。天皇、まさに福信が乞(まう)す意(こころ)に従いて、筑紫に幸して、救軍を遣らむと思いて、まずここに幸して、諸の軍器を備う。この年百済のために、まさに新羅を伐(う)たむと欲して、即ち駿河国に勅(みことのり)して船を造らしむ。すでに訖(つくりおわ)りて、續麻郊(をみの。伊勢市の西北あたり)に挽(ひ)き至るときに、その船、夜中に故もなくして(理由なく)、艫舳(へとも。船の先と舵のあるうしろ)相反れり。衆(ひとびと)終に(しまいには)敗れむことを知(さと)れり。…>(斉明紀六年条、660年)
これは書紀編纂時に付け加えた文章と思われますが、まさに大和が主権者となった後「この通り、私たち大和は唐に敵対するつもりはありませんでした」との唐朝に対する言い訳を用意した…との意図がありありですね。またこの気の抜けたビールのような文から分かることは、半島出兵はまさに大和の問題にあらず、他国(九州王朝)ごと…だったことです。

 年が明けた661年、筑紫王朝では「筑紫君薩夜麻(幸山?)」という天子が即位されたようです(後、この名は書紀に出てきます)。そうです。九州年号において、二十三年間も続く「白鳳」に改元されました。通説では、この「白鳳」は大和の「白雉」の別名…としています。しかしこの「白雉」は九州年号にもちゃんとありますから、決して別名ではありえません。美術史の時代区分「白鳳時代」とは、この九州年号を借用している可能性は大いにあります。

 さて書紀は、一応661年正月、足姫(斉明)は筑紫へ向かった…といっています。それを見てみましょう。
<春正月の…に、御船西に征(い)きて、初めて海路に就く。…御船、大伯海(おほく。岡山県邑久の海、小豆島の北)に到る。時に大田姫皇女(天智の子。弟の天武の妃)、女(ひめみこ)を生む。よりてその女を名づけて、大伯皇女という。…御船、伊予の熟田津(にきたつ。道後温泉というのが通説)の石湯行宮(いはゆのかりみや)に泊(は)つ。…三月の…に、御船、還りて那大津(博多港)に至る。磐瀬(いはせ)行宮に居ます。…(本注:ある本に曰く、四月に、天皇、朝倉宮に遷り居ますという。)>(斉明紀七年条、661年)
この船旅は、まさに中大兄皇子(天智)・大海人皇子(天武)の妃らを引き連れた物見遊山の旅のようです。この短い文に、面白いことがあります。
(1)まず「熟田津」の位置が通説では道後温泉となっていますが、はっきりしていません。万葉集には、額田王がここで作ったという有名な和歌がありますね。
   熟田津に 船乗りせむと 月待てば
     潮もかなひぬ いまは漕ぎ出でな       (万葉8番歌)
しかし古田先生やその説に納得される方々は、この熟田津は「のちの持統の吉野幸は34年前だ」のところで述べました佐賀県諸富町の寺井津、つまりむかしの呼び名「新北津」に比定されています。吉田東吾の「大日本地名辞書」の「肥前」の章によれば、佐賀郡城崎(きさき)郷の「寺井津」は「新北(にきた)津」ともいい、延喜式で肥前国駅名に「新分(にきた)」がある…と紹介されています。この読み方は、「大分」が「おほきた」と読まれていたことから納得できますね。
歌の内容を第一級資料とすれば、伊予の道後近くであれば「潮もかないぬ…」と歌われるような遠浅で干満の激しい海ではなさそうです。有明海の新北津であれば、ぴったりと状況が一致します。ですからこの歌は、新北津で百済救援に向かう軍船を見送る歌…ではないでしょうか。
(2)備中国風土記逸文に、「中大兄皇子は、備中国下道郡邇磨(にま)で二万の兵士をリクルートした。だからここを「二万」という…」と、地名にかこつけた説話があるそうです。しかし結果は、(説話が本当としても)この二万の軍は一度も用いられませんでした。
(3)上記に「御船、還りて那大津に至る。」とありますね。この「還りて」に対する岩波書紀の注は、「熟田津は寄り道。本来の航路に戻っての意」とあります。古田説では、「いやそうではなく、新北津での閲兵式などを終えて、船で那大津(博多港)へ帰ることだ」としています。ですからこの斉明紀は、どうも激しく潤色しているのではないか…とされています。
(4)本注の「ある本に曰く…」とは、何のことでしょうか。本当に足姫(斉明)ら一行が朝倉宮に遷ったのなら、堂々と本文に書けばいいのではないでしょうか(後では本分中に出てきますが…)。天子「幸山」らが太宰府より少し奥まった朝倉宮へ遷った…とするほうが、すんなりと納得できますね。ですから、盗用して挿入した…?。

 同じ年(661年)です。
<秋七月の…に、天皇、朝倉宮に崩(かむあが)りましぬ。八月の…に、皇太子(中大兄皇子のこと)、天皇の喪(遺体のこと)を奉徙(ゐまつ)りて、還りて磐瀬宮に至る。…冬十月の…に、天皇の喪、還りて海に就く。(中略)十一月の…に、天皇の喪を以って、飛鳥の川原に殯(もがり)す。…(本注:日本世紀に曰く、十一月に、福信が獲たる唐人続守言(しょく・しゅげん)ら、筑紫に至るという。(後略))>(斉明紀七年条)
足姫(斉明)は、7月の下旬に亡くなってしまいました。中大兄皇子がいつ筑紫に来たか不明ですが、足姫が亡くなった7月にはいたようです。そして10月の上旬にこれを奇貨として、遺体と共に大和へ帰ってしまいます。中大兄皇子が帰ったのですから、もし大和から軍を連れてきていたとしても、全員が引き上げたと考えざるを得ません。天智紀二年条にも出てきます「唐人続守言ら…」は、名のある唐の武人は筑紫に献上し、雑兵が大和に回した…ということのようです。
わずか足掛け2ヶ月余で、中大兄皇子は後で紹介します「即位前紀」の条にあるようなことをしたのでしょうか。

 しかしいずれにせよ、書紀による限り、大和の将兵は(中大兄皇子を含めて)誰一人半島に出兵していないようです。つまり唐・新羅連合軍との戦「白村江の戦い」には、参戦していないのです。
通説では、潤色・脚色された書紀の記述を鵜呑みにして、「この戦いの当事者は大和…」とされていますが…。本当にそうか…、古田説を紹介します。

 さて続けましょう。
<九月に、皇太子(中大兄皇子のこと)、長津(那珂津)宮におはします。織冠を以って、百済の王子豊章に授けたまふ。…すなわち大山下狭井(さい)連檳榔(あじまさ)・小山下秦(はた)造田来津(たくつ)を遣わして、軍五千余を率いて、(豊章を)本郷へ護り送らしむ。ここに豊章が国に入るときに、福信迎え来て、稽首(をが)みて国朝の政を奉(あげ)て、みな悉くに委ねたてまつる。>(天智即位前紀、661年)
足姫(斉明)が7月に亡くなって、10月に大和に向かって筑紫那の津を発つ直前の処置のようです。しかしどうも潤色くさい…。彼等は大和の将兵にあらず、筑紫の将兵でしょう。
前にも言いましたが、660年7月に百済が滅び、すぐさま福信らがゲリラ戦をしている状況です。国にすぐにでも帰って再興を図るべき豊章が、のんびりと一年を過ごすでしょうか。一年前の660年9月には、豊章はすでに帰国しているはずです。
この二人の将に率いられた五千の軍は、満を持しての筑紫の救援軍、先遣隊ではないでしょうか。あるいは前回言いました如く、書紀年を一年前倒しにして、660年9月に豊章を守って行ったのかもしれませんが…。
 この一月前には、兵站を担当すると思われる軍も派遣されています。上記の直前の文です。
<八月に、前将軍大花下安曇比羅夫連・小花下河辺百枝臣ら、後将軍大花下阿倍引田比羅夫臣・大山上物部連熊・大山上守君大石らを遣わして、百済を救はしむ。よりて兵杖・五穀を送りたまふ。(本注:ある本に、この末に継ぎて曰く、別に大山下狭井連檳榔・小山下秦造田来津を使わして、百済を守護らしむという。)>(天智即位前紀、661年)
この8月の派遣軍も筑紫の軍でしょう。でも、その規模は不明です。しかし本注にあるように、二人の将軍の行動が9月の記事につながるとすれば六千人規模と思われ、残り千人ほどで兵站の構築に携わったのではないでしょうか。武器や食料の調達、軍の編成をじっくり一年をかけて行ったことが伺えます。あるいは急遽、一年前の660年8月に豊章の帰国に先立って派遣されていたのかもしれません。そうとすれば、武器・食料は前々から準備されていたことになりますね。
個人的には、全てが660年8月,9月のことだった…、冬の陸戦の準備に一年をかけたとするほうが、何やら落ち着きますが…。

 同じころ、再び郭務悰らが太宰府にやって来たようです。
<九月の(23日)に、唐国、朝散大夫沂州司馬(きしゅうのしば)上柱国劉徳高等を遣わす。(本注:等というは、右戎衛郎上柱国百済禰軍(ねぐん。人名)・朝散大夫柱国郭務悰をいう。すべて二百五十四人。七月二十八日に、対馬に至る。九月二十日に、筑紫に至る。二十二日に表函を進(たてまつ)る。)…十二月の…に、劉徳高等、罷り帰りぬ。この歳、小錦守君大石らを大唐に遣わすと、云々。…(本注:…蓋し唐の使人を送るか。)>(天智紀四年条、665年)
軍使の往来に三年のズレ、旧唐書年との一年のズレを勘案すれば、これは665年ではなく四年前の661年、半島では冬の陸戦がこれから起る…という時期です。
9月20日に筑紫(太宰府)に入り、迎賓館としての鴻臚館に泊まり、22日に表を提示しました。そして23日に、九州王朝の天子幸山に会ったのではないでしょうか。ですから上記のような本文になった…。唐の使節は決して大和に来たのではなく(三日間で大和へ行けない)、筑紫太宰府だったのです。
どのような天子の親書だったのでしょうか。最後通牒だったのでしょうか。幸山とは、どのような話をしたのでしょう。254人もの兵を引き連れての強迫だったのでしょうが、しかし戦端は開かれてしまったようです。
大和の派兵したくない理由が分かりました。いや、はっきりと筑紫王朝には与しない…と宣言したのです。それがこの、守君大石らの唐への派遣というか同道だったのではないでしょうか。

 661年の12月、百済軍に合流していた檳榔や田来津らと五千の筑紫軍は、百済の州柔(つぬ。錦江下流の山か…と)城で軍議を持ちました。一年にわたって合同軍事演習などをして、気心は知れたのでしょうか。
<冬十二月の…に、百済の王豊章、その臣佐平福信ら、狭井連(本注:名をもらせり)朴市(えち。秦)田来津と、議(はか)りて曰く、「この州柔は、遠く田畝(たはたけ)に隔たりて、土地磽确(やせ)たり。農桑(なりわいこかい)の地にあらず。これ拒(ふせ)ぎ戦う場なり。ここに久しくおらば、民(たみ)飢饉(う)えぬべし。いま避城(へさし。州柔の南方、全羅北道金堤か…と)に遷るべし。避城は、西北に帯びるに古連旦(川の名)の水を以ってし、東南は深泥巨堰(付近の池の堤)の防(ふせぎ)によれり。めぐらすに周田(周囲一面の田)を以ってし、渠(みぞ)をさくりて雨を降らす。華実の毛(花も実もある樹木の茂る肥えた土地の産物)は、三韓の上腴(肥えた土地)なり。衣食のみなもとは、二儀(あめつち。天地)の隩区(くにむら。一定の地域)なり。地卑(くだ)れりというとも(平地ではあるが)、あに遷らざらんや(遷らない理由はない)」という。>(天智紀元年条、662年)
これも一年のズレで、661年の12月…雪の舞う冬…。どうも百済の王豊章は、この険しい山中にある堅固な州柔城をお気に召さぬようです。食料を確保するには、平地の避城がいい…と。
 田来津が諌めます。上の続きです。
<ここに朴市田来津、独り進みて諌めて曰く、「避城と敵(あた。唐・新羅の連合軍)のおる間と、一夜に行くべし。相近きことこれ甚だし。もし不慮(突然敵の攻撃を受けるようなこと)あらば、それ悔ゆとも及び難からむ。それ飢えは後なり、亡びは先なり。いま敵のみだりに来たらざる所以は、州柔、山険(やまさか)を設けおきて(山の険しさを利用して)、尽くに防禦として、山峻高(やまさが)しくして谷隘(せま)ければ、守り易くして攻め難きが故なり。もし卑き地(平地)におらば、何を以ってか固くおりて、揺動(うご)かずして今日に及ばましや(今日に至ることが出来たでしょうか、出来なかったでしょう)」という。遂に諌めを聴かずして、避城に都す。>(天智紀元年条、662年)
田来つがこんこんと諭しましたが、豊章は聴かずに避城へ遷りました。そしてその後、百済軍内に不協和音が生じたようです。
唐・新羅の連合軍はこのチャンスを見逃さず攻めてきたようですが、筑紫・百済の軍も必死で応戦して、一進一退の状態でこの年は暮れたようです。

 さて年が明けた662年…、
<春二月の…に、…新羅の人、百済の南の四州を焼燔(や)く。…ここに避城、賊を去ること近し。故、勢居ること能(あたわ)ず(従って、必然的に避城にはいられなかった)。すなはち還りて州柔に居り。田来津が計る所の如し。…>(天智紀二年条、663年)
これも一年のズレで662年の早春…。百済の四州とは、居列(慶尚南道居昌)・居忽(全羅北道南原)・沙平(不詳)それに徳安(忠清南道恩津)だそうで、結局新羅は広範囲にわたって総攻撃をかけてきた…ということだそうです。避城であればいつ攻撃されるか分からず、そうなれば守りきれないことがやっと豊章にも分かったのでしょう。また州柔へ戻りました。

 この661年冬から662年早春にわたる戦を、古田先生は「冬の陸戦」と名づけられました。しかし陸戦では決着は就かなかったようです。この年の「夏の海戦」時、田来津らは陸での戦いで戦死したようです。書紀は短く伝えています。
<…朴市田来津、天に仰ぎて誓い、歯をくいしばりて嗔(いか)り、数十人を殺しつ。ここに戦死せぬ。…>(後出)

 今回はこのあたりで…。

九州王朝衰退への道(4)

2007-04-19 15:36:26 | 古代史
 さて、前回に引き続き「伊吉連博徳書」を見てみます。
659年、韓智興を長とする筑紫倭国の使節団の一員として、伊伎史博徳は唐にありました。同じ時に、大和からも津守連吉祥の使節団も来ていたことは前回述べたとおりです。

 このころ唐は、倭の請願にもかかわらず、百済討伐の断を下していたようです。そして宮廷における両使節の諍いを奇貨として、情報の漏れるのを防ぐためか、唐は韓智興を「洛陽の外三千里の所払い」の罪にしたようです。
……(659年)十一月一日に、朝(みかど)に冬至の会(一日の冬至を瑞祥として祝う会)あり。会の日に(両使節団が)また見(まみ)ゆ。朝(まう)ける諸蛮の中に、倭(筑紫)の客最も勝れたり。(火事騒ぎで取止めとなり…)十二月三日に、韓智興が人(ともびと。従者)西漢大麻呂、枉(ま)げて(道里などに反して)我が客(大和の官人の立場からいった言葉)を讒す(よこす。中傷する)。客ら、罪を唐朝に獲て、すでに流罪に決(さだ)む。前(さきだ)ちて(まず始めに)、智興を三千里の外に流す。客の中に伊吉連博徳(大和に仕えた後の名)ありて奏(まう)す。よりて即ち罪を免(ゆる)されぬ。事了(おは)りて後に(それぞれ罪の処置をした後…の意か?)勅旨すらく、「国家(唐)、来らむ年に必ず海東の政(まつりごと)あらむ(来たる年に海東つまり百済征伐をするぞ…ということ)。汝ら倭(筑紫)の客、東に帰ること得ざれ」とのたまふ。遂に西京に匿(いまし)めて(幽閉して)、別処に幽(とら)え置く。戸を閉じて防禁(ふせ)ぎて、東西に(かにかくに。互いの行き来?)することを許さず。困苦(たしな)む(苦しむ)こと年を経ぬという。(後略)……
韓智興は洛陽の外三千里の流罪、その他の筑紫の使節は(博得を除いて?)どこかに幽閉されたようです。それで苦労した…と。
しかし唐の百済攻略の計画は、当然百済もまた筑紫太宰府もつかんでいたことでしょう。そのため九州王朝の天子の、この年3月・5月・7月・8月そして11月と5回にも及ぶ肥前吉野への御幸(持統紀七年条(693年)を34年遡らせて)となったのではないでしょうか。九州王朝は、軍船の建造や兵器の調達など、軍備は怠りなく進めていたようです。

 遂に660年、百済はあっけなく滅んでしまいました。
四世紀半ばに馬韓諸国を統一した伯済が百済を建て、そして370年ころ倭王「旨」に七支刀を贈って筑紫倭国と好(よしみ)を結びました。その百済が、その三百有余年の歴史を閉じたのです。
その経緯を、岩波書紀の解説(p577、補注26-四)により見てみましょう。これは旧唐書や三国史記などからの要約だそうです。概略次のようです。
――百済の義慈王は641年(舒明十三年)に即位以来、高句麗と結んで新羅を攻めた。高句麗では蓋蘇文が権力を握り、新羅攻略に甚だ積極的であった。654年のころ、両国の連合軍が新羅北境三十余城を陥れた。そこで新羅王(武烈王、あの金春秋)は王子を遣わし、唐に救援を求めた。
655年(斉明元年)2月、唐は営州都督程名振左衛中郎将の蘇定方に高句麗を討たせた。以降、658年・659年と高句麗討伐に遠征したが、はかばかしい成果を挙げ得なかった。そこで唐は、高句麗と結んでいる百済(そのうしろの筑紫倭国)を討つことにした。百済討伐の計は、659年の冬(上記博徳書を参照)にはすでに立てられていた。それは同年11月21日に蘇定方を神丘道総管に任じ、12月始めに韓智興らが罪を獲て流され「国家、来たらむ年に必ず海東の政あらむ」ことからも知れる。
660年(斉明六年)3月、蘇定方は十三万の兵を以って、莱州(山東省)から海路百済へ向かった。5月、新羅の武烈王はこれに呼応した。そこで両軍は白江(錦江)を遡り、7月12日に百済の都を囲んだ。13日夜、義慈王や太子隆以下臣を引きつれ東北の熊津城に走った。都に残っていた王子泰らは、遂に唐に降った。18日には義慈王らも降り、ここに百済は滅んだ。
9月3日、蘇定方は部下の将劉仁願に一万の兵を与え、新羅兵七千と共に都に駐屯させた。自らは義慈王以下九十四人の臣、百姓一万二千人を伴なって帰国の途につき、11月1日洛陽に義慈王ら五十余人の捕虜を献じた。
しかしこの間、百済の遺臣らによるゲリラ戦が開始されていた。――

 書紀にもこれに関する記事(本来は筑紫太宰府に対する報告でしょうが、書紀編纂時に大和に対するものと改竄した?)があります。
<ある本(ふみ)に曰く、庚申年(660年を指す)の七月に至りて、百済、使いを遣わして奏言(まう)さく、「大唐・新羅、力を併せて我を伐つ。すでに義慈王・王后・太子を以って、虜として去(い)ぬ」とまうす。これによりて国家(筑紫倭国)、兵士甲卒(いくさびと)を以って、西北の畔(ほとり)に陣(つら)ぬ。城柵を繕修(つくろ)い、山川を絶ち塞ぐ兆しなりという。>(斉明紀四年条)
「ある本…」とは即ち、九州王朝に対する報告書でしょう。これは筑紫倭国の守備固めの理由として、つまり予兆としての意味で斉明紀四年条に入れられているものだそうです。「西北の畔に陣ぬ」とは、博多から唐津あるいは壱岐・対馬への兵力増強を指すのでしょうか。
また、
<高麗の沙門(帰化僧)道顕の日本世紀(詳細不明の史書だそうですが、逸文によればこのころの唐と半島や列島との状況をよく記しているそうです)に曰く、庚申年の七月に云々。春秋智(新羅の武烈王)、大将蘇定方の手を借りて、百済を挟み撃ちて亡(ほろぼ)しつ。あるいは曰く、百済、おのづからに亡びぬ。(中略)新羅の春秋智、願いを内臣蓋金に得ず(蓋金は高句麗の泉蓋蘇文。始め高句麗に百済討伐の援軍を求めたが断られた)。故、また唐に使えて、俗の衣冠を捨てて(新羅古来の衣服や冠を捨て、唐の衣服を着また唐の官位を受けて)、媚を(唐の)天子に請いて、禍(わざわい)を隣国に投(いた)して、この意行(こころ)を構うという(唐の意に沿うようにする)。>(斉明紀六年条、660年)
まさにこのころから中国代々の王朝に属し、それが半島の人々の「恨」となって今日まで続いているのでしょうか。どうしてもこの自民族の歴史を直視しえず、最近の日本による併合(属国でも植民地でもない)にこの「恨」を凝縮させているようです。半島の人々はよほどこのことを自覚しないと、このくびきからは逃れられないでしょうね。

 再び伊吉連博得の報告書に戻りましょう。
<庚申年(660年)の8月に、百済すでに平(ことむ)けて後に、9月12日に客(筑紫倭国の使人ら)を本国に放つ。19日に西京(長安)より発つ。10月16日に、還りて東京(洛陽)に到りて、始めて阿利麻ら五人(大和からの使人の一員。坂合部石布と共に遭難したが助かったもの)に相見ること得たり。11月1日に、将軍蘇定方らがために掠(かす)いられたる百済王より以下、太子隆ら諸王子十三人、大佐平沙宅千福・国弁成より以下三十七人、併せて五十許(ばかり)の人、朝堂(みかど)に奉進(たてまつ)る。(あと天子は、捕虜を解き放ったそうです)。…24日に、東京より発つ。>(斉明紀六年条、660年)
百済討伐の直後、流罪になったり幽閉されていた筑紫の使人らは釈放されたようです。これによれば、博得も他の幽閉されていた筑紫の使人らと行動を共にしているようですから、一人罪を許された…わけではないようです。博徳らが洛陽まで来て始めて、遭難して助かった大和の阿利麻らと会ったのです。この「始めて」という言葉が、博徳ら筑紫の使節は阿利麻ら五人と初対面であることが分かります。ですから博得は、筑紫の使節団の一員だったのです。

 しかし百済では、遺臣たちによってすぐさま反抗が始まりました。再び岩波書紀の解説(p578、補注26-九)を見てみましょう。
――この年(660年)7月の百済滅亡後、逃れていた達率黒歯常之・恩率鬼室福信・僧道琛(どうちん)ら遺臣たちは、三万余の兵を集めた。険しい山に砦を築いたので、唐・新羅の連合軍も攻めあぐねた。逆に連合軍のほうが攻め込まれるありさまであった。ゲリラ戦が始まった。――

 百済の遺臣らは当然、(653年に)質となっていた豊章の帰国と、百済再興のため援軍を要請しました。書紀の記事ですが、本来筑紫に対する要請を盗用したのでしょう。見てみましょう。
<冬十月に、百済の佐平鬼室福信、佐平貴智らを遣わして、来て唐の俘(とりこ)百余人を献ず。…また、師を乞(まう)して救いを請う。併せて王子余豊章を乞して曰く、「唐人、おのが蝥賊(あしきあた)を率いて、来たりて我が疆場(さかい)を蕩搖(ただよ)はし、我が社稷(くに)を覆し、我が君臣を俘にす。(本注を省く。上記岩波書紀の補注と同じような記事)。しかも百済国、遥かに天皇の護念(めぐみ)に頼りて、更に鳩(もと)め集めて邦を為す。まさに今、謹みて願わくば、百済国の、天朝に遣わし侍る王子豊章を迎えて、国の主とせむとす」と、云々。…(本注:王子豊章及び妻子と、その叔父忠勝らとを送る。その正しく発遣(た)ちし時は、七年(661年、天智即位前記九月条)に見ゆ。…)>(斉明紀六年条、660年)
書紀では661年の10月ころ豊章を送り届けた…となっていますが、660年7月に百済が滅びてのんびりと一年も倭国にいるはずはなく、その年(旧唐書年で660年)の10月ころには渡ったはずです。

<九月に、(天智が)百済の王子豊章に(冠を)授けたまふ。…即ち大山下狭井(さい)連檳榔(あじまさ)・小山下秦(はた)造田来津(たくつ)を遣わして、軍五千余を率いて、(豊章を)本郷(もとゆくに)に護り送らしむ。ここに豊章が国に入るときに、福信迎え来て、稽首(をが)みて国朝の政を奉(あげ)て、みな悉くに委ねたてまつる。>(天智即位前紀、661年)
書紀では661年ですが、天智紀の一年のズレを考慮し660年のことでしょう。

 次の「旧唐書」では、やはり660年の内のこと…と読めますね。。
<顕慶五年(660年)、百済の僧道琛、旧将(百済を滅ぼした後だから「旧」をつけた)福信、衆を率いて周留城に拠り、以って叛す(名文上唐に対する反逆)。(百済の遺臣は)使いを遣わして倭国に往かしめ、故王子(故は旧に同じ。元の王子)扶余豊を迎えて、立てて王と為す。>(旧唐書百済伝)
あれほど倭国(九州王朝)と日本国(大和)を区別している「旧唐書」ですから、ここに書いてある「倭国に往かしめ…」の「倭国」とは即ち「九州王朝」であることは疑問の余地はなさそうです。ですから書紀がいかにも大和にかかわることだ…と主張しても、唐は戦った相手を間違えるはずはないのです。書紀の記事に関しては、いったん立ち止まって「この記事は本当に大和に関するものか。筑紫に関するものではないか」と考えてみる必要がありますね。

 さて前に約束していました「旧唐書年」と「書紀年(天智紀において)」について、また唐の軍使などの筑紫へ来る年についても説明します。
(1)あの「白村江(はくすきのえ)の戦い(夏の海戦)」の年は、旧唐書によれば「龍朔二年、662年」、しかし書紀では「天智二年、663年」となっています。ここに「一年のズレ」があるのです。これは暦法の違いか…とも言われていますので、両年紀を併記することにします。
(2)天智紀十年条(書紀年で671年に相当)に、「百済の鎮将劉仁願、李守真を遣わして表上る」とありますが、しかし旧唐書によれば「総章元年(668年)8月に姚州に流され」て百済鎮将の職を解かれているのです。ですからここに「旧唐書年」と「三年のズレ」があります。ですから唐の軍使や駐留軍の来筑紫は、三年前倒しで考える必要があります。そうすると、当時の事情がよくわかるのです。

 このことを考慮して次の記事を読むと、事情がよく分かります。
<夏五月の…に、百済の鎮将(百済駐屯軍の将軍)劉仁願(りゅう・じんがん)、朝散大夫(従五品下)郭務悰(かく・むそう)を遣わして、表函と献物とを進(たてまつ)る。…(中略)冬十月の…に、郭務悰らを発て遣わす(送り返す)勅(みことのり)をのたまふ。…(中略)十二月の…に、郭務悰ら罷り帰りぬ。…>(天智紀三年条、664年)
軍使の往来での三年のズレを勘案すると、この事件は661年…。書き方は書紀用に潤色されていますが、郭務悰は筑紫太宰府に表を持って来て、九州王朝の天子に差し出したのでしょう。軍使の目的はただ一つ、「百済再興に手を貸すな」と念を押すことだったのでしょう。そしてまた、九州王朝の動静の探索ではなかったでしょうか。五月に来て十二月まで、ほぼ七ヶ月の滞在でした。吉野の津へも行ったのでしょうか。

 当然九州王朝は百済再興に手を貸すことを決意していましたから、この661年の始めにはお膝もとの九州をはじめ全国に出兵の下知を発したはずです。当然大和(足姫、斉明)にも、関東の大王(下毛野君)らにも届きました。
次回はそのあたりを見ていきましょう。

九州王朝衰退への道(3)

2007-04-15 16:05:37 | 古代史
 ずっと後の瀛真人(おきのまひと。天武と諡)の妻である廣野姫(ひろのひめ。持統と諡。在位687-697年))の記事の中に、不思議な話があります。何度も「天皇、吉野宮に幸(いでま)す」という類の文言が出てくるのです。通説では、亡き夫を偲んでの御幸(みゆき)であり、吉野宮は大和南部の吉野にあった宮であろう…とされています。初めての吉野詣(もうで)は、持統三年(689年)正月の真冬です。これより毎年二、三回、多い年には五回も行っています。
 しかし思いがけないところから、この不思議が解けてきました。持統八年(694年)四月に第二十一回目の吉野詣から帰った日の干支「丁亥:北野本・内閣文庫本、丁未:卜部兼右本」が書いてあるのですが、いずれもこの年の四月にはないのだそうです。岩波書紀の注では、要するに書き間違えたのだろう…としています。しかし古田先生とそのグループの方々が、「三十四年前の660年四月にはある」ことを突き止められました。このことから、
(1)持統の吉野詣での季節は、春(の桜)や秋(のもみじ)だけではなく、寒い冬にも暑い夏にもある。「天武を偲んで…」というのであれば、(一種の癒しの旅だろうから)いい季節を選ぶはずだ。おかしい。
(2)この「吉野」は、大和の吉野ではないのではないか。太宰府に近い肥前の吉野(佐賀県、吉野ヶ里のあるところ)ではないのか。各地に吉野の地名はあるが、歴史の舞台としては九州に求めたほうがよかろう。
(3)そうであれば、このやみくもな(持統であれば季節を選ばず、無目的に見える)吉野詣は、がぜん意味あるものになるのではないか。第一回の吉野詣でを三十四年前の655年に持って行けば、忍び寄る戦の足音が聞こえ始めた時期になる。つまり、琥珀を献じた654年の使いは、唐で不穏な動きを見たのではないか…。
(4)そうであれば「吉野」とは、具体的に吉野津(あるいは新北(にきた)津ともいう。いまの佐賀県諸富町の寺井津に比定。筑後河の河口で干満の差の大きい良港であり、幕末に肥前鍋島藩の海軍所(水兵訓練学校)があったほどだ)である可能性が生まれ、かつ非常に高い。
(5)では、吉野詣の目的とは、九州王朝の天子が(654年の使いが唐の軍船建造を見たか情報を得て)筑紫海軍のための軍船建造を開始させ、その後毎年建造の視察や進水式・閲兵式に出席する…という意味あるものになる。
(6)そして吉野詣は、持統十一年(697年)四月の三十一回目で終っている。これを三十四年前に遡らせれば、663年(書紀年による。後で解説)四月になり、夏七月から八月にかけて行われた「白村江の海戦」の直前になる。最後の閲兵だったのだろうか。
ということが導き出されます。そう間違っていないのではないでしょうか。
九州王朝は、三世紀の卑弥呼や五世紀の五王を通じて強大な海軍を持ち、新羅や高句麗と死闘を演じていた海軍国家だったのです。その伝統は、いまに引き継がれているのです。
  海ゆかば 水浸く屍 山ゆかば 草生す屍
    大君の 辺にこそ死なめ 顧みはせじ  (万葉4094歌、大伴家持)

 では上記(3)でいいました第一回の天子の吉野幸、そう665年時点の東アジアの情勢を見てみましょう。
 655年、唐の高宗はいよいよ高句麗討伐を決意し、営州都督程名振左衛中郎将蘇定方(そ・ていほう)を遣わして、第一回の遠征を試みました。いまではすっかり自ら唐に属している新羅の働きかけもあったのでしょうが、唐は高句麗や百済などの半島諸国を滅ぼすことを考えていたのです。
九州王朝としても、唐に飲み込まれないよう軍備増強を図らねばなりません。655年といえば、書紀では足姫(たらしひめ。斉明と諡。皇極の重祚)元年に当たり、それ以降高句麗や百済からの使いが頻繁に来たことが記されています。しかしこれは、情勢より見て筑紫太宰府への救援軍派遣の要請…と見たほうがよいでしょう。もちろん新羅が来たことも記せられていますが、これは偵察と派兵を見送るようにとの要請ではないでしょうか。こちらから半島諸国へ遣わした使いも、「名をもらせり」とか岩波注記でも「この人未詳」とかが多いのです。これは、太宰府の官人だからではないでしょうか。このような推定は、あながち間違いとはいえないのではないでしょうか。なお「これは山跡に関することだ…」と確信が持てる記事は、全く緊迫した情勢を伝えていません。

 唐は658年から次の年にかけて、再度高句麗討伐に遠征しました。しかしはかばかしい成果は得られなかったようです。唐は矛先を変えて、高句麗への補給元としての百済、引いては筑紫九州王朝を(新羅と協力して)攻略する計画を立てた…と見られる節があります。
 なお九州王朝が衰退してのち、九州王朝の臣であった者が大勢大和に仕えるようになったようです。その中の一人と思われる人物に、「伊伎(いきの)史(ふひと)博徳(はかとこ)」という人がいます。この名をどこかへ留めておいて下さい。壱岐の出でしょうか。大和では、「伊吉連博徳」となりました…。

 斉明紀に次の記事があります。
<夏四月に、安陪臣(本注:名をもらせり。しかし後で、安陪引田臣比羅夫と出てくるが…)、船師百八十艘を率いて、蝦夷(えみし)を伐つ。…>(斉明紀四年条、658年)
この安陪臣という武将は、九州王朝に仕える武将でしょう。
この蝦夷討伐はどのような意味があるのでしょうか。九州王朝の背後を固めるため…、あるいは逆に兵士をリクルートするため…、または伐つのではなく交易のため…、いろいろ考えられます。(なお同じ記事が五年条にもあり、重複か…ともいわれています。)
 しかしこれより二十数年のち(683年以降)、伊吉連博徳が大和(当時は天武)に対して報告した「伊吉連博徳書」によりますと(それが斉明紀五年条に引いてある)、九州王朝より唐へ659年に韓智興(かんちこう)や超元宝(ちょうげんぽう)などの帰化人を遣わしたようです。彼らの祖は大陸あたりの人でしょうが、そのときは立派な九州王朝の官人です。どうもそのときの使節の一員に、さきほどの伊伎史博徳もいたようです。
同じとき、大和からも坂合部連石布(いはしき)や津守連吉祥(きさ)らが、二船に分かれて唐に向かいました。当然のことながら、この九州王朝の使節と大和の使節が、唐の宮中で相見えることとなったのです。

 唐はこの年の11月、邢国公蘇定方ををして神丘道総管に任じ、ついに百済攻略の意思を固めたようです。

 「伊吉連博徳書」なる報告書を、かいつまんで紹介しましょう。その前にこの報告書は、(改めて仕えた)大和の官人としての博得の報告書である…ことを留意してください。つまり主体は大和の使いです。ただし、筑紫九州王朝を指す場合、「倭、倭種」を使っているようです。それによれば…、
……大和からの使いの一行は、659年7月3日に難波を出航し、8月11には筑紫の那の津(博多港)を発ちました。途中百済の南をかすめて黄海に出たようですが、石布らの船は遭難しました。しかし阿利麻ら五人だけが助かった…といいます。これらのことは、助かった阿利麻らから博徳が聴き取ったものでしょう。一方吉祥らの船は9月16日夜半に越州会稽郡に着き、22日に越州余姚県に着いたそうです。そして閏10月15日に長安に入りましたが、天子は洛陽だと聞かされ早馬で29日に至ったそうです。……
この行程は、当時の遣唐使の航路と日数が分かる貴重なものだそうです。たぶん、九州王朝の使節も、ほぼ同じ航路を通ったのでしょう。

 そして次の30日、いよいよ天子(第三代、高祖)に拝謁しました。
……天子、相見えて問訊(と)ひたまはく、「日本国の天皇、平安(たひらか)にますや不(いな)や」とのたまふ。使人、謹みて答えまうさく、「天地徳(いきほひ)を合わせて、自ずからに平安なること得たり」とまうす。天子問いて曰はく、「事を執れる卿ら、好在(さきくはべ)りや不や」とのたまふ。使人謹みて答えまうさく、「天皇憐重(めぐ)みたまへば、また好在ること得たり」とまうす。天子問いて曰く、「「国内は平らかなりや不や」とのたまふ。使人謹みて答えまうさく、「政(まつりごと)、天地に称(かな)ひて万民事為し」とまうす。……
これは天子のご下問に対して答えている様子ですが、「使人」が大和のそれならきちんと「津守連吉祥」と明記できるはずです。ぼかしていることは、九州王朝の使い「韓智興」へのご下問だったということでしょう。報告を聞いている時の瀛真人(天武)も諸臣も重々分かっている…、しかし後世に記録として残さない…。
ですから上記の「日本国」とは、すなわち九州王朝でしょう。「天皇は元気か、おぬしら重臣らもよく仕えているか、国内は平穏か…」、天子もしれっとして訊ねています。吉野の津での軍船建造は重々承知…の上でのご下問でしょう。韓智興もいいます。「はいお元気です、おかげさまでよくお仕えしております、万民は平穏に暮らしております」。狐と狸の化かしあい…?

 このとき、蝦夷の使いも同道していました。
<十月、蝦夷国、倭国の使いに従いて入朝す。>(冊封元亀(さっぷげんき))
この「倭国」とは、筑紫の九州王朝ですね。唐はちゃんと「蝦夷国」と、蝦夷を「国」として扱っています。安陪引田臣が、連れて来たのでしょうか。

 さて、まだ天子のご下問は続きます。
……天子、問いて曰く、「これらの蝦夷の国は、いずれの方(かた)にあるぞや」とのたまふ。使人、謹みて答えまうさく、「国は東北にあり」とまうす。天子問いて曰く、「蝦夷は幾種ぞや」とのたまふ。使人謹みてまうさく、「類、三種あり。遠き者をば都加留(つかる)と名づけ、次の者をば麁(あら)蝦夷と名づけ、近き者をば熟(にき)蝦夷と名づく。いまこれは熟蝦夷なり。歳毎に、本国の朝(みかど)に入り貢(たてまつ)る。とまうす。天子問いて曰く、「その国に、五穀(主要農作物。ひえ・あわ・麦・豆・稲など)ありや」とのたまふ。詩人謹みてまうさく、「無し。肉を食(くら)ひて存活(わたら)ふ」とまうす。天子問いて曰く、「国に屋舎(やかず)ありや」とのやまふ。使人謹みてまうさく、「無し。深山の中にして、樹の本(もと)に止住(す)む」とまうす。天子重ねて曰く、「朕、蝦夷の身面(体つきや顔)の異(け)なるを見て、極理(きはま)りて喜び怪しむ。使人遠くより来(まうき)て辛苦(たしな)からむ。退いて館裏(むろつみ)におれ。後にまた、会見む」とのたまふ。……
五王の最後倭王武の表にあった「毛人」また旧唐書日本国伝にあった「山外にいる毛人」が、ここでいう「蝦夷」でしょう。高祖は蝦夷を「国」の使いとして扱い、韓智興に質問しています。確かに好奇の気持ちは、ありありですが…。蝦夷国のありか、種族の数、獲れる農作物、家屋のようす…。興味は尽きません。

 伊吉連博徳書は、まだ続きます。今回はこれまでにしましょう。