やさしい古代史

古田武彦氏の仮説に基づいて、もやのかかったような古代史を解きほぐしていこうというものです。

高天の原と国生み神話(2)

2006-10-13 15:14:15 | 古代史
 前回(1)では、「高天の原」は天上界heavenではなく壱岐・対馬および沖ノ島などの島嶼であること、そこに住む海人族が新しい金属の武器「銅矛」を以って先行した出雲の勢力を打ち負かしたこと…などを述べました。
先行した出雲王朝が、「記」の「須勢理毘売(すせりひめ)の嫉妬(p103)」という段に見えます。この毘売は須佐之男命(すさのをのみこと)の娘で、出雲の主権者大国主(おおくにぬしの)命の妻なのです。毘売を「嫡后(ちゃくごう)」というのちの「皇后」に匹敵する称号で称していることでもわかります。大国主は八千矛(やちほこの)神などというまたの名をいくつか持っていますが、古田先生によると本来は別の神が神神習合によって一つにまとめられたもの…ということです。それはさておき、すこし長くなりますが「記」より引用してみましょう。
「またその(八千矛の)神の嫡后(おほきさき)須勢理毘売、いたく嫉妬(うはなりねたみ)したまひき。故、その日子遅(ひこじ)の神(つまり夫)わびて(困惑して)、出雲より倭国に上りまさむとして、…歌ひたまひしく、
  ぬばたまの 黒き御衣(みけし)を まつぶさに(すっかり) 取り装(よそ)ひ 沖つ鳥 胸見るとき …(以下略。この後二度も「沖つ鳥 胸見るとき」のフレーズが繰り返され、これより会いに行く人が暗示されている)
とうたひたまひき。ここにその后、大御酒盃を取り、立ち依りささげて歌ひたまひしく、
  八千矛の 神の命や あが大国主 汝(な)こそは 男(を)にいませば 打ち廻る(みる。めぐる) 島の埼々 かき廻る 磯の埼おちず(港ごとに) 若草の 妻持たせらめ(いわゆる現地妻)…(以下略。この歌から、島伝いに倭国に上る様子がわかる)
(中略)…故、この大国主神、胸形の奥津宮(むなかたのおきつみや)にます神、多紀理毘売(たぎりひめの)命を娶(めと)して生める子は…(攻略)」
通説によれば、この「倭国に上りまさむ…」を「大和に行くこと」としているのです。まさに一元史観というイデオロギーのなせることですね。島伝いに対馬海流を遡っていく…という歌の中身と一致しません。川上に行くことを「川を上る」というのと同じことです。そして最終的には、胸形(福岡県宗像郡)の奥津宮(沖の島にある)にます多紀理毘売と結婚するのです。どうしてそこが「大和」でしょうか。ですから古田先生は、「この倭国は、筑紫でなければならない」とされたのです。出雲は、「倭」と認識されていないということです。この一連の神話は、まだ筑紫などが出雲の支配下にあったころの話…ということですよね。
 出雲の威の及んでいる地は出雲本国のほかに、筑紫の三ヶ所と韓の地(三世紀には狗邪韓国、のち任那といわれる)であったことは前回述べました。では海人族が淤能碁呂(おのごろ)島に天降って生んだ…つまり矛を以って征服した地はわかるのでしょうか。多くの島(国生み神話ですから「国」のこと)が生まれましたが、古田先生は「天の…」という亦の名を持つ島が初期の範囲であろう…とされました。次です(p57)。
(1)隠岐の三つ子島、亦の名は天の忍許呂別(おしころわけ、隠岐の島の島前)。(2)伊伎(いきの)島、亦の名は天比登都柱(あめひとつばしら、壱岐の島)。(3)津島、亦の名は天の狭手依比売(さでよりひめ、対馬)。(4)大倭豊秋津島、亦の名は天御虚空豊秋津根別(あまつみそらとよあきつねわけ、美称を取り除けば豊の秋津、別府湾に臨む国東半島の安岐)。(5)女(ひめ)島、亦の名は天一根(あめひとつね、前原市の北西糸島半島の西の姫島か?)。(6)知訶(ちかの)島、亦の名は天の忍男(おしを、長崎県五島列島)。(7)両児(ふたごの)島、亦の名は天両屋(あめふたや、沖の島)。
なお古田先生は「淤能碁呂島」を語幹の「のこ」が共通であることから、博多湾内にある「能古(のこの)島」であろうとされています。そうすると伊邪那岐命が黄泉の国から逃げ帰ったあと禊(みそぎ)をする「竺紫の日向(ひなた、いま福岡市西区と前原市の境に地名が残っている)の橘(つまり立ち鼻で、岬のこと)の小門(をど、いま西区姪浜の北に小戸として地名が残っている)の阿波岐原(不明、しかし「~原」という福岡県に多い地名であることは確か)」にも近く、何らかの関連があるかもしれませんね。
なお、いまの九州の最も古い政治地図も「記」に残っています(p57)。
「…故、筑紫国は白日別(しらひわけ)といい、豊国は豊日別(とよひわけ)といい、肥国は建日向日豊久士比泥別(たけひむかひとよくじひねわけ)といい、熊曽国は建日別(たけひわけ)といふ。」
つまり、四ヶ国しかない。前回「大年神」の神裔に、「白日神」があったことを覚えておいでであろうか。ずばり「筑紫」として出てきましたね。そして豊国も熊曽国も、簡単な呼び名です。この「~別」というのは、分配・分割されているという意味でしょうか。次ぎに肥国。これは長い。古田先生はこう解釈されました。すなはち「建日向日」とは「熊曽国へ向かう途中の…」の意味、「豊久士比泥」とは「豊国の根分けつまり分国にして、奇し火つまり不知火のある国」のこと、とされました。岩波古事記の如く、「名義未詳」とすることもありませんね。
 二回にわたって筑紫に先行した出雲王朝の政治地図、壱岐・対馬の海人族が最も偉い家来であったころの支配地図、それと同じころと思われる九州島の政治地図…などを示しました。次回は次のステップへ進みましょう。では…。