やさしい古代史

古田武彦氏の仮説に基づいて、もやのかかったような古代史を解きほぐしていこうというものです。

番外編(22)

2007-09-09 18:16:54 | 古代史
 台風(9号)一過で、今朝の風のさわやかだったこと…。ようやく秋の気配が実感され始めましたね。みなさま、いかがお過ごしでしょうか。(7日朝!)
さてわたしの「やさしい古代史」ブログ、今回の「番外編(22)」でいったん終らせていただきます。
最後に、わたしは古田先生解釈によるわが国歌『君が代』を取り上げたいと思います。古今和歌集、第七巻343番歌「題知らず、読み人知らず」のあれです。
   <わがきみは 千代にやちよに さざれいしの
            いはほとなりて こけのむすまで>

 国歌として歌われる「君が代」は、上記古今和歌集の歌とは初句の「わがきみは」を違わすのみであとは同じですね。意味は同じでしょう。
この歌は通説の如く、近畿大和王朝の王(いわゆる天皇)を寿ぐ歌でしょうか。それであれば、何故「題知らず、読み人知らず」なのでしょうか。誰にも遠慮することはないではありませんか。
この歌は、近畿大和王朝胎内で詠われた歌ではないのではないか。このような疑問から、古田先生やその説に賛同される方々の探求が始まりました。
「君が代」は九州王朝の讃歌  市民の古代・別巻2(新泉社)
    「君が代」、うずまく源流   市民の古代・別巻3(新泉社)
    「君が代」を深く考える            (五月書房)
古田先生らによる上記著書を参照ください。

 古今和歌集の「わがきみは」の歌は、大和王朝胎内で「万葉集」成立後に詠われた…という解釈が一般的だそうです。しかし本当にそうか。近畿王朝内の歌人であれば、万葉集から古今和歌集成立の約百年の間に、「題」や「読み人」が忘れられて「…知らず」となるのだろうか。
古賀達也氏(市民の古代研究会・大阪)は、「君が代」によく似た歌として、万葉集巻二にある次の歌を挙げられました。(通説は岩波新大系本による)。
  和銅四年(711年)…、河辺宮人の、姫島の松原に嬢子(をとめ)の
  屍(かばね)を見て、悲嘆して作りし歌二首
    妹が名は 千代に流れむ 姫島の
           小松が末に 苔むすまでに      (228番歌)
      (美しい乙女の評判は千代までも伝わるであろう、姫島の小松(が大
       松になって)の梢に下がり苔が生える千年万年の後までも)
    難波潟(なにはがた) 潮干(しほひ)なありそね 沈みにし
           妹が光儀(すがた)を 見まく苦しも (229番歌)
      (難波潟よ潮の干るということがあってくれるな、水に沈んだ乙女の
       姿を見るのはつらい)
通説では作歌者を「河辺宮人」という名の歌人とし、作歌場所をいまの大阪の難波…としています。詳しい論証は「『君が代』、うずまく源流」にゆずりますが、結論だけをお知らせしましょう。
  河辺宮人:人名ではなく、(福岡県)志麻郡の川辺の宮に仕えた官人とする。
     志麻郡:鶏永・志麻・久米・川辺・明敷・韓良・登志郷(和名抄)
     参考に、次の歌を挙げる。
     <高光る 倭が日の皇子の 万代(よろづよ)に
            国知らさまし 島の宮はも>    (万葉171番)
     ((高光る)我が日の皇子が、永久に御世を治められるはずであった
      この島の宮は、ああ)
     「島の宮」は蘇我馬子の邸宅であったが、馬子滅亡後天皇家のものにな
     った…として、作歌場所を大和飛鳥と通説はいう。そこに住んだ草壁皇
     子の死を悲しんだ舎人たちの歌(170-193番まで24首ある)とするが、
     悲しみが伝わるか。
     「高光る我が皇子」とは皇子にして"白村江の戦い"で亡くなった九州王
     朝の明日香皇子ではないか。その皇子の宮が「島=志麻」にあったの
     だ。そう解釈すれば、その死を悼む思いがひしひしと伝わるではない
     か…。「島の宮」と「川辺の宮」は同じなのだ!
  姫島:難波の姫島ではなく、糸島半島の西にある姫島(天の一つ根)だ。
  千代:何千年も…という時間ではなく、地名。福岡県庁の南にあたり、筥崎宮
     よりは1km強南。海岸は"千代の松原"といわれていた。因みに灰塚照明
     氏(市民の古代研究会・福岡。もと警察官)によれば、現役時代に糸島
     半島あたりの溺死体は博多湾岸の志賀島に流れ着いたのをよく見た…と
     のこと。この歌も、地名としての"千代"に流れ着いた…というのではな
     いか…。
  小松が末:これも地名。前原市の西、二丈町深江のすぐ東に"松末"があり、現
     地には"小松末"もある…と。松の梢…ではない。
  苔むす:志麻町船越桜谷神社の祭神に「苔牟須売神(こけむすめのかみ)」が
     あり、何らかの関連(この神を歌い込んだ…など)をうかがわせる。
  難波(潟):ある人の調査によると、福岡市城南区にある福岡大あるいは近く
     の地名"片江"や"堤"の南に、その昔「難波池」と呼ばれるところがあり
     湿地帯をなしていたという。このあたりまで海岸線が下りてきていたの
     か、あるいはその名残があったのか…。いずれにせよ、大阪の"難波"と
     決め付けることは出来ない。("片江"は“潟江"か?)
  光儀(すがた):いわゆる「死体」を「光儀」で表現しているのであるが、こ
     の用語は「美しく尊い人」に対する謂いだそうだ。そうすればここで詠
     われている「妹(いも)」といわれる人は、「尊い女性」であろう。
     (つまり「縄文時代の女王、イワナガ姫」ではないか。)
この二首は、実態のはっきりしない非常に難解な歌…といわれているそうです(上記解釈でわかりますか?)。結論を言いましょう。
この作者"川辺宮人"(おそらくは九州王朝の官人で、名はわかっていた。だが、万葉編者は隠したかった)は、長らく九州王朝内で歌われてきた『君が代』を知っていた。そのモチーフ(歌の中に地名を取り込みながら、寿ぎの歌や悲しみの歌を詠う)を生かして、縄文から弥生に移り変わるときの"イワナガ姫"説話(岩波古事記上巻"邇邇芸命"条"5.木花佐久夜毘売"(p131))を詠った。縄文の島「姫島=天の一つ根」あたりで亡くなった(イワナガ姫になずらえた)死体は、福岡湾岸の千代あたりまで流れることを承知していた。そしてその地は、また「君が代」にも歌い込まれた地であることも…。つまり縄文の"女性上位"時代から、弥生の"男性上位"時代に変わったことを詠ったのだ。

 どうも「君が代」は、奈良の官人には知られていた(教養の基となっていた)のではないでしょうか。これほど博多湾岸に散らばる地名が詠み込まれていたため、古田先生とそのグループの方々の探求により、この「君が代」は志賀島の「志賀海神社」で行われる「山ほめ祭り」で"述べられて"いる…ことがわかりました(「君が代」は九州王朝の讃歌)。祭りの第四部で「あららよい山茂った山」の第一声で、次が読まれるのだそうです。

  禰宜二良(櫓を執る)
   君が代は千代に八千代にさざれ石のいわおとなりてこけのむすまで
   あれはやあれこそは我君のめしのみふねかや
   うつつらがせ身骸に命千歳とゆう花こそ咲いたり
   沖の御津の汐早にはえたらん釣尾にくわざらん
   鯛は沖のむれんだいほや
  別当一良
   志賀の浜長きを見れば幾世経ぬらん
   香椎路に向いたるあの吹上の浜千代に八千代まで
   今宵夜半につき給う御船こそ、たが御船なりけるよ
   あれはやあれこそは安曇の君のめしたまう御船になりけるよ
   ゆるかよゆるか 汐早のゆるか 磯良が崎に鯛つるおきな

最初のフレーズにいまの国歌とまったく同じ「君が代」が出てくるのですが、一読して地名のオンパレードであることがわかりますね。また「山ほめ」ではなく、「海ほめ」みたいなお祭りです。これは「我君」のおいでになる船を見ての、喜びの歌なのですね。では我君は、どこから来られるのでしょうか。歌にあるように、「香椎路に向かいたるあの吹き上げの浜千代」から来られるのです。
「君が代」と歌われた「我君」あるいは「安曇の君」とは、当地の王者「筑紫の君」ではないでしょうか。決して近畿大和王朝の王者ではないのです。
さて「君が代」の歌を、裸にしてみましょう。
  千代:先ほども言いました福岡県庁の南の地ですね。海岸には「千代の松原」
     があったそうです。"八千代"というのは、"千代"の美称でしょう。しか
     し地名であって、その後ろには「何千年も…」という時間も隠されてい
     ます。
  さざれ石:普通「細かい石、礫石、じゃり石」と理解されていますが、「細」
     の意味は「神聖な、神の」ということのようです。例えば志賀海神社の
     祭りに出てくる「細男(せいのう)」は、決して"細い男、細かい男"で
     はなく、「神聖な男、司祭者」を意味するようです。また糸島郡の今山
     の麓にある「細語橋(ささやきばし)」は"細かい言葉、ひっそりした
     (内緒)話"ではなく、「神聖な言葉、神の言葉」という意味ではない
     でしょうか。ですから「さざれ石・細石」は、「神聖な石、人間の力の
     及ばざる石、淵源の石」という意味でしょう。
     思い出されるのは、"縄文の巨石信仰文化、イワナガ姫に代表されるそ
     の文化の壊滅"ですね。そして下記に述べます三雲・井原の近くに「細
     石神社」もあるのです。ちゃんと歌い込まれていました。
  いは(わ)ほ、いわお:前原市の三雲の南に「井原」があり、「いわら」と発
     音するのだそうです。これで古田先生は、「君が代」の中の「いはほ
     (いわお)となりて」の意味が解けた…と思われました。「いわら」は
     「岩羅」であり、上記にもある「磯良(羅)」や「早良(澤羅)」と軌
     を一にした謂いである…と。つまり「ら」は地名接尾語であり語源は
     「いは(いわ)」、つまり「いはほとなりて」の中に「井原」が歌いこ
     まれてあるのだ…と。この「ほ・秀」も接尾語ですね。
  こけのむす:糸島半島の志摩町船越に、「桜谷神社」があります。その祭神に
     「苔牟須売神(こけむすめのかみ)」があります(前述)。当然「苔の
     生(む)すまで」という"永久の時間"を歌ったとき、この神社の祭神を
     取り入れたのです。
     またこの神は「苔牟須(こけむす)・売神(めがみ)」と分解すれば、
     いわゆる"縄文の女神"と目していいのではないでしょうか。

 古田先生は、「この歌は女性上位であった縄文文化を破壊し、男性上位となりつつある弥生の時代、つまりその過渡期に作られた」とされました。金属器は出てこない(我君は矛を持って…などの思想はない)、しかし地名を歌い込んだ中にも「さざれ石」が「巌(いわお)」となる…のようにいまの思想にも通ずるものがあると、わたしは思います。

 この歌が明治の初期、日本の国歌となるまでのいきさつは上記著書によります。かいつまんで言えば、(長い間筑紫王朝内で"述べ"続けられてきた)「君が代」はまず「古今和歌集」に採られ、「和漢朗詠集」などいろんなところに取り込まれた結果、薩摩琵琶歌「蓬莱山」を経て国歌として推奨されたのだそうです。
つまり全国に広まり、貴人を寿ぐ普遍的な歌…と理解されていたのでしょう。単に一地方の豪族にはあらず、筑紫王朝の「筑紫の君」を寿ぐ歌だったからこそ普遍性があったのです。

 これほど当地の地名や神の名を歌の中に取り込み、かつ「我君」を寿ぐ歌に仕上げる…、たいした(民衆の)腕です。おそらく一人の作者にあらず、長い年月述べ続けられ、その間に贅肉がそぎ落とされたのではないでしょうか。
万葉集228番および229番歌を詠った「川辺宮人」は、この九州王朝の「君が代」を知っていた。それに倣って、やはり地名を歌い込みながら遠き「イワナガ姫」物語を歌った(題に作歌時は和銅四年(711年)とあり、「古事記」が上梓されたのが和銅五年(712年)であるから、川辺宮人は古事記の内容を(共通の知識として)知っていた…と考えられる)。いかが思われますか。

 今度は後代の「続古今和歌集九」の歌を、灰塚さんが紹介されました。
     <君が代の はるかに見ゆる 旅なれば
            祈りてぞ行く 生の松原> (太宰大弐高遠)
この歌は大和の官人が筑紫(太宰府)へ、公用で旅したときの作歌でしょう。「生の松原」は、福岡市の西区の"元寇防塁"史跡の近くにあります。ですから博多湾岸の東には"千代の松原"が、そして西には"生の松原"があることになります。
大和の官人は、能古島の西を通って那の津に入港しようとしているのでしょうか。そして古今和歌集の「わがきみは」、あるいは山ほめ祭りの「君が代は」を知っていた。ですから無事船旅を終えることが出来た喜びと、はるか昔"九州王朝"があったことを知っていて「君が代の はるかに見ゆる」と詠ったのでしょう。この場合の"君"はやはり"筑紫の君"であり、その君臨されていた御世が"はるかに見ゆる”ということでしょう。

 これまで長きに亘り、古田先生の唱えられた説「日本の古代史は、弥生の初め(紀元前200年当たりか)ころまでは出雲にあった出雲王朝、その後七世紀終末(700年)までは九州に"筑紫王朝、引いては九州王朝"が存在したことを前提にしなければ解明できない」を紹介してまいりました。出来る限りやさしく…と思いましたが、わたしの理解不足と文章力の稚拙さが相俟って、みなさまにご理解いただけたかどうか…非常に心配です。
これら王朝は唯一つで存在していたわけではなく、この列島の到るところにその地の主権はありました。琉球・薩摩・日向・豊・安芸・吉備・大和・信濃・吾妻・東日流(津軽)…などなど、いま縄文や弥生の遺跡があるところに主権があったと考えられます。
これを「近畿天皇家一元史観」に対する概念として、古田先生は「多元史観」と名づけられました。
しかし中国の歴代王朝や半島の国々から、この列島の主権者と認められていたのは「筑紫王朝、九州王朝」だけであった…ということです。近畿大和王朝に先行して「筑紫・九州王朝」があった…のです。しかし唐の則天武后に列島の主権者として認められたことにより、元を「大宝(元年、701年)」と建て、いよいよ列島を代表する唯一の主権者になったのです。

 では皆さん、長い間ありがとうございました。
チャンスがあれば、今度は「物語」のブログを発足させるつもりです。題名としては、「セブリヤコ」かなあ。お楽しみに…。

番外編(21)

2007-08-22 19:06:03 | 古代史
 みなさま、残暑お見舞い申し上げます。
暑い夏も高校野球とともに終る…と毎年思うのですが、今年は少し違います。私の故郷、佐賀代表校が決勝まで残ったではないですか。いまは神戸に住んでいるのですが、広島代表との試合、どきどきしながら待っています。
これまで投稿を休んでいたのは、依頼があった機械取説の英訳を、酒代稼ぎに汗を流しながらしていたからです。さてまた「やさしい古代史」に戻りますが、昼からの高校野球も見たいし…。

 今日は、人麻呂が大和から(たぶん)筑紫太宰府へ向け船旅をする八首を紹介しましょう。つまり東から西への船旅ですが、その中に一首だけ通説で"(太宰府から)帰るときの歌"とされているものがあるのです。
古田先生は、「八首のうち一首だけ帰りの歌…というのはおかしい」と考えられました。その論証の跡を紹介します。
今回は八首とも"読み"から入ります。そして(新)は岩波の新古典文学大系、また(小)は小学館古典文学全集といたします。何もないのは、両書に共通しているか大異がないということです。

  柿本朝臣人麻呂の羈旅(たび)の歌八首

(249)三津(みつ)の埼 浪を恐(かしこ)み 隠江(こもりえ)の
      舟公宣奴嶋尓(この六文字の読み方は不明…と)
   (意味)三津の埼の浪が恐ろしいので、隠江の……
   (解説)"三津の埼"は、難波(大阪)にあった岬だそうです。隠江というのは深い入り江で、舟が波を避けるのにいいところですね。最後の六文字は、いまだ読みに定説がないそうです。わたしが思うに、三十一文字には("ふねこぎぬしまに??"のあと)まだ六、七文字が欠けていると…。いよいよ難波の津から出航ですね。

(250)珠藻(たまも)刈る 敏馬(みぬめ)を過ぎて 夏草の
      野嶋が埼に 舟近づきぬ
     (一本にいう:処女(をとめ)を過ぎて 夏草の
          野嶋が埼に 廬(いほり)す我は)
   (意味)海人たちが海藻を刈る敏馬を過ぎて、夏草の茂る野嶋の埼に舟は近づいた。(ある本にいう:処女を過ぎて、夏草の茂る野嶋の埼に仮廬(かりほ)を結んで休む(泊まる)ことにしよう、わたし達は。)
   (解説)"敏馬"は、いまの神戸市灘区岩屋あたりですね。昔は敏馬神社あたりが海岸だったらしいのですが、いまでは埋め立てられて国道が通り工場が建っています。"野嶋"は淡路島の北端の地で、十年ほど前の阪神淡路大震災の震源地でした。覚えていらっしゃるでしょうか。また"処女"は芦屋市から神戸市東部あたりの地をいい、いま処女(求女)塚古墳というものもあります。

(251)淡路の 野嶋が埼の 浜風に
      妹(いも)が結びし 紐(ひも)吹き返す
   (意味)淡路の野嶋が埼の浜風に、妻が結んでくれた旅衣の紐が(いたずらに)吹き返されていることよ。
   (解説)旅に出るときには、男女(夫婦)はお互いの衣の紐を結び合いするのだそうです。人麻呂は風に吹かれるままの紐を見て、大和に残してきた妻を思い出したのでしょうか。

(252)荒栲(あらたへ)の 藤江の浦に すずき釣る
      泉郎(あま)とか見らむ 旅行く我を
     (一本にいう:白栲の 藤江の浦に いざり(漁)する
   (意味)(あらたへの)藤江の浦でスズキを釣る海人と見はしないだろうか、この旅行く私を。(ある本にいう:(しろたへの)藤江の浦で漁をする(魚を獲っている)…)
   (解説)「荒栲の、白栲の」は、"藤(江)"にかかる枕詞です。"藤江"は明石市西部のいまもある藤江ですね。ちなみに「海人(あま)」をあらわすのに、「白水郎、泉郎、海部、海士、(海女)」などがあるようです。また「いざり」は「いさり」の古い言い方だそうで、「漁火(いさりび)」などはご存知ですね。まあ歌の順序と旅の順序とは一致してはいませんが、とにかく難波の津から明石あたりまで来たことがわかります。

(253)稲日野(いなびの)も 行き過ぎかてに 思へれば
      心恋しき 可古(かこ)の嶋見ゆ
     (一本にいう:湖(みと、みなと)見ゆ。)
   (意味)稲日野も行き過ぎかねる思いでいると、心に恋しい加古の嶋が見える。(ある本にいう:(加古の)みと(港)が見える。)
   (解説)"稲日野"は「印南野」であって、いまの加古川市・明石市・加古郡稲美町にわたる広い地域を指したようです。"可古"は「加古」であって、加古川の河口は当時立派な港(津)だったようですね。河口の前の嶋が、波除けをしてくれたのでしょうか。

(254)灯火(ともしび)の 明大門(あかしおほと)に 入らむ日や
      漕ぎ別れなむ 家のあたり見ず
   (意味)明石海峡に差しかかる日には、(大和とも)いよいよ漕ぎ別れるのだなあ、家のあたりも見ないで。
   (解説)明石海峡を越えることは、いよいよ畿内を離れることを意味したようです。「灯火の」は、明るい…ことから「明(石)」の枕詞だそうです。「明石海峡」を「明(石)大門」とは、言いえて妙ですね。旅程からすれば、(250番歌)の前後でしょうけど…ね。

 さて次の(255番歌)が問題の歌なので、後回しにします。
(256)飼飯(けひ)の海の 庭よくあらし 刈薦(かりこも)の
      乱れて出(い)づ見ゆ 海人の釣り船
     (一本にいう:武庫の海の 庭よくあらし いざりする
          海人の釣り船 浪の上ゆ見ゆ)
   (意味)飼飯の海の漁場はいいらしい。(刈薦の)入り乱れて漕ぎ出していくのが見える、海人の釣り船が。(ある本にいう:武庫の海の漁場がよいらしい。漁をする海人の釣り船が、浪の上に見える。)
   (解説)"飼飯の海"は、淡路島の西海岸で西淡町慶野松原の沖に広がる海をいいます。「庭」は事を行うための場所であり、海の場合は「漁場」のことになりますね。「あらし」は「あるらし(い)」の略だそうです。また"武庫の海"とは、いまの尼崎市から西宮市にかけての、つまり六甲山(むこのやま)の沖合いの海を言います。いずれにせよ難波の三津の埼を出たあとか、明(石)大門を越えた所(あるいは手前)での作歌であり、東から西への旅には変わりはありませんね。

 さて、いよいよ問題の歌です。とりあえず、通説に従います。
(255)天離(あまざか)る 夷(ひな)の長道(ながぢ)ゆ 恋来れば
      明門(あかしのと)より 倭嶋見ゆ
     (一本にいう:家門あたり見ゆ)
   (意味)(新)(天離る)地方からの長い道中恋しく思いながら来ると、明石海峡から大和の地が見える。(ある本にいう:家のあたりが見える。)
       (小)(天離る)遠い鄙(ひな)からの道のりを恋しく思いながらやってくると、明石の海峡から大和の山々が見える。(ある本にいう:家のあたりが見える。)
   (解説)(新)254歌とは逆に、東へ帰る旅。河内・大和の国境の山並みを海上から見た喜びである。(後略)
       (小)「天離る」は「夷(鄙)」の枕詞。「鄙の長道ゆ」は、都を離れた遠い果ての、長い旅路の間をずっと…の意。「大和嶋」は、故郷大和のある地。実際は生駒・葛城の山々をいうか。…「家門」は、「門」を添え字とみなして「いへ」と読む。

 それでは古田先生の論証の跡をたどってみましょう。
     (1)まず元暦校本の「倭嶋」。これを通説では「大和嶋」とし、「河内・大和の国境の山並み、実際は生駒・葛城の山々」としていますね。これは江戸時代から現代まで、定説めいた解釈になっているようです。それでは…と反問されます。広島県から見て中国山地の向こう側は出雲だが、広島県の人は中国山地を「出雲嶋」というのか…と。逆に出雲の人は、中国山地を「安芸嶋」とか「吉備嶋」と呼ぶのか…と。誰もが首を横に振るはずです。
     (2)八首の中で第七首目の一つだけが東を向いた歌…、これはどう見ても不自然ですね。澤瀉(おもだか)久孝氏の「万葉集註釈」には(投稿者注;一首だけ東を向いた歌があるのは)「原本に集められていたままに編輯したもの」と書かれてあるそうですが、これは書紀の「筑紫都督府(天智六年十一月条)」の注に「筑紫太宰府をさす。原史料にあった修飾がそのまま残ったもの」と同じく、誰もそのようなものを見た者はなく、よって誰も追試(後追い検証)が出来ない…と言われます。誰も見ることのできない史料に逃げ込むのは、アンフェアーだ…と。だからこれも「東から西への」旅の歌と見ることが自然でしょう。
     (3)「倭嶋」…、これは(いままでの古田説からすれば)「ちくししま」と読むのではないか。「やまと」が奈良県だけを指すのではなく「大和王朝の統治領域」を指す如く、「ちくし」は福岡県だけでなく「筑紫九州王朝の統治領域」だった地を指す…用法でしょう。東から西へ明石海峡を越えた人麻呂の目の前には、家島諸島や小豆島・四国などの(旧)筑紫領だった島々があるのです。だから人麻呂にとって「夷の長道ゆ」とは、「都であった太宰府より遠く離れた大和(飛鳥など)をはるばる離れて…」の意味でしょうね。
     (4)次は「家門」です。上記(解説)の(小)で、あっさりと「"家門"は"家"に同じ」としていますが、これでは直前254歌の「家のあたり見ず」との違いはわかりません。人麻呂は「明石大門(明石海峡)(254)」や「大王の遠の朝庭と蟻通う嶋門を見れば神代し思ほゆ(304番歌)」のように、陸(島)に挟まれた海を「門」に挟まれた海と表しています。明石海峡を越えてきた人麻呂の目の前には、「家島諸島」があったのではないでしょうか。ですから島々の間の海を、「家門」で表した…。字使いの名人、人麻呂らしいではありませんか。このことからも、やはり「東から西への船旅での作歌」ということが出来ますね。この一首だけが「西から東へ」…とせずともいいのです。
   (意味)遠い大和から慕わしい筑紫太宰府を目指して船旅すれば、明石海峡より(家島などの)筑紫島が見え出したことよ。(我流)

 次に、こんどはこの(通説による)(255番歌)と同じような「山跡嶋根」と詠み込まれた歌を紹介しましょう。

  柿本朝臣人麻呂の、筑紫国に下るときに海路にして作る歌二首
(303)名ぐはしき 稲見(いなみ)の海の 奥つ浪
      千重(ちえ)に隠りぬ 山跡嶋根は
   (意味)(新)その名も美しい印南の海の沖の波、その千重の波のかなたに隠れてしまった、大和の地は。
       (小)名も美しい印南の海の沖波の、千重波のかなたに隠れた、大和の山々は。
   (解説)(新)西航する舟は明石海峡を抜け、播磨国印南の沖を進んでいる。…「大和嶋根」は、「大和嶋(255)」と「根」の複合語。(後略)
       (小)「千重」は「千重浪」の意で、「沖つ波」と同格。「大和嶋根」は「大和嶋(255)」に同じ。海上から眺めた陸地としていう。

 これはどうでしょうか。
     (1)古田先生は「この歌の目線は、舟から波を眺める…下向きである」といわれます。決して(255番歌)でいう、生駒・葛城の山々を仰ぎ見る上向きではない…と。しかも表題の「筑紫国に下るとき」や(解説)の(新)のように、この舟は「西航」しているのです。「振り返って大和の国を見た」…とは、どこにも詠われていませんね。因みに二首のうちの一つは、上記(4)で引き合いに出しました(304番歌)なのです。番外編(16)<いづこなる「遠の朝庭」>を見てください。
     (2)確かに元暦校本でも「山跡嶋根者」ですから、これを「やまとしまねは」と読むのは確かでしょう。ではどこか…。淡路島の北端、岩屋の近くに現在「大和島」と呼ばれる小島(岩礁?)があるそうです。この小島の存在は、「倭嶋、山跡嶋根」の論争のときには諸先生方に知られていたそうです。(実は大和島の北側にもう一つ、「絵島」と呼ばれる小島(岩礁?)があるそうです)。しかし諸先生方は、「この小さい島が、倭嶋・山跡嶋であるはずがない。大和島というのは、この歌によって後でつけられたものに過ぎない」といわれるのだそうです。
     (3)古田先生は「陸地での(字)地名が農家の人にとって重要であると同じく、漁師の人にとって島や岩礁の名はやはり重要である」といわれます。波に隠れてしまう小さな岩礁であればあるほど、船の沈没を防ぐためには必ず名がついていなければならない…と。「大和島」がこの歌によって後からつけられたものなら、では「絵島」はどうだ…と。逆に「岩礁のある津、岩屋の漁師にとって『山跡嶋・絵嶋』のほうが古く、いわゆる『山跡』という日本語の本来の"表出内容"を示しているのではないか…」とも言われます。(この場合「根」は、「(大和島の)ふもと、近く」といったような意味でしょうか)。
     (4)人麻呂は、どうして筑紫に下っているのでしょうか。人麻呂は大和の飛鳥において、最愛の妻を失いました。そして"血のにじむ"ような「泣血哀慟歌」に、次の一説があるそうです。「言はむ術(すべ) 為す術知らに 声(おと)のみを 聞きてあり得ねば わが恋ふる 千重の一重も 慰むる 情(こころ)もありやと わが妹子が (後略)(207番歌)」。人麻呂はここ岩屋の「大和島」に来て妻が亡くなった「大和」を思い出し、「千重の一重も」と同じフレーズ「千重に隠りぬ」を使ったのでしょう。よってこの歌も、通説では人麻呂の心が伝わりませんでした。

 途中、高校野球を見ました。そうしたら8回の裏、なんと前回まで三振を喫していた副島君が満塁ホームラン!! もしかしたら…と思っていたことが、まさにいま実現した瞬間でした。ばんざーい、ばんざーい、佐賀! よかったのう…。

番外編(20)

2007-07-30 16:01:08 | 古代史
人麻呂作歌:万葉36-39番歌(その二)

 それでは、疑問点・問題点を一つ一つ解きほぐしていきましょう。古田先生の著書、「壬申大乱」によります(ほとんどわたしの意訳ですが…)。

1)この持統天皇が御幸されたという「吉野」はどこでしょうか。「当然それは、大和の"吉野"だろう。通説では、誰もがそれを疑ってはいないからな」「しかも吉野川のそばに"宮瀧”という所があり、そのむかし”宮”があったということを聞いたぞ」…。これが当然の理解ですね。
しかし書紀における”亡くなった夫である天武天皇を慕っての三十一回にわたる「天皇、吉野宮に幸(いでま)す」記事”は、”九州王朝衰退への道(3)”において解説しましたように、「九州王朝の天子の”白村江の戦い”前の肥前吉野新北の津への軍船建造の視察・進水式への出席・軍船と兵士の閲兵」…と。あの「三十四年のズレ」によって、持統紀の年代を三十四年前にもっていったときの解釈が、三十一回の吉野幸に最も納得がいく説明が得られた…ということでしたね。
ですからこの問いに対する答えは、”肥前吉野”である…ということです。「吉野ヶ里」はご存知ですよね。「里」は条里制の名残だということも…。佐賀市内にも”兵庫町吉野”という字(あざ)もありますし、佐賀市内を貫通する嘉瀬川の上流には「吉野山キャンプ場」もあるそうです。因みにこの嘉瀬川はいまでこそ下流は南流して直接有明海に注いでいますが、江戸時代の治水前までは東流して筑後川に合流していたそうです。ですから普段は穏やかな流れでしょうが、大雨が降ればすぐ堤防を越えて佐賀の城下は水浸し…というありさまだったようです。また太宰管内志によれば、杵島郡蔵王権現の項に”木庭吉野御嶺”もある…と。つまり、肥前は「吉野」だらけ…。
なお”和名抄”によれば、「肥前国神崎郡宮処(みやどころ)」とありまた”肥前国風土記”にも「宮処(みやこ)の郷。郡の西南の方にあり」とあるそうです。まさに「吉野の宮」でしょうね。

2)では次に「吉野の川(37)」「吉野川(38)」です。上流に「吉野山キャンプ場」もあることから、いまの”嘉瀬川”でなないでしょうか。地図を準備願えませんか。出来れば、”10万分の1”の「九州自動車道」などがいいですね。佐賀市の西を流れる嘉瀬川を見てください。その長崎自動車道の北、景勝地の川上峡あたりから北です。嘉瀬川に沿って国道263号線が、東を通り福岡市へ向かっています。そして西岸には、嘉瀬川に沿うように国道323号線が走っていますね。
ではその上流より、下流に向かって323号線を辿ってみましょう。畑瀬から下った嘉瀬川は古湯温泉(富士町)を少し過ぎると、突然東に向かいます。名勝(雄淵・雌淵の)雄淵の瀧を右に見ながら東流し、鮎瀬を通り鮎瀬橋をくぐって湯の原へ来ます。この辺りは、北の小副川という地名から名づけられた小副川川と嘉瀬川がぶつかるところです。しばらく行って三反田あたりで、南流に変わる…。
因みにこの”雄淵の瀧”は高さが約75mもあり、直下する一大瀑流だそうです。大和吉野川にはない”瀧”が、ここ肥前吉野川には現存するのです。このあたりが「秋津の野辺に宮柱太敷き…水激つ瀧の都…」があったのでしょうか。そういえば古湯温泉のすこし北に、”御殿”なる地名も見えますが…。
また鮎瀬や鮎瀬橋の地名は、昔この辺りが”瀬・やなを利用した鮎(アユ)漁の場”であった名残でしょうね。「上つ瀬に鵜川を立ち 下つ瀬に小網さし渡す(38)」と詠われた所でしょうか。そして”川”の重複名を持つ小副川川は、字使いに優れた人麻呂によって「逝(ゆき)副う川の神も(38)」と歌い込まれたのではないか…といわれます。そしてまた、両川の合流地点である湯の原辺りの嘉瀬川の様子が、”激つ河内(38、39)”ではないか…とも。
わたしもいっぱしの古代史愛好家をきどって、三年ほど前嘉瀬川沿いに従兄弟と弥次喜多道中をしたことがあります。いまはえぐれて深くなっていましたけど、川幅はけっこうに…10-20mほどはあったのではないでしょうか。もしもっと川底が浅く水が豊かに流れているとすると、両岸の行き来には当然舟が必要でしょう。また上流より下流へ行くには、ゆったりとした流れに乗ったり、渦巻く波を乗り越えることもあっただろうと想像できました。そしてまた国道にのしかかってくるような周囲の山に、巨大な磐が緑の中から顔を覗かせていました。地震で一揺れしたら、ひとたまりもなく落石が起こる…(わたしの実見です)。

3)少し細部の検討です。(36歌)の最後は「瀧の都は見れど飽かぬかも」と詠まれていますが、元暦校本では「瀧之宮子波見礼跡不飽可問」ですね。この「宮子」を「都」としてきたのですが、古田先生は「字使いに秀でた人麻呂であるから、それは不当」とされました。人麻呂は「子」を以って、「太宰府のような大きな都にあらず、天子のとどまられるいおり(庵)・離れ屋・小さな離宮…」を連想させようとした…といわれます。確かに大和吉野川の「宮瀧」に宮があったとしても、肥前吉野川に「宮子」があったとしても、誰も”巨大な都”とは思いますまい。あるいは”避暑地の行宮(仮の宮)”であったかもしれません。
次に(38歌)の「高殿を高知りまして登り立ち国見をせせば…」です。これは”御殿”という意味ではなく、一種の”展望台”であろうといわれます。これに登って、周囲の景観や「上つ瀬に鵜川を立ち下つ瀬に小網さし渡す」”鮎漁”の様子をご覧になっているのだ…とされました。
同じ(38歌)にある「逝副川之…」は「行き沿う川の…」とも読まれていますが、これは「小副川川」が詠い込まれている…といいました。この「逝川」を「流れ去る川」の意味に使った例が、「論語」にあるそうです。孔子の言葉に「子(し)、”川上”にありて曰く、『逝く者は斯くの如きか。昼夜を舎(お)かず。』と」とあるそうで、論語の素養をベースにした詠い込み…という人麻呂の教養の一端に触れました。そしてこの論語を用いた真意は…?、”大王の舟”は「激つ河内に船出」をして、やがて下流の「川上」(いま川上峡がある)に到ることを暗示しているのではないか…と。

4)次は(38と39番歌)にある「(山川も)依りて仕ふる神の御代かも、依りて仕ふる神ながら…」の、「依りて仕ふる」問題です。前回を見てほしいのですが、新・旧大系本も小学館本も、いずれも「(山や川の神が)共にお仕えする(神にまします)天皇の(御代で…、御心のままに…)」と、”(持統)天皇を山・川の神の上位においた解釈!”をしています。これは小学館本の”解説”に、顕著に示されていました。しかしそれは上記の作歌場所を”大和枠内”から離脱しえない従来の学者、かつ(万葉235および241番歌)をなんら批判(決して非難にはあらず、歌の内容や時代背景を考慮した論証を言う)もせず受け入れた国学者、の解釈ではないでしょうか。
作歌場所を「肥前の吉野川」とすれば、どうなるでしょうか。「雄淵の瀧」の脇を登って瀧の最上段を越えたとき、眼前に”巨石郡”が出現するそうです(わたしは残念ながら登っていません。が、上記2)でも言いました)。これら巨石郡への信仰は、はるか縄文時代にまで遡るだろう…と。嘉瀬川(吉野川)とそれを取り巻く巨石を抱えた山々、これらは”大自然の神”に仕えている…。これら山や川の神々は、”大自然の神”に「依りて仕へ」ている…。これが人麻呂の自然観だ…と。
このような大自然の「姿」はいつからあるのか。当然「神の御代」である悠遠なる”古”から現代(7世紀)を通り、このあとも変わることはあるまい。――これが人麻呂の歴史観だ…と。
いまの”大王(大君)”は、ほんの一瞬だけこの地を支配しているに過ぎない…。だから(38歌)の「わご大君神ながら神さびせすと…」は、大君が「神である」ことを示しているのではない。逆に「神でない」こと、すなわち「人間である」ことを示している…と。これまでの学者は、この壮大なスケールの”視点”を見失っていたようです。”神でないから”こそ人間として、大君は「神の御代」のムードに触れるべくこの大自然の中にやってきたのだ…と。

5)同じく(38歌)の「(川の神も)大御食(おほみけ)に仕へ奉(まつ)ると」の「大御食」です。これは「大王の大御食」などではない。「大自然の中心の神」、言い換えれば「畳づく青垣山」に対する供え物である…と。「山自身を(大自然の)神とみなす」、古代の神の概念ですね。

 この四首には、「中心の神としての自然神(青垣山になぞらえた)」と「山や川の神」がいて、一瞬の支配者としての「わが大君」がいます。自然神に対し、山の神は春には花を秋にはもみじを奉り、川の神は自然神の食卓にアユを奉ります。
山や川の神が天皇に仕えていると解釈して、人麻呂を”超天皇主義者”に仕立てては決してならないのです。

 古田先生は、この四首にかかる”意味”を示していらっしゃいません。ですから上記の解説をもとにして、わたしの責任において”意味”を記してみます。うまく人麻呂の本意が伝わるかどうか、身の程知らずな大冒険です。皆さんが考えられる”意味”がよければ、そちらを採用…!?

(36番歌)わが大君がお治めになる天下(領地)に国は数多くあるが、山や川が清
  らかな谷間だとお心を寄せられた吉野の国の、秋津の野辺(嘉瀬川つまり吉野
  川河畔)にしっかりと行宮(仮の宮・離宮)をお建てになられた。そこで太宰
  府の大宮人らは船を並べて朝に川を渡り(宮に出仕なされ)、夕には競って舟
  でお帰りになる。この川の流れは(大君の御代と同じく)絶えることはなく、
  山は(御徳のように)高く、それらに囲まれた流れの激しい川を前にしたこの
  「瀧の離宮」は、いくら見ても見飽きることはない。
(37番歌)見飽きない吉野の川の常滑のように、またこの地へ還って来ていつも絶
  えることなく眺めていよう。

(38番歌)わが大君は、神のように神らしく振る舞ってみようと(自然の神に寄り
  添ってみたいとお思いになり)、吉野川の水が激しく流れるほとりに高い櫓
  (やぐら)を立てて眺めて見られると、幾重にも重なった青垣山の(自然の)
  神は春には花を秋にはもみじを(山の神に)捧げられ、流れ去る川の神も鵜追
  いや小網(さで)で獲ったアユを(自然の神に)奉っている。山の神も川の神
  も心から(自然の神に)お仕えしているさまは、あぁー、まさに神代の出来事
  だなぁ。
(39番歌)山や川の神もお仕えする自然の神のように、大君は激しく流れる川の中
  に舟遊びに船出をされることよ。(行き先は、”川上”だ。)

 うまく意味が通じますか。ではこの辺で…。

番外編(19)

2007-07-26 19:29:07 | 古代史
人麻呂作歌:万葉36-39番歌(その一)

 しばらくお目にかかれませんでした。いえサボりではなく、柿本朝臣人麻呂の歌で表題と歌の内容が合わないのがもっとあったはずだ…と探していたのです。古田先生の著書「人麿の運命」でもなく、「古代史の十字路―万葉批判」でもない…。
わたしの本棚にある著書で、人麿について書いてあったなぁ…という記憶を頼りに、片っ端から探しました。諦めてプララのブログに書いている物語「瀛(大海人)の皇子」で少し調べることがあったので(このブログは書き溜めていた物語を引き写しているので、めったに調べることはないのです)、「壬申大乱」(東洋書林、2001.10)を手に取ったところ、何とこの著書にありました!
で、もう一度読み込みましたので、再開します。

 結論から言えば、九州王朝の存在を抜きにしては理解できない…歌です。通説と比較しながら、古田先生の論証の跡を紹介しましょう。以下の四首は、広野姫(大海人・天武の妃、持統と諡)の時代におかれてあります。

 通説は、「壬申大乱」中の旧大系本、わたしの持つ新大系本(いずれも岩波書店(新)日本古典文学大系)および小学館本(小学館日本古典文学全集)とします。

元暦校本:幸于吉野宮之時柿本朝臣人麻呂作歌
    八隅知之 吾大王之 所聞食 天下尓 国者思毛 澤二雖有
       山川之 清河内跡 御心乎 吉野乃国之 花散相
       秋津乃野辺尓 宮柱 太敷座波 百磯城乃 大宮人者 船並弖
       旦川渡 舟競 夕河渡 此川乃 絶事奈久 此山乃
       弥高思良珠 水激 瀧之宮子波 見礼跡 不飽可問  (36番歌)        ―反歌―
    雖見飽奴 吉野乃河之 常滑乃 絶事無久 復還見牟    (37番歌)

    安見知之 吾大王 神長柄 神佐備世須登 芳野川 多芸津河内尓 
       高殿乎 高知座而 上立 国見乎為勢婆 畳有 青垣山
       山神乃 奉御調等 春部者 花挿頭持 秋立者 黄葉頭刺理 
       逝副川之 神母 大御食尓 仕奉等 上瀬尓 鵜川乎立 
       下瀬尓 小網刺渡 山川母 依弖奉流 神乃御代鴨  (38番歌)        ―反歌―
    山川毛 因而奉流 神長柄 多芸津河内尓 船出為加母   (39番歌)
これらの歌は、番外編(17)で紹介しました「万葉29、30および31番歌のあとにあります。これらも意味深な歌でしたね。さて、今回はどうでしょうか。

通説:上記
  表題:吉野宮に幸(いでま)しし時、柿本朝臣人麻呂の作る歌
  読み:旧大系本により、相違がある場合に( )内に新大系本また小学館本
     を記す。また( )には、カナ遣いも記す。
    (36)やすみしし わご(が)大君の 聞こしめ(を)す 天の下に
       国はしも 多(さは)にあれど 山川の 清き河内(かふち)と
       御心を 吉野の国の 花散(ぢ)らふ 秋津の野辺に 宮柱
       太敷きませば 百磯城(ももしき)の 大宮人は 船並(な)めて
       朝川渡り 舟競(きほ)い 夕河渡る この川の
       絶ゆることなく この山の いや高知らす 水(みな)激(たぎ)
       つ(そそぐ) 瀧の都(みやこ)は 見れど飽かぬかも
    (37)見れど飽かぬ 吉野の河(川)の 常滑(とこなめ)の
       絶ゆることなく また還(かへ)り見む

    (38)やすみしし わご(が)大君 神ながら 神さびせすと
       吉野川 激(たぎ)つ河内に 高殿を 高知りまして 登り立ち
       国見をせせば 畳(たたな)づく(はる) 青垣山
       山神(やまつみ)の 奉(まつ)る御調(みつき)と 
       春べは(じぇには) 花かざし持ち 秋立てば
       黄葉(もみぢ)かざせり 逝き副ふ(行き沿う) 川の神も
       大御食(おほみけ)に 仕え奉ると 上つ瀬に 鵜(う)川を立ち
       下つ瀬に 小網(さで)さし渡す 山川も 依(よ)りて仕ふる
       神の御代かも
    (39)山川も 依りて仕ふる 神ながら たぎつ河内に 舟出せすかも

  意味:(旧大系)(39)山も川もあい寄ってお仕えする神にまします大君は、
        水のたぎち流れる吉野川の深い淵に船出あそばすことである。

     (新大系)(36)(やすみしし)わが大君がお治めになる天の下に国は
        数多くあるが、山や川の清らかな河畔の地として(御心を)吉野
        の国の(花散らふ)秋津の野辺に宮柱を太く宮殿をお建てになっ
        たので、(ももしきの)大宮人たちは舟を並べて朝の川を渡り、
        舟を競って夕べの川を渡る。この川のように絶えることなく、こ
        の山のようにいよいよ高くお治めになる(水そそぐ)瀧の離宮は
        いくら見ても見飽きることはない。
          (37)見ても飽きることのない吉野川の常滑のように、常に
        絶えることなくまたこの地に帰って来て見よう。

          (38)(やすみしし)わが大君が、神の御心まかせに、神ら
        しく振る舞われるべく吉野川の水が激しく流れる河の内に高殿を
        高くお作りになり、登り立って国見をなさると、幾重にも重なる
        青垣のような山々は、山の神が奉る貢物として、春には花を髪に
        挿し秋になるともみじをかざしている。離宮に沿って流れる川の
        神も大君の贄(にえ)にご奉仕しようと、上流の瀬で鵜川狩(う
        かわかり)をし、下流の瀬に小網(さで)を張り拡げる。山神も
        川神も心から服従してお仕えする、神の御代であるよ。
          (39)山川の神も臣従する神の御心のままに、大君は激流の
        中に船出をなされる。

     (小学館)(36)(やすみしし)わが大君がお治めになる天下に国はた
        くさんある中で、特に山も川も清い谷間だとして(御心を)吉野
        の国の(花散らふ)秋津の野辺に、宮殿の柱をしっかりと建てら
        れたので、(ももしきの)大宮人は舟を並べて朝の川を渡り、舟
        を漕ぎ競って夕べの川を渡る。この川のようにいつまでも絶える
        ことなく、この山のようにいよいよ高くお作りになった水流の激
        しい瀧の離宮は、いくら見ても見飽きないことだ。
          (37)見飽きない吉野の川の常滑のように、絶えることなく
        また立ち返ってみてみよう。

          (38)(やすみしし)わが大君が、神であるままに神らしく
        振る舞われるべく、吉野川の渦巻き流れる谷間に高殿を高々と建
        てられて、登り立ち国見をなさると、幾重にも重なった青垣山
        は、山の神が捧げる貢物はこれですと、春のころは頂に花を飾
        り、秋になると色づいた黄葉(もみじは)を飾っている。御殿に
        沿って流れる川の神もお食事に奉仕しようと、上の瀬で鵜川狩を
        催し、下の瀬に小網を張り構える。山や川の神までもこのように
        心服して仕えるさまは、これが神代というものであろうか。
          (39)山川の神も心服して仕える神であるままに、渦巻き流
        れる谷間で舟遊びをなさることだ。

  解説(抄録):(新大系)これらは、吉野(大和の吉野)讃歌であり、また天
        皇賛歌である。それにふさわしく「山川の清き河内」「御心を吉
        野の国の」「花散らふ秋津の野辺に」「宮柱太敷きませば」「水
        激つ(そそぐ)」など、賛辞に満ちている。離宮があるという
        「秋津の野辺」は未詳。「常滑」は常に滑らかな状態、またその
        岩。「山の神は春秋の花ともみじを奉り、川の神は鵜で捕った魚
        や小網で捕った魚を献上する」…と。この天皇讃歌という背景に
        は、書紀による持統の三十一回に及ぶ吉野幸(みゆき)がある…
        という。
     (小学館)古代の天皇は、山川などの自然神に対しても長くその下位に
        あったが、天武天皇のころから現人(あらひと)神として君臨
        し、自然神に対しても優位に立ってきた。この(38)の歌は、そ
        れらの自然神の奉仕ぶりを具体的に述べることによって、天皇権
        力の強大さをたたえた讃歌である。「河内(かはうち)」は、川
        上の谷あいの平地。「舟競ひ」は競争する意。「御調」の「調」
        は貢物。「鵜川を立ち」は、上流から鵜で魚を追わせる川漁。大
        和吉野川上流では、近年まで行われていた…という。「依りて仕
        ふる」は、帰順して・服従して仕える…の意。「神の御代かも」
        は、これぞ伝え聞く神の御代ではないかと天皇の威徳を称えたも
        の…と。

 いかがですか、皆さん。吉野讃歌、天皇讃歌…。(旧大系本による読み・解説は、『壬申大乱』にはほとんどありませんでした。)
しかし上記四首、特徴ある描写がありますね。これらは「吉野川」を特定し得る特色ある地形・情景だと思われます。いかが思われますか。
  (36):「舟並めて朝川渡り」「舟競ひ夕川渡る」。「瀧の都」
  (37):「吉野の川の常滑の」
  (38):「激つ河内に高殿を」「逝き副ふ(行き沿う)川の」「上つ瀬に鵜川
      を立ち」「山川も依りて仕ふる神」
  (39):「山川も依りて仕ふる神」「激つ河内に舟出せすかも」

 古田先生は当然、大和「吉野」を舞台とした歌…と思っておられたそうです。そこでさっそく吉野へ赴き、実地を見て歌の世界に浸りたい…と思われました。そこで四人の仲間と出かけられました。すると…、
1)何と、肝心の「瀧」がない! 上記「意味」でもあるように、「(水そそぐ)瀧
 の離宮」を、「吉野川の激しく流れる河内の(側の)高殿」を、「水流の激しい
 瀧の離宮」を、「吉野川の渦巻き流れる谷間の高殿」を…彷彿とさせるような
 「瀧」がなかった! いや、「宮瀧」という地名はあった。また高さ3mほどの
 「堰(せき)」はあった。しかしこれが「瀧」とは…。吉野歴史資料館の学芸員
 の方も、「瀧はないんです」といわれたとか…。
2)次に「大宮人が朝も夕も船で川を渡る」ほどの水域・川幅、「大君が激流の中
 を船出される」また「渦巻き流れる谷間で舟遊びをする」ほどの水域・川幅もな
 かった! 大和の吉野川は、そのような大きな川ではなかったのだ。宮瀧から車
 で15分くらいの上流に、「蜻蛉(せいれい)の瀧」はある。高さは45mくらいだ
 が、そうめんが落下しているような細い瀧だそうだ。瀧壷もなく、船出はとうて
 い無理…。状況が、歌の内容と合わない…。
3)「天武天皇のころから現人神として自然神に対し優位に立ってきた」という理
 解は、番外編(8、9)で紹介した"万葉235番、241番歌"(阿諛追従の歌と理解さ
 れる)を無批判に信じているから!ではないのか。しかしわたしたちはいま、そ
 の呪縛から解き放された自由の身なのだから…。
4)「山川も依りて仕ふる神…」を、上記を踏まえ「山川の自然神が、服従・心服
 して仕えている神(すなわち天皇)…」と理解できるのか。人麻呂は、ここでも
 「あなたさまは(自然神をも超える)現人神であらせられ…」と追従しているの
 だろうか。人麻呂はそのような「超天皇主義者」だったのか。しかし235番およ
 び241番歌から導かれたことは、「人麻呂は決してそのような歌人ではない」と
 いうことではなかったか。

 さてこのような疑問を、先生はどのように解きほぐされたのでしょうか。この続きは次回で…。

番外編(18)

2007-07-16 21:15:38 | 古代史
 番外編(2)で紹介しました「天の原振り放け見れば春日なる…」の歌(阿倍仲麻呂、古今和歌集)のもととなった歌が、万葉集にあるそうです。
阿倍仲麻呂を紹介しました時、仲麻呂は太宰府で生まれ育った…と、衝撃的な結論に行かざるを得ないことも申しましたね。

 さっそくいってみましょう。
万葉巻二、147番歌です。

元暦校本:近江大津宮御宇天皇代 天命開別天皇諡曰天智天皇
      天皇聖躬不豫之時太后奉御歌一首
     天原 振放見者 大王之
       御壽者長久 天足有              (147番歌)
      一書曰近江天皇聖躰不豫御病急時太后奉献御歌一首

通説:旧大系本、新大系本、小学館本による
  表題:近江大津宮に天の下知らしめしし天皇の代
          天命開別天皇、諡して天智天皇という
      天皇聖躬不豫(みやまひ)の時、太后の奉る御歌一首
   (後書)一書に曰、近江天皇の聖躰不豫(みやまひ)したまひて御病急(み
       やまひにはか)なる時、太后の奉献’たてまつ)る御歌一首
  読み:天の原 振り放(さ)け見れば 大君の
       御壽(みいのち)は長く 天(あま)足(た)らしたり
  意味:(旧大系)大空を仰いでみれば、大君の御命は長久に、天いっぱいに
          満ち満ちている。
     (新大系)大空を振り仰いで見ると、大君のお命は永久に、長く大空に
          満ち溢れております。
     (小学館)大空を振り仰いで見ると、大君のお命はとこしえに長く、
          空に満ち満ちている。
  解説:(新大系)天皇の平癒を祈念し、「御寿長久」と寿命の永遠性を予祝し
          た歌。太后は皇后倭姫王。
     (小学館)"天の原"は大空。"振り放け見る"は振り仰いで遥かに眺めや
          ること。"天足したり"は空いっぱいに満ち満ちていらっしゃ
          る、天皇の命の長久を祈念する表現。

 古田先生は、明らかに表題(や後書き)の表す状況に、歌の内容はそぐわない(似つかわしくない)、ふさわしくない…といわれます。
皇后の倭姫が歌を捧げる当の本人の天智天皇が明日をも知れぬ身であるときに、「天の原振り放け見れば」などというあさってを向いたような歌を歌うだろうか。「急(にはか)に病になられた」時に「御命は長久に天に満ち満ちている」などのおべんちゃらが言えるものだろうか。いやこれは「天皇の命の長久を祈念する歌だ」といわれても、なんだかピンとこない…と。

 古田先生は、次のように考えられました。
1)前書き・後書きは第二史料だ。やはり「歌」本体で考えなければならない。しかし万葉集の場合、作られた「時代」は前書きなどの通りが多い。逆にいえば、万葉集の編集者は歌の作られた時代・時期を知っていて、それにふさわしい時代に当てはめ、また表題などをつけた可能性が高い。
2)よって「天智天皇の時代の作歌」とすれば、仲麻呂の論証からしてこの「天の原」は壱岐の北端部の地名であろう。そして動作方向は、博多湾岸から北上しているのだ。つまり、那の津を発って壱岐の北端部の「天の原」に来たとき、筑紫の方を振り返って歌を作ったのだ。
3)では何故「真の作歌者」は、このルートを通って北上しているのだろう。それは「天智の時代」であれば、「白村江の戦いへの出征」(する兵士)、それ以外にはない。再び祖国の土を踏めるのか…。いや、なかろう。
4)この兵士は、何を見たのだろうか。自分の故郷にある「長垂(ながたれ)山」だ(いま、糸島半島の東、今宿と下山門の間に「長垂トンネル」がある)。すぐ東の室見川の上流には、九州王朝の原点ともいうべき「吉武高木」陵墓がある。この陵墓に参拝した後、長垂山のある那の津より出航したのだ。そしてこの「長垂」を取り、「御寿は"長く" 天"足らしたり"」と詠み込んだのだ。
5)この兵士は「天の原」の地点で振り返ることによって、「天の原ではるばる(筑紫を)振り返ってみると、(わたしは死ぬでしょうが)長垂山の向こうに鎮まります代々の筑紫倭国の王者たちは、永遠のお命を保っておいでです。(筑紫王朝は、永遠に続きましょう)」と詠っているのだ。
6)時間的順序からして、阿倍仲麻呂はこの先行歌を知っていた! 作家者の名もわかっていたのかもしれない。だから遣唐使として派遣される時、壱岐の北端でこの歌を口ずさんだのかもしれない。そして明州での宴で、筑紫の春日山(宝満山)から出る月を歌おうとしたとき、自然に「天の原振りさけ見れば…」の上の句が浮かんだのだ。仲麻呂が知っていたことから、147番歌の作歌者は筑紫倭国の兵士である。本当は、証明の方向は逆かもしれないが…。
7)仲麻呂の時代、もう筑紫王朝は亡んでいた。でも「天の原…」の意味合いは同じだったろう。先人は戦から帰れないかもしれない…、仲麻呂は遣唐使として無地帰国できる保証はない…。

 いかがでしたか、先生の論証は。この147番歌もまた、大和王朝に先行した筑紫王朝の存在抜きには理解できない歌でしたね。
なお、「天の原」の用例を調べられた結果、
A)「天の原」=「天空 sky」とみられる場合
    (巻三)  289、317番歌
    (巻十)  2068番歌
    (巻十三) 3324番歌
    (巻十八) 4125番歌
B)「天の原」=「壱岐の北端部(地名)」と考えられる場合、
    (巻二)  147番歌 (通説ではA)だが、上記論証により)
    (巻十三) 3280番歌
    (巻十五) 3662番歌
    (巻十九) 4160番歌)
皆さん、ご自分の目で確かめられるのも一興ですね。

 これを記している時、三年前に続いて新潟地方に地震が襲ったというニュースを聞きました。本当にお気の毒です。力仕事はできませんので、わずかなお金ですが寄付をさせていただきたいと考えています。
どうか気持ちを強くお持ちになられて、復旧にがんばってください。

 しばらくこのブログを休みます。いや、閉鎖ではありません。また気が向いたとき、再開いたすつもりです。
皆さん、長い間有難うございました。しばしのお別れです。

番外編(17)

2007-07-12 14:28:38 | 古代史
 これまでの番外編(2)から(16)まで(ただし<人麻呂、終焉の地>四回を除いて)、九州王朝の存在を前提にしなけれは理解しがたい歌を紹介してきました。しかし「歌の聖」といわれる人麻呂の歌は、他にも多くあります。
今回はまず、万葉集に初出といわれる長歌および反歌二首を紹介しましょう。もちろん古田先生の著書「人麿の運命」をもとにして、先生の思考理路の通り紹介します。その方がよく歌が理解できる…と、わたしは思うからです。

 「第一章 近江のまぼろし」と題され、まずは反歌から入られました。
今回は、元暦校本による「原歌」は省きます。ご了承ください。

通説:読みは「人麿の運命」に引かれた「旧大系本」による。意味・解説は、
   「小学館本」も採用した。
  読み:ささなみ(楽浪)の 志賀の辛崎 幸(さき)くあれど
       大宮人の 舟待ちかねつ          (反歌30番歌)
  意味:ささなみの志賀の辛崎は昔と変わらずあるが、昔の大宮人の舟は
     いくら待っていても来ない。(段の取り消し、句読点は筆者)
  解説:幸くあれど…変わらずそのままにあるが。大宮人…近江京の官人。
     待ちかねつ…待ち望んでいるが叶えられそうにない。

 天智天皇のおいた近江京の官人らは、確かに「志賀の辛崎」から舟遊びしたことはあったろう。しかし、何かがおかしい。「幸くあれど」…"志賀の辛崎のほうは幸いだった、いまもそうだ。しかし一方、大宮人は(…幸せではない)"、そう歌っているのだ。地形そのものに「孝・不幸」はない。「変・不変」があるだけだ。しかしその「不変」を「孝」として(人麻呂は)捉えている。だが大宮人のほうは、「変」であり「不幸」だった…と。そして「舟待ちかねつ」。近江京の舟遊びで、"戻って来なかった人"はいるのか。天智天皇は近江京で大往生したことは書紀に明記してあり、みな楽しく舟遊びして戻っているのだ。この史実と歌の内容が合わない。変だ…。古田先生はこう自問されます。

通説:同上
  読み:ささなみの 志賀の大わだ 淀(よど)むとも
       昔の人に またも逢はめやも        (反歌31番歌)
  意味:ささなみの志賀の大わだはこのように淀んでいても、昔の人にまた
     逢えようか(逢えはしない)。
  解説:大わだ…ワダは入り江などの湾曲部。淀むとも…大宮人に逢いたそ
     うにいま淀んでいる、たとえこのまま淀んでいるとしても。昔の人
     …近江京時代の大宮人。

 琵琶湖の西端、大津を囲む湾、それはいまも淀んでいる。そこから「淀川」は発している。だが、人麿が逢いたいという「昔の人」とは誰だろう。
船出したままついに戻らなかった大宮人、逢いたいけれど逢えない「昔の人」とは誰だろう、肝心の「昔」とはいつなのだろう。
古田先生の頭には、次々と疑問が生じました。そのモヤが晴れ始めたのは、その前にある長歌からだったそうです。見てみましょう。

通説:同上
  表題:近江の荒れたる都を過ぐる時、柿本朝臣人麻呂の作る歌
  読み:玉だすき 畝傍の山の 橿原の 日知りの御世ゆ 生れましし
     神のことごと つがの木の いやつぎつぎに 天(あめ)の下
     知らしめししを 天(そら)にみつ 大和を置きて あをによし
     奈良山を越え いかさまに 思ほしめせか 天離(あまざか)る
     夷(ひな)にはあれど 石走(いはばし)る 淡海(あふみ)の
     国の 楽浪(ささなみ)の 大津の宮に 天の下
     知らしめしけむ 天皇(すめろき)の 神の尊の 大宮は
     ここと聞けども 大殿は ここと言えども 春草の 繁(しげ)く
     生(お)ひたる 霞たち 春日の霧(き)れる ももしきの
     大宮処(どころ) 見れば悲しも       (長歌29番歌)
  意味(旧大系本):神武天皇の御世以来お生まれになった天皇のすべてが、
     次々と天下をお治めになった大和の国をすてて奈良山を越え、何と
     お思いになったからか(小学館:どのように思われたのか)、田舎
     ではあるが、近江の国の大津の宮で天下をお治めになったという
     天智天皇の皇居は、ここと聞くけれど、御殿はここだというけれど
     いまは春草が繁く伸びている、霞が立って春の日ざしがにぶくかす
     んでいる、この大宮の跡を見れば心悲しい。
  解説:日知りの御世ゆ…神武天皇の御世以来。つがの木…類音によって
     ツギを起こす枕詞。置きて…捨てて。天皇の神の尊…スメロキは歴
     代天皇の尊称、ここは天智天皇。霧れる…おぼろげにかすんで。

 どの本を見ても大同小異で、「神武天皇以来、代々の天皇の都は大和にあった。それなのになぜか(第三十八代の)天智天皇は、この近江へ都を移された。」と述べた後、「天智天皇が亡くなられた後の"壬申の乱(672年)"による都の荒廃、近江京の廃滅を歌った悲歌だ」というのである。
 古田先生はこういわれます。江戸時代から現代まで、「天智の建てた近江の都の荒廃を悲しむ歌」だと理解されてきたのです。
このブログではスルーしたのですが、天武紀の上巻は、ご承知のように、こと細かに真夏に起こった「壬申の乱」といわれる内乱を扱っています。葛城皇子(天智)の死後子の大友皇子(即位したはずとして、明治に弘文と諡)に対し、(天智の弟といわれている)大海人皇子(天武)が反乱を起こした事件です。結局反乱軍が勝ち、人麿が活躍している現在、天皇鸕野(うの)姫(持統)は大海人の妃なのです。このような時代背景をご承知ください。
  なお「九州王朝衰退への道(6)」において、壬申の乱に活躍した天武の子
  高市皇子に捧げる挽歌だという人麿の"万葉199番歌"を紹介しました。しか
  しこの歌は、「冬から早春にかけて戦った冬の陸戦」の歌の換骨奪胎でした
  が…。

 本当に神武から天智まで、代々都は「大和」にあったのでしょうか。古田先生は「否(ノン)」といわれます。
現在の皇室の直接の祖継体天皇は、「山背の筒城」や「弟国」など転々としましたね。さらに遡れば、仁徳天皇は「難波」に都していました。それに何より、天智天皇の皇太子時代、孝徳天皇もまた「難波」に都をおいていました。ですから、歌の内容と史実が合わない…と、古田先生はいわれます。

 では神武天皇からいつのころまで、大和に都があり続けたのか…。先生は言われます。「代々の大和から近江へ」、このルートで遷都した天皇は、第十二代の景行天皇だけだ…と。
<五十八年の春二月…、近江国に幸して、志賀に居すること、三歳。これを高穴穂宮という。六十年の冬十一月…、天皇、高穴穂宮に崩ず。>(景行紀)
そして景行天皇のあと、成務天皇、仲哀天皇と高穴穂にて治められた…と。これを「第一次近江京」とすると、天智天皇の近江京は「第二次近江京」ということになりますね。ではこの三代続く「第一次近江京」で、「戻って来なかった大宮人」の悲劇はあったのか…。先生は「あった」といわれます。

 仲哀天皇は正妻の大中津姫と皇子の香坂(かごさか)王・忍熊(おしく)王を近江に残し、若い息長帯比売(おきながたらしひめ。神功皇后)を伴なって筑紫へ遠征し、その地に没した…と書紀は伝えます。そして筑紫で生まれた品陀和気(ほむたわけ。応神天皇)と帯比売が、近江の香坂王・忍熊王に反乱をします。権力の正統性からいえば近江朝の二皇子にあり、筑紫から来る品陀和気側にはありません。近江側の参謀は五十狭茅宿禰(いさちのすくね)、筑紫側には竹内宿禰がつき、権力の保持と奪取をかけて古の「天下分け目」の合戦が始まったのです。
その合戦の地は、「沙沙那美(ささなみ。記)、狭狭浪栗林(ささなみのくるす。紀)」であったと伝えています。
 そして竹内宿禰のだまし討ちに遭って、近江軍は敗走しました。近江軍は大津に集結し、船で近江京へ渡ろうとしました。しかし武運つたなく、忍熊王も五十狭茅宿禰も、多くの兵士らとともに琵琶湖の湖底に沈みました。
 
 しかし竹内宿禰は、事の成り行きに満足しなかったのです。
<淡海の海 瀬田の済(わたり)に 潜(かづ)く鳥
   目にし見えねば 憤(いきどほろ)しも>(神功紀摂政元年)
屍(しかばね)を目で確かめなければ安心できない…、執念深い悪鬼のような形相が見える…、先生はそういわれます。自分のほうが反乱軍だから、忍熊王がもし生きていたら…と恐怖に駆られたのでしょう。でもツキは、品陀和気軍のほうにありました。

<淡海の海 瀬田の済に 潜く鳥 
   田上(たなかみ)過ぎて 菟道(うじ)に捕へつ>(同上)
「而して後に、日経て菟道河に出づ。」のあとに、上の歌があります。まさに、あくなき執念! 第一次近江京は、四代目忍熊天皇で亡んだのです。忍熊天皇と近江京の大宮人らは、湖底に沈んで消え去ったのです。

 しかし第二次近江京の大友皇子は…、「山で首をくくった」のでした。
<ここに大友皇子、走りて入らむ所無し。すなわち還りて、山前(やまさき)に隠れて自ら縊(くび)れぬ。>(天武紀元年七月条)

 どちらが人麿の歌の内容に合致しているでしょうか。通説のごとく「第二次近江京の悲劇」なのか、先生のいわれる「第一次近江京の悲劇」なのか…。当然、「第一次…」のほうですよね。ですから先生は、「これほど明確な差異に気づかず、ひたすら後者(筆者注:第二次近江京の大友皇子の自縊(じい)のこと)として解説し続けてきたとは、わたしにはどうにも信じがたい思いだったのである。」といわれます。

 人麻呂に、「柿本朝臣人麻呂、近江国より上り来るとき、宇治河の辺に至りて作る歌一首」という表題を持つ歌があるそうです。
通説:「人麿の運命」に引く旧大系本、および小学館本も参照。
  読み:もののふの 八十氏河(やそうじかわ)の 網代木(あじろぎ)に
       いさよふ波の 行く方(へ)知らずも  (264番歌)
  意味:(旧大系)宇治川の網代木に、流れ来て漂い停滞する川波のように、
       何処へ行ってよいかわからない。どうしてよいかわからないこ
       とである。
     (小学館)(もののふの)八十宇治川の網代木の周りにためらって
       いる波の、行方もわからないことだ。
  解説:(旧大系)この歌、古来無常を詠んだ歌とされ、また"いさよう"と
       見えた波の行方が知れずになることを詠嘆していると見る説も
       ある。
     (小学館)作者は眼前の実景を述べてだけで、必ずしも仏教的な無
       常観を詠んだとはいえない。もののふの…八十ウジの枕詞、朝
       廷に仕える文武百官が多くの部族に分かれているところから支
       流の多い八十宇治川にかかる。

 無常観を詠んだのか単に実景を述べただけか…、しかし古田先生は「何か変だ」と思っておられたそうです。そんな薄っぺらな歌か…と。
しかし人麿の「29、30、31番歌」を探求されていた時、「これは、忍熊天皇を弔う歌だ!」と思われたそうです。忍熊天皇の屍は、目の前にあるこのような網代木に絡み付いて漂っていたのではないか…、人麿はそう思ったはずだ…と。そしてこの歌を詠んだ…。
それなのに後代の万葉注解者は、この著名な歴史上の事件からこの歌を切り離し、抽象的な「無常観」やその他のくさぐさの解説を行ってきたのだった。古田先生はそういって嘆かれました。――ここでもまた。…と。
そしてまた八十宇治川の枕詞といわれる「もののふ」、これはずばり宇治川を挟んで対峙した忍熊軍と品陀和気軍の「兵士」…だったのです。この歌はやはり、忍熊軍が敗走したあの宇治川の戦いを、読者に想起させようとしているのです。

 次に、戦場となった「沙沙那美(ささなみ)」について考えてみましょう。
<故逢坂(あふさか)に逃げ退きて、対(むか)ひ立ちてまた戦いき。ここに追い迫(せ)めて沙沙那美に敗り、悉くにその軍(いくさ)を斬りき。>(仲哀記)
岩波古事記には、「沙沙那美は近江国の地名。逢坂は山城と近江の境の逢坂山」とあるそうです。次は書紀、
<(忍熊王は)兵を曵きてやや退く。竹内宿禰、精兵を出して追う。たまたま逢坂に遇ひて破りつ。…軍衆走る。狭狭浪(ささなみ)の栗林(くるす)に及びて多(さわ)に斬りつ。ここに、血流れて栗林に溢(つ)く(あふれる)。故このことを悪(にく)みて、いまに至るまでにその栗林の菓(このみ)を御所(おもの)に進ぜず。…>(神功紀摂政六年三月条)
その後、忍熊王は瀬田の済(わたり)に投身し、湖底に沈みました。
 これではっきりすること、それは「ささなみ(沙沙那美、狭狭浪)」といえば、古戦場だった…ことです。「関が原」といえば天下分け目の古戦場…、「広島、長崎」といえば原爆投下…、「ささなみ」といえば「第一次近江朝の滅亡の地」…その伝承の地となり想起するようになったのです。上記の文「故このことを悪みて、いまに至るまでにその栗林の菓を御所にせず」は、八世紀になっても「あそこの果実は進上物にしてはならぬ。何しろ、第一次近江朝の敗れた人たちの血をすすって生長した樹木、その呪われた果実なのだから」と言い伝えられていたことを示します。いわんや人麻呂に生きた七世紀後半においてをや…。

 そう理解された時、前に戻って「30、31番歌」を見てください。
二首とも「ささなみ」で始まっているではないか。当時これを見て、「第一次近江朝の滅亡、忍熊王らの敗死」を思わない人はいなかったのではないか。長歌には「楽浪」と書いて「ささなみ」と読ませているところがある。人麿ほどの字の使い方がうまい人は、「楽しい浪」が「悲しい浪」に変わったのだ…と言いたかったのではないか。こう、古田先生はいわれます。

 一つなぞが解けると、次々ともやが晴れていく、…先生はこういわれ次の歌を示されます。二つ後の歌、「柿本朝臣人麻呂の歌一首」という簡単な表題の歌です。
通説:「人麿の運命」の中の旧大系本、および小学館本。
  読み:淡海(あふみ)の海 夕波千鳥 汝(な)が鳴けば
       情(こころ)もしのに 古(いにしへ)思ほゆ (266番歌)
  意味:(旧大系)近江の海の夕波に飛ぶ千鳥よ、お前が鳴くと心もうちな
        びいて、しみじみと昔のことが思われることだ。
     (小学館)近江の海の夕波千鳥よ、お前が鳴くと心も打ちひしがれ
        て、昔が偲ばれる。
  解説:(旧大系)古思ほゆ…いまは廃墟となっているが、壮麗な御殿の
        あった天智天皇の都の時代が思われる。
     (小学館)夕波千鳥…夕べの波の間を鳴いて飛ぶ千鳥よ。心もしの
        に…シノニはぐったりして力の抜けたような感じを表す(新
        大系:心も萎えるばかりに)。古思ほゆ…天智天皇の都が
        あった近江朝時代のことが思われる。

 ここでいう「古」とはいつのころだろう。原字もずばり「古」であり、「往方」や「以爾之辺」などではない…と。天智天皇の時代といえば、人麿の少年時代あるいは青年時代に当たっているようです。ほんの三、四十年前のことを「古」というのか。そのような時間差は「昔」ではあろうが、決して「古」ではない。古田先生はこのようにいわれます。
しかしいままでの論証で、私たちは理解しました。「古思ほゆ」とは、「第一次近江朝の滅亡、忍熊王らの入水自殺の悲劇」…このことが思われるのだ…と。
この歌は人麻呂屈指の名歌…だそうですが、先生の解釈によれば、湖畔にたたずむ人麿に会えそうな気がします。

 さて、本題「29、30および31番歌」に戻りましょう。そして「264および266番歌」…も。これらの歌は、「第一次近江朝の滅亡、忍熊王らの悲劇」を背景にしてこそ、人麿の心情がよく理解でき、さすが名歌だ…と膝をたたくことができました。
先生はいわれます。
これらの歌は「第一次近江朝の歌」である。そしてここから新たな問いが始まるのだ…。これら歌の"裏側"に隠れているものは、「第二次近江朝の滅亡、大友皇子の悲劇」ではないか…。単に通説に立ち返るのではない。考えても見るがよい。人麿の活躍した時代は、天武・持統の時代だ。第二次近江朝に反乱し、大友皇子を自決に追い込み、まさに勝った側の王朝だ…。どうしてあからさまに「第二近江朝の滅亡、大友皇子の悲劇」を歌えようか…。
しかし人麿が読者に「期待」したもの、それは「大友皇子の悲劇」へと人々の心を導くことだった…。しかし「直接」には出来ない…。だからこそ表面上は酷似した"歴史上の事件"を扱い、奥底では「現代の悲劇」の悼みへと人々の心を誘う、そこにあったのだ…。
この長歌の内蔵する「二重構造」、それはまことに危険な毒を含んでいた。当代の権力者側の視点"から"ではなく、「亡ぼされた人々」の"ため"の哀歌であったこと、その一点にこの「二重構造」の持つ真の秘密が隠されていた。人麿の生涯を導いた運命、それはこの一点から始まり、この一点に帰着する。読者はこの本の最終章を読み終えたとき、真相を知悉するだろう。その深い意味をありありと、如実に知ることであろう。
先生は、こう結ばれました。("新たな謎"という段は、省略しました。)

 いかがでしたか。人麿の本当の"すごさ"…。字使い、連想、二重構造…。確かに人麻呂は、「歌の聖」ですね。通説のような表面だけの解釈では味わえない、古田流解釈でしたね。

番外編(16)

2007-07-08 21:38:46 | 古代史
<いづこなる「遠の朝庭」>

 古田先生の「人麿の運命」によれば、万葉集には「遠の朝庭(とほのみかど)」と読める文言を持つ歌が六例あるそうです。いや、たった六例しかない…といわれます。
通説では「都から遠く離れた朝廷…」ということで、「岩波書店新日本古典文学大系万葉集」によれば、実際は「太宰府や各国の国府などをいう」そうです。
しかし、本当にそうか。例えば宮城県の「多賀城」は「遠の朝庭」といわれたか、各地の国府がすべて「遠の朝庭」と呼ばれたか…といわれます。あるいは逆に「近つ朝庭」があるか…とも反問されます。そんなあちこちにあるようなべらぼうなことは聞いたこともない、私はまったく「否(ノン)」という…と。
では「遠の朝庭」はどこか…。六例を示し、先生の思考を辿りながら「遠の朝庭」の場所へとご案内いたしましょう。
なお「小学館本」とは、「小学館日本古典文学全集万葉集」をいいます。

1)まずは、柿本朝臣人麻呂の歌です。
元暦校本:柿本朝臣人麻呂下筑紫国時海路作家二首
     (一首目に303番歌がありこれも古田先生の解説は面白いのですが、
     今回は省きます。)
    :大王之 遠乃朝庭跡 蟻通
       嶋門乎見者 神代之所念      (万葉304番歌)
通説:新大系本、旧大系本、小学館本など
  表題:柿本朝臣人麻呂の筑紫国に下りし時に、海路にして作りし歌二首
  読み:大君(おほきみ)の 遠の朝庭と あり通う
       嶋門(しまと)を見れば 神代し思ほゆ
  新大系:大君の遠く離れた政庁へと行き通い続ける海峡を見ると、神代の
      昔が思われる。
  旧大系:都から遠くはなれた朝廷であるとして、人々が常に往来する瀬戸
      内海の島門を見ると、この島々の生み出された神代の国土創成の
      ころのことが思われることである。
  小学館:大君の 遠い役所として 通い続ける海峡を見ると 神代のこと
      が思い出される。
 他にも「有斐閣本」や澤潟久孝本などを紹介されていますが、解釈は大同小異のようです。「大王之遠乃朝庭」を、いずれも「大君の遠く離れた政庁・朝廷・役所」と解釈しています。すでに主権が大和に移った八世紀の歌ですから「筑紫に下る時」とありますが、筑紫に関連して用いられていることは確かでしょう。また「蟻通嶋門乎見者」を、「行き通い続ける海峡を見ると・人々が常に往来する瀬戸内海の島門を見ると・通い続ける海峡を見ると」としていて、「嶋門」の解釈に少し違いがあるようです。
新体系本によれば、「『嶋門』は島と陸地との間、島と島との間のような狭い瀬戸」とし、どうも「ここだ!」ということは無いようです。

 先生は、中国における「朝庭(朝廷)」の用法により、「朝庭」は「天子の居して天下に政を行うところ」である…といわれます。つまり「大王(大君)」は「天子」ではなく、すなわち「朝庭」は無いのだ…と。この歌における「大王」は持統天皇を指し、すなわち持統天皇は「天子」ではない…と。
筑紫には六世紀終盤あたりから「日出る処の天子多利思北孤」がおわし、代々太宰府の地で天下を統治された…。すなわち「九州王朝には『朝庭』があった…」と。だからどんなに学者が「朝庭とは遠い政庁」といっても、首を縦にふれないのだ…と。この理屈には納得がいきます。
なお「嶋門」について、通説では明石海峡・吉備の児島付近・関門海峡などの説があります。先生は博多湾岸の「志賀嶋と能古嶋の間」とされ、船路でいよいよ筑紫に上陸する時この両島を「門」として表現したのではないか…とされました。後の句の「神代し思ほゆ」という情景、つまり「国生み神話のおのごろ島」があり・近くに「イザナミの禊した小戸」があり・ニニギが「天孫降臨したクシフル岳」もある。私はこの説に納得しました。皆さんはどうでしょう。

2)次は山上憶良の歌…、長歌ですから関連あるところを示します。
元暦校本:日本挽歌一首
    :大王能 等保乃朝庭等 斯良農比
       筑紫国尓 泣子那須 …(後略)  (万葉749番歌)
通説:新大系本、小学館本による
  表題:日本語による挽歌一首
  読み:大君の 遠の朝庭と しらぬひ 
       筑紫の国に 泣く子なす …(後略)
  新大系:大君の遠い政庁として、(しらぬひ)筑紫の国に…(後略)
  小学館:大君の 遠い政庁として (しらぬひ)筑紫の国に…(後略)
 同じく、ここでも「筑紫国」に関連して「遠の朝庭」が用いられています。
やはり「九州王朝の朝庭」なのです。

3)三つ目は、聖武天皇自身の歌です。長歌の一部を示します。
元暦校本:(聖武)天皇賜酒節度使卿等御歌一首並短歌
    :食国 遠乃御朝庭尓 汝等之
          如是退去者 平久…(後略) (万葉973番歌)
通説:旧大系本、小学館本による
  表題:(聖武)天皇が酒を節度使の卿等(三人)に賜うた歌一首と短歌
  読み:食(を)す国の 遠の朝庭に 汝(いまし)等し
       かく罷りなば 平(たひら)けく…(後略)
  小学館本:わが治める国の 遠い朝庭に おまえたちが このように出向
       いたら 安心して…(後略)
 この"節度使"とは「東海(東山)道・山陰道・西海道節度使」を指し、前者に藤原房前を、中に多治比真人県守そして後者に藤原宇合を任命しました。ですから971番から973番の一連の歌は「西海節度使」を指しようです。まあ「お前たち」というように三人に酒を振舞った時の歌でしょうが、「食国遠乃御朝庭尓」から「西海道節度使」を念頭に置いた歌であることは間違いないでしょう。

 これは聖武天皇の歌ですから自らを「大王」というわけにはいかず、「食国」としています。古田先生が注目されたのは、「御朝庭」という表記です。通説ではさほど注目された風には見えませんが、「『御』字はこの字の使用者から『朝庭』(のある筑紫)に対する"敬称"を用いている」とされたのです。このような"敬称"は、地方の役所(政庁)に対して中央権力者が使うべきものではない…とも。ですからいまは"西海道節度使"の勤務する太宰府に使うのはおかしいのですが、「先の九州王朝の都としての太宰府」という意味で「朝庭」を使った時、この敬称である「御」字が生きてくるのです。先生は「かつて、ついこの間まで『朝庭』のあったところに"西海道節度使"として派遣するぞ」といった一見謙遜・寛容、しかしながら実は誇りに満ちた王者の「晴れがましさ」、それがこの「遠乃御朝庭」に込められていたのではないか…とされました。

4)第四は、遣新羅大使阿倍継麿の歌です。
元暦校本:到筑前国志麻郡之韓亭舶泊経三日…(後略)
    :於保伎美能 等保能美可度登 於毛敝礼杼
       気奈我久之安礼婆 古非尓家流可毋  (3668番歌)
通説:小学館本による
  表題:筑前国志麻郡の韓亭に到り、舟泊まりして三日を経ぬ。…(後略)
  読み:大君の 遠のみかどと 思へれど
       日(け)長くしあれば 恋にけるかも
  小学館本:大君の 遠い(朝庭(政庁)に派遣された)使者だと 
       思ってはいるが 日数が積もると 家が恋しくなった。
 「大君の遠のみかど」とは、都から遠く離れた天皇の行政官庁、またはそこに派遣される官人をいう」と解説されています。

 しかし「遠のみかど」は、いままでの四例とも筑紫に関する歌の中だけにしか使われていないように見受けられますね。

5)次は雪連宅満の「家人」の歌です。長歌ですから関連箇所だけを示します。
元暦校本:到壱岐嶋雪連宅満忽遇鬼病死去之時作歌一首並短歌
    :須売呂伎能 等保能朝庭等 可良国尓
       和多流和我世波 伊敝妣等能 …(後略) (3688番歌)
通説:小学館本による
  表題:壱岐の嶋に到りて、雪連宅満の忽ちに(図らずも)鬼病(えやみ)
     に遇ひて死去せし時に作る歌一首並びに短歌
  読み:天皇(すめろき)の 遠の朝庭と 韓国(からくに)に
       渡るわが背は 家人の …(後略)
  小学館本:天皇の 遠いお使いとして 韓国に 渡る貴君は
       家人が (慎んで待たないからなのか) …(後略)
 解説に「オホキミが現在位にある天皇を指すのに対して、スメロキは天皇の祖先としての歴代、あるいはそのうちの特定の一代をいう」とあります。「家人」とは死んだ宅満の遺族をいい、韓国に渡る「わが背」は宅満のことです。

 古田先生は、この歌を「天皇の遠の朝庭(として知られた)筑紫から、韓国へ渡ろうとしたわが背は…、の省略形ではないか…」とされました。「天皇」を「現在の天皇の先祖代々」と解釈しても、そうであれば「天皇の遠い朝庭」とは「先祖代々にとっての遠の朝庭」あるいは「先祖代々がお仕えしてきた遠の朝庭」という意味でしょう。

6)最後は大伴家持の歌です。やはり長歌ですから一部だけ…。
元暦校本:追痛防人悲別之心作歌一首並短歌
    :天皇乃 等保能朝庭等 之良奴日
       筑紫国波 安多麻毛流 …(後略)  (4331番歌)
通説:小学館本による
  表題:防人が悲別の心を追ひて痛み、作る歌一首並びに短歌
  読み:大君の 遠の朝庭と しらぬひ
       筑紫の国は 敵(あた)守る …(後略)
  小学館本:大君の 遠い役所であるぞと (しらぬひ)筑紫の国は
       敵を監視する …(後略)
 解説で、「防人の配属される太宰府は、天皇の出先の行政官庁であるぞと」の意味としています。また「敵守る」は「外敵の来襲を防ぐ」意味から、「監視する」こととなるそうです。上記5)で「スメロキ」を「天皇」と表記していましたが、この歌では原字がずばり「天皇」なのにどうしてわざわざ「大君」と表記したのかわかりません。「天皇」のままで、5)とまったく同じとしてもいいのでは…と思います。

 古田先生引用による旧大系本では、そのまま「天皇(すめろき)の遠の朝庭と…」となっているようです。そして古田先生は、「『遠の朝庭』が『筑紫の国』と関連して用いられている点、いままでの例と変わりはない」といわれました。

 さてこの「遠の朝庭」は、六例とも「筑紫」そのものを指すか、「筑紫」を前提として用いられている…といわれます。これが単に「近畿天皇家の(遠い)地方の役所」を指すのであれば、何故他の地方政庁(多賀城など)に対して使われた例が無いのか、何故万葉以降の古今集や新古今に現れないのか、何故伊勢や播磨などわりと近い政庁に対し「近つ朝庭」などの例が無いのか。これらに答えられないであれば、「大和の都より遠い地方の役所」などの通説は受け入れられません。
 やはり「筑紫」に関連してしか用いられていない以上、「遠の朝庭」は「筑紫・九州王朝、その都太宰府」を指す…とすべきです。
では「遠の」とはどのような意味でしょうか。単に「都より離れて遠い」という"距離的遠さ"でしょうか。もし「遠の朝庭」が「九州王朝あるいは太宰府」を指すとすれば、当然"距離的遠さ"もあります。しかしそれ以上に"時代的遠さ"も含まれているとともに、"他の王朝である遠さ"もある…と、古田先生はいわれます。
つまり「現在大和の大王・大君にとっての太宰府」、あるいは「大和の代々の祖先がお仕えしてきた太宰府」という意味が含まれている…と。
ですから3)で紹介しました聖武天皇の「遠乃御朝庭」という字使い、通説では気にも留めず、「御」字を説明できなかったことも古田説ではよく理解できます。
 明治の学者吉田東吾が著した「大日本地名辞書」の「筑前筑紫郡太宰府跡」によると、「またこの辺の田畠の字(あざ)を内裏(だいり)跡・紫宸殿(ししんでん)などいふといへり。そは安徳天皇しばらくこの所に鳳駕をとどめ給ひしによりての名なりぞ。(ここに内裏跡云々とあるは虚誕のみ(うそばっかり))」と憤慨しています。しかし「紫宸殿」とは、唐朝における天子の宮殿の呼び名です。やはりここ大宰府には、天子のおわした「朝庭(朝廷)」があったのです。

 ちなみに大伴家持が、継体天皇の出身地である「越(こし)」に対して使った二例の「とほのみかど」を紹介します。
A)大王乃 等保能美可度曾 美雪落
   越登名尓於敝流 安麻射可流 …(後略)   (4011番歌)
  大君の 遠のみかとそ み雪降る
    越と名に負(お)へる 天離(あまざか)る …(後略)
B)於保支見能 等保能美可等々 末支太末不
   官乃末尓末 美由支布流 古之尓久多利来…(後略) (4113番歌)
  大君の 遠のみかとと 任(ま)き給ふ 官(つかさ)のまにま
    み雪降る 越に下り来 …(後略)

 「筑紫」に対する「とほのみかど」の他は、「越」の継体天皇の(豪族時代の)拠点に対して使われた上記二例だけだそうです。
しかしよく見てください。「みかど」に対し4331番歌のように決して「朝庭」は使わず、「美可度(等)」で代用させています。中国を含む東アジア世界で特別な意味を持つ「朝庭(朝廷)」は、越の場合には決して"使えなかった"のです。ですから「朝庭(朝廷)」は、筑紫・太宰府に対してだけ…。

 いかがでしたか、"いづこなる「朝庭}"は…。「近畿天皇家の大王・その先祖にとっての(筑紫の)朝庭(朝廷)…」、ですよね。

番外編(15)

2007-06-27 16:27:14 | 古代史
<人麻呂、終焉の地(4)>

 さて今回は、古田先生の立論の跡をたどりながら紹介しましょう。
まず斉藤茂吉は人麻呂の妻の依羅娘子(よさみのをとめ…と読まれている)の歌二首(B)万葉224、225番歌を立論の根拠とし、「石川」を探して「江の川(ごうのかわ)」に定めました。そして「石川の峡(かひ)」によってその上流に、「湯抱のかも山」を見出したのです。しかし人麻呂本人の万葉223番歌のごとく、単に「鴨山」ということだけで石見の人に対し「あっ、湯抱にあるあの鴨山か」といわせるほどの"特定性"があるか…という疑問があるようです。
次に梅原猛氏は丹比真人某という人が人麻呂に擬して作った万葉226番歌を、自己の立論の根拠とされました。その歌の「荒浪に」より「海に沈んでいる」という結論を導き、いまは無き「益田の海の鴨島」にたどり着かれました。そして鴨島の山は「鴨山」だ…とされたのです。しかしそれでも、茂吉に対するような「特定性があるか」という疑問と同じことが言えそうです。

 さて、古田先生は…、何よりもまず、人麻呂本人の歌万葉223番歌を根拠にしなければならない…といわれます。
1)それで、どこで作歌したのか…。即ち、死んだ所はどこか…。
前書きに、「柿本朝臣人麻呂、石見の国に在る時、死に臨む時、自ら傷(いた)みて作る歌一首」とありましたね(この「時の重用」は、平安末・鎌倉初以前の古い用法だそうです)。
これでは「人麻呂は石見国で死んだ」とはっきり読めます。例えば「父は京都で死んだ」というとき、これは「京都市の市内か郊外で死んだ」ことを表します。わざわざ「京都府の京都市で死んだ」という必要はありません。でも舞鶴で死んだのなら「京都で死んだ」には違和感があり、やはり「京都府の舞鶴で死んだ」といってほしいものです。
ですから「石見国で死んだ」という意味は、「石見国の石見で死んだ」ということでしょう。茂吉や梅原氏のように「石見国の"どこかで"死んだ」と理解するのはやはり変なのです。

2)では、石見国の「石見」とはどこか…。古田先生の調査の結果、それはいまの「浜田市」でした。石見の国の「国府」のあったところです。茂吉の研究史による分類、「(2)石見国那賀郡浜田城山…説」の地だったのです。その証拠に浜田市の中に「石(いは)神社」があったのです。祭神はまさに「自然の石」だそうです。「石見」とは、ですから「石を神として祀るところ」の意味になりますね。「いはみ」の「み」は、「かみ(神)」の「み」のことですから…。ですから「人麻呂は浜田で死んだ」ことになります。

3)その次の探求は歌そのものに向かい、「鴨山の磐根し巻ける」と何の説明も無くずばりと出ている「鴨山」です。「では浜田市に、"鴨山"はあるか」…と。先生は「歴史は足で知るもの」を実践されました。まず浜田市役所の教育委員会へ行き来意を述べると、市の図書館へ行くよう教えられました。先生は、図書館長さんの対応が忘れられない…といわれます。先生の名刺を見られると、やけに親切な対応だった…と。その真相は…? なんと、関が原後伊勢より封じられた第一代の浜田城主は、古田重治。先生と同姓で、館長さんはその一族か…と思われたらしい。そして館長さんの説明によると、浜田城のある「城山」という一名「亀山」がもと「鴨山」といっていた…と。明治になり「江戸が東京」と変えられたごとく、第一代の城主は自分の権威誇示のため「鴨山は、これより亀山とする」という触れを出したのだ…と。これは古田城主の無知のなせる業。本来「加茂、賀茂(鴨は当て字)」は「かみ(神)」と同類で、「神聖なもの」を表す…のだそうです。裏づけ史料は豊富でした。(句読点は筆者)。
  (A)石州浜田御城覚書 大田元
     石見国那賀郡小石見郷浜田御城発起の覚書
     元和年中(1615-1624年)(中略)
    御城山、一名(は)亀山、一名(は)加茂山(後略)
  (B)石見海底能伊久里
     鴨山 那賀郡浜田
     我友秋田周孝云(中略)昔より鴨島は高角の沖に在りて、
     鴨山は浜田なるいまの城山也
  (C)石州名所方角集 享保六年(1721年)六月二十六日 松平新清
     松葉集に石見海・石見野・石川・妹山(中略)鴨山(後略)
  (D)浜田会誌第五号 浜田会 (明治二十六年十一月三十日)
    我が故土なる城山は、石見国那賀郡浜田町大字浅井にあり、
    号して亀山といふ。旧名は鴨山と呼ばれし…。万葉集に曰く、
    (中略、223・224の紹介)と、人麿は鴨山に終りし者にして、
    娘子はその時石川に居りて人麿の臨終には居合わせざりしもの
    ならん。(後略)
さあこれで、「鴨山」は石見国府のあった「石見」にあった…。石見の人は形容詞なしでずばり「鴨山」が出てきても、「あー、(国府のある)石見の鴨山だ」とすぐ理解できた…。茂吉は「亀山」が古く、「鴨山」が新しいと誤解していたようですが…。古田先生の著書「人麿の運命」にはきれいなカラー写真が載せられているのですが、その浜田城跡公園つまり「鴨山」は一山奇岩で覆われています。まさに「磐根し巻ける…」という表現が理解できます。

4)次は妻の225番歌に出てくる「石川」です。この著書はまだ東京の大学で教鞭をとっておられたころのものですが、学生にさっそく万葉223番歌を(新発見を交えて)解説されたそうです。すると一人の学生が「わたしは浜田市から来ました。…何かお手伝いすることがあれば…」との申し入れがあったそうです。そこで「石川」を探してほしい…と。夏休みの後見せてくれた史料には…、
   (浜田市)原井村
   名勝
    石川  本村北方にあり。いま浜田川といふ。万葉集に出ず
    石見川 本村北方にあり。いま浜田川と唱ふ。石川と同川なり。
    石見潟 本村北方にあり。石見郷の海をいふ。題字名所集に出ず
         『浜田の歴史と伝承』第2号 史跡探訪会
「石川」とは「江の川」ではなかった。浜田市を貫流している、いまは「浜田川」と呼ばれている川だった。そして浜田川(石川)は、城山(鴨山)のところで日本海に注いでいるのです。

5)そして茂吉の「224番歌の石川の貝は、石川の峡(かひ)である」にひかれて、浜田川の上流へ向かわれたそうです。そして浜田ダムの辺りは、見事な深山幽谷であることを確かめられた…。しかし納得しての帰り、ふと「鴨山とこのあたりは離れすぎている…」と気づかれたそうです。人麻呂本人は「鴨山に磐根し巻いて死につつある我…」と歌い、妻は"同じ場所"を「我が待つ君は石川の貝にまじりて(死んでいる)」と歌っているのに…。そしてまた、タクシーの運転手さんが言っていた「この川さえ暴れなければ、浜田はいいところですがねぇ」を思い出されました。丹比真人某の226番歌にある「荒浪」とは、梅原氏の想像されたような「海の荒浪」ではないのではないか…。この石川(浜田川)の洪水、氾濫ではないか…。古田先生の思考は、このように進みました。洪水に流された人麻呂は鴨山まで流れ着き、「磐根し巻ける」状態で死んだのではないか…。だからこそ丹比真人某は、「荒浪に 寄り来る玉を…」と詠ったのではないか…。報歌である226番歌は、元歌である225番の「石川」を受けている…、そう解さねばならぬ、とされました。かつ、224番歌の原文は「石水之貝尓」だ…、これは「いはみづ、つまり石見津の貝」ではないか。「石見津」とは浜田の海だ…。上記4)であった「石見潟」だ。すなわち石川の洪水が海に流れ込む鴨山辺りでは海と川は怒涛となり、流れ込んできた石や巻き込まれた貝がある…。やはり「峡」ではなく「貝」が正しい。確かに225番歌では「石川」とある…、これと「石水」は同じ読みでななかったのだ…と。確かに「人麻呂は石川の洪水に流され、鴨山の磐根の上で死んだ…」という仮説を導入し、またこの地形であれば、人麻呂の歌も娘子の歌も、また丹比某の歌も妥当し、よく理解できますね。

6)次は、特に娘子の歌の読み方です。
  (224番歌):通説では「今日今日と」といっている原文は「旦今日々々々」でした。「旦」(あした)であって、「且」(かつ)ではないのです。ですから先生は「あさけあさけ」と読んだほうがいいのではないか…といわれます。「朝も昼も」という意味で通説と大異はないが、臨場感がある…と。次に「石水」ですが、これは上に述べました。「いはみづ=石見津」です。旧仮名遣いで、「水」は「みづ」ですから…。
  (225番歌):「直(ただ)の逢(あ)ひは 逢ひかつましじ」と読んで、「直接のお逢いはむつかしいでしょう」の意味としている原文「直相者 相不勝」です。もしそうなら、この歌は変だ…といわれます。「夫が死んだというのに、駆けつけて行かない。代用品として、石川の上に立つ雲を見て我慢しよう」というのですから…。薄情な妻…と。しかし「勝」は「たえる」と読むのではないか。わたしも「史記」(新訂中国古典選、朝日新聞社)を眺めていた時、「不可勝数」を「かぞふるにたふべからず」と「あげてかぞふべからず」の二通りの訓読法があることを知りました。「不勝」は「たへず」で、「こらえきれない、耐えられない」の意味になります。ですから「相不勝」は「あい勝(た)へざらん」と読み、特に「相」の意味を勘案されて、この歌の意味は「わたしはあなたの無残なお姿を見るにしのびません、勝(た)えられません。あなたもまた、そんな自分のお姿をわたしに見られるのを勝(た)えられないのではありませんか。ですからすぐにでも飛んで行きたいあなたのお側には、わたしは行きません。どうか雲よ、石川に立っておくれ。その立つ雲を見てあなたを偲びましょう」となるといわれます。「こう解釈した時、全万葉中、最深の歌の一つ、女性の、人間の心情の微妙な琴線をかなでる名歌、そのように見えてきたのである」…と。
  (依羅娘子の出身地):通説では「よさみのをとめ」と読んでいますが、これは「えらのをとめ」ではないでしょうか…。万葉によく出てくる「よさみ」には、「依網」が充てられているからです。「依羅」は「えら」とよみ、それはいまの江津市二宮町神主字「恵良」ではないでしょうか。これは古田説に賛同される方の仮説です。でも、わたしはこちらの読みを採ります。

 いかがでしたでしょうか。斉藤茂吉といい梅原猛氏といい、どうも頓珍漢な解釈をされていたようです。茂吉は旅に不便な時代、「石川の峡(かひ)」を求めて江の川の上流を歩きました。そして「湯抱のかも山」を見出しましたが、それであれば四首の歌と全く合いませんでした。これは、妻依羅娘子の224、225番歌を立論の根拠としたからでした。
一方梅原氏は丹比真人某の226番歌を根拠に、その「荒浪に」から「海底に沈んでいる人麻呂」を想定され、益田の「鴨島」にたどり着かれました。しかしやはりこの仮説も、四首の状況にぴったりしませんでした。
古田先生の仮説、人麻呂本人の223番歌を根拠に「石見(浜田市)にある鴨山(城山、亀山)」としたとき、すべてが無理なくすっきりと理解できるのです。そして依羅娘子は、遠くにいるから逢えない…のではなく、無残な屍を見るに忍びないし、夫もまた見せたくないだろうと忖度したから行かないのだ…と。
 はじめにわたしが申しましたように、下手な探偵小説よりはるかに面白かったと思いますが、いかがでしょう。では、このへんで…。

番外編(14)

2007-06-23 11:52:14 | 古代史
<人麻呂、終焉の地(3)>

 斉藤茂吉は人麻呂の妻である依羅娘子(よさみのをとめ)の詠った(B)歌224番および225番歌から「石川」を探し、それを江の川(ごうのかわ)と定め、鴨山の地を江の川上流の「浜原」とし、また津の目山を「鴨山」に比定しました。しかし後に土地の人の手紙により湯抱の「鴨山」である…と変更しました。その喜びは、
    人麻呂が つひのいのちを をはりたる 
         鴨山をしを ここと定めむ
という歌に込められています。しかし湯抱の鴨山は、江の川からはずいぶんと離れていました。それでも「湯抱の鴨山」は、石見の誰もが形容詞抜きで「鴨山」といえば「ああ、湯抱の…」といえる代表性があるか…。

 しかし梅原猛氏は、その著書「水底の歌」(わたしの本棚にあるもの:梅原猛著作集11、集英社1981.12第一刷)で徹底的に茂吉の人麻呂論を批判されました。その論旨を、古田先生の著書により紹介します。
梅原氏の立論の基礎、それは(C)226番歌だそうです。あの丹比真人(名を欠く)という人が人麻呂の心中を察して(なり代わって)詠った歌です。
    荒波に 寄り来る玉を 枕に置き 
         我ここにありと 誰か告げけむ

1)実は茂吉は、この歌に対し罵言に近い評価を下していた…そうです。
「この歌の句に『荒波に寄り来る』などあっても、すぐ人麻呂は海辺で死んだなどと誤魔化されてはならない。この歌も…擬歌で、空想の拵えものであるから、全体が空々しく、毫も対者に響いてくるものがない。これらの擬歌を人麻呂の一首ないし娘子の二首との差別を鑑別できなければ、とうてい鴨山のこと石川のことを云々するのはむづかしい。(中略)それから丹比真人という者が、…こうゆう遊戯的な擬歌を作る者は、人麻呂といかな関係にあったものか、実にけしからぬ者で、これはほとんど問題にならない。以上の如くであるから、わたしが『鴨山考』を立つるに際してこの二首(226、227番歌を指す)を眼中に置かなかった。(後略)」(柿本人麿)
この評論は、茂吉の「実作者」としての適切な判断と、「史実探求者」としての独断とが見事に統合されている、と古田先生はいわれます。

2)「二首を眼中におかなかった」茂吉を、梅原氏はきびしい表現で問いつめられました。
「茂吉よ、あなたはいったいどんな権利があって、こうゆう馬鹿げたことをいうのか。万葉集は、丹比真人某という、名さえもはっきり名のることをはばかる人に歌わせて、人麿の死に方をそれとなく暗示しようとしているのである。(中略)茂吉よ、あなたは万葉集から少なくとも二首を完全に除外しようとする。四千五百余首におよぶ万葉集のうちの二首ならば、そうたいしたことではないかもしれない。しかし、人麿の死を直接に解明できるのは、わずかに五首である。(後略)」(水底の歌)
そして梅原氏は、次のように言われます。
「丹比真人なにがしは、おそらく人麿の友人であったろう。そして、よほどこの事件に耐えかねたのであろうか。…歌の意味は改めて説明するまでもない。『私は、荒浪によせてくる玉を枕にして、この海底に沈んでいるけれど、私がここにいると誰がお前に知らせようか。誰も知らせる人はなく、私は永久いにここに沈んでいるのだよ』。この歌には二つのイメージがある。荒浪によせてくる玉を枕元においているイメージと、行方の知れぬイメージである。後者のイメージだけならば、まだ陸に人麿の死体があることも考えられるが、前者のイメージが伴なう限り、私のように(海底に沈んでいる…と)解釈するより仕方がないと思う。」(水底の歌)

3)このようにして梅原氏は、人麿の死んだ「鴨山」を、番外編(13)で紹介したあの茂吉の研究史分類の(1)"益田市沖のいまは沈んで無い「鴨島」"に比定されました。その鴨島にあった山を「鴨山」といったのだろう…とされたのです。
古田先生は、226番歌からは「益田の鴨島」は導かれるはずはなく、「水底の歌」に紹介されている矢富熊一郎氏の説の追認だ…と、紹介されています。
ではこの導入法は正当だったのか…。古田先生は「否」とされました。この226番歌を理解するための基本を、梅原氏は犯している…と。これは、表題によれば「報歌」なのです。では、何に対する報歌なのか。それは娘子の二首(224、225番歌)に対するものだ…と。
  (1)この理解の上に立てば、娘子の歌に表れているのは「石川」という川だけであり、「海」はないのです。梅原氏は「敏感な人はわかる」(水底の歌)といわれるけど、その理路は梅原氏が批判された「歌のわかる人なら、石川は江の川以外に考えられない」といった茂吉の理路と同じではないか…と、古田先生はいわれます。このような自分の「自負」を基本にした理路は、もはや学問ではない…とも。だから226番歌の「荒波」は、「石川の荒波」と考えざるを得ない…といわれます。
  (2)益田の沖に「鴨島」がありそこに「鴨山」があったとするとき、文献などで「鴨山の存在」を証明することこそ肝要だ…と、古田氏はいわれます。梅原氏は、いまは無き「鴨島」があったことの証明に、紙数を費やしておられます。昔から「鴨島」はなかったのなら、梅原氏の「益田沖の鴨島」説は成り立ちませんからそれは当然だ…と。しかし、鴨島があったとして、そこの山を「鴨山」といったのかどうか何の証明もされていません。哲学者である梅原氏の「権威」を以って「鴨山と呼んだ」という理路は、これも梅原氏が批判されたアララギ派歌人である茂吉の「権威」で以って「津の目山」の麓にある「亀村」の存在(カモがカメになまった)から「津の目山を鴨山とする」という理路と変わりはない…といわれます。また「鴨島の山だから、鴨山といったのだろう」という推論は、「大島の山は大山だろう」とか「壱岐島の山は、壱岐山だろう」などと同じで、そうである可能性はあってもそれ以上ではない…ともいわれます。
  (3)人麿本人の歌(A)223番唄では、「粕淵の鴨山」とか「高津(益田)沖の鴨山」という特定はしていません。特定していない…という史料事実からすれば、「全石見国を見渡しても、鴨山といえば益田の鴨山しかない。石見人なら誰しも益田の鴨山をイメージする」という「代表性」を持っているか…、形容詞のない「鴨山」にはこの回答が必要だ…と。残念ながら「水底の歌」には、この回答がどこにもない…と古田先生はいわれます。
  (4)梅原氏は自己の立説の裏づけとして、「古注」の存在を強調されたそうです。仙覚(1203-?年)の「万葉集註釈」で、娘子の歌について源氏物語「蜻蛉(かげろう)の巻」の「いづれのそこのうつせになりにけむ」という一文が引用されているそうですが、これが梅原氏のヒントとなった…と。
与謝野晶子の源氏物語の訳では「(前略)どんなふうになってどこの海の底の貝殻にまじってしまったかと思うとやるせなく悲しいのであった」(日本の古典第四巻、河出書房)とあるそうですが、梅原氏はこれについて「この、水底深く沈んで行方がわからないという表現が『ウツセニマシリ』、つまり『実の入っていない貝、貝殻にまじって』という表現である。仙覚は『宇治ノモノカタリニオナシキヲヤ』という。人麿の悲劇と浮舟の悲劇とは同じであるというのであろうか。…依羅娘子は、水死したと思われる人麿の死を嘆き、その死骸を探し求めているのであろうか、仙覚の解釈はそのようにしか受け取れない。(中略)このような仙覚の真意を、契沖以下はすっかり見失ってしまったのである。」(水底の歌)といわれます。
古田先生は上記について、「梅原氏は仙覚の「古注」を自分の説の裏づけにされているが、「海」が出てくるのは源氏に対する晶子訳だ。仙覚が源氏を引いたのは、「ウツセニマジリ」という表現についてである。だから契沖は『貝ニマシリテハ、鴨山ノ麓カケテ川辺ニ葬レルニコソ』といい、真淵も「万葉考」で『貝爾交而、次に玉をもいひしが、此川の海へ落ちる所にて貝も有べし』といい、石川と海の会うところつまり河口あたりをイメージしたのだろう。これら全てを梅原氏は「非」とした。そして源氏物語の晶子訳によって、仙覚を「海上水没」論者に仕立てたのである。…これが茂吉の「我田引水」的叙述の非論理性を論難した、あの梅原氏と同一人なのだろうか。確かなこと、それは仙覚は「海上、水没島」論者ではない…という事実だ。」と批判されました。

4)梅原説の独壇場、それは(人麿の)「海上刑死」説である…と古田先生は紹介されました。しかしこれも直接史料があるわけではなく、梅原氏は出雲の「大国主神」また子の「言代主神」が入水自殺(これを梅原氏は強要された入水、つまり刑死に擬らえた)したことに人麿の死を結び付けられたのです。「水底の歌」のp266からp269にかけて、「出雲神話の伝える不幸な親子の処刑」「春の海の無残な水死刑―人麿の最後」と題された文です。
しかし古田先生は「これら一連の文章は、「水底の歌」のハイライト、ひとたび読んだ人に忘れえぬ印象を残したであろう。ただそれは残念ながら、芸術上のそれであり、学問上のそれではない。(中略)端的にいえば、氏は学者であるというよりも、はるかに芸術家なのであろう。」と斬って捨てられました。

 茂吉の「湯抱の神山」も梅原氏の「益田沖の鴨山」も、古田先生は「否」といわれました。では、古田先生の解釈では…。次回をお楽しみに…。

番外編(13)

2007-06-20 23:18:32 | 古代史
<人麻呂、終焉の地(2)>

 斉藤茂吉(1882-1953年。以後、敬称略)には、『鴨山考』という著書があります。古田先生は若いころ、その本を図書館でむさぼるように読んだ…といわれます。その本で、茂吉は「人麻呂終焉の地―鴨山」を探し、そしてついに見出したことを書いているそうです。

 茂吉の論理は、次のように推移したそうです。(市や町の名は、2005年の13刷版県別マップル道路地図「島根県」昭文社による)。
1)茂吉はまず、これまでの「鴨山」探求の研究史を次に分類しました。
  (1)石見国美濃郡高津鴨島…説:いまの島根県南西にある益田市であり、そこには高津川や益田川が流れています。その高津の海にその昔「鴨島」があり、そこに「鴨山」があった…とする説です。でもその「鴨島」は、万寿三年(1026年)の地震で海に埋没したということで、茂吉は比定に反対だったようです。
  (2)石見国那賀郡浜田城山…説:いまの島根県浜田市で、石見国の国府が置かれていた所であり、江戸時代は浜田川の河口にある「亀山」に浜田城が築かれていたそうです。いまは城山公園になっています。風土記に「加茂山」とあるのは浜田の城山で、それを「亀山」ともいうのは音の通ずるところから来ている…として、茂吉は気乗り薄でした。
  (3)石見国那賀郡神村(かむら)…説:いまの江津(ごうつ)市二宮町神村に相当します。吉田東吾の「大日本地名辞書」に「(鴨山は)神村を指ししならむ。万葉巻二に見え、柿本人麻呂の終焉の地も、都農郷中なりしを徴すべし」とあるそうですが、茂吉は依羅娘子(よさみのをとめ)との距離があまりにも近い…という理由でこの説には反対していたそうです。
  (4)石見国那賀郡恵良(えら)…説:いまの江津市二宮町神主の字に「恵良」があります。茂吉が昭和九年に聞いたことで、「二宮村で神村・神主に近く恵良村があり、二宮村史によれば『(人麻呂は)四十八歳で熱病にかかり、この里で死なれた。時は和銅二年(709年)…。小字に柿の木本・四十八があり、また熱を逃がすため透床を作ったのでスイトコ・頭の熱を取るに石を枕にしたのでマクライ…という』とあるが…」と、この説にも気乗り薄だったようです。

2)では茂吉自身はどのように考えたか…。まず茂吉は、自説の依って立つポイントを前回の(B)224番歌と225番歌に置きました。そして三前提を立てます。
  (1)人麻呂が石見で死んだということを容認すること。
  (2)石見娘子(いわみのをとめ)と依羅(よさみの)娘子が同一人であり、人麻呂没時には石見にいたことを認めること。
  (3)人麻呂は晩年、石見国府の役人であったことを認めること。
古田先生は、考察する上での前提をはっきり示したことはフェアだ…とされました。例え、その前提が容認しがたくとも…。

3)茂吉は言います。人麻呂が石見で死に、鴨山という山があり、石川という川があり、"石川に雲立ち渡れ"という語気にふさわしい川は…として探しました。茂吉は足で現地感を確かめました。しかしそこに、茂吉の長所も短所もある…と、古田先生は云われます。現地に足を運んで自分の目で確かめる…、これは長所です。しかし、"これが鴨山にふさわしいか"や"これが石川にふさわしいか"など、アララギ派歌人としての感性による判定…これは短所だ、と。

4)茂吉の足と感性による探求は次のように進みます。石見内に「カモ」あるいは類似の音を持った山あるいは場所を探さねばならぬ、しかもそこは"鴨山の磐根し巻ける"であるから丘などではなく巌石のある山・地であろう、"知らにと妹が待ちつつあらむ"であるから妻が国府にいたとして十四-五里(1里=3.93kmとして55-59km)離れていなければならぬ(そのため従来の浜田説・神村説・恵良説も近すぎて反対)、"石川の貝に交りて”より従来は川の河口やその近くの山を探したが"石川の狭(かい)"の意とすれば拘泥せずともよい、むしろ「山の狭間」のほうがふさわしい、"石川に雲立ち渡れ…"であるから大きな長い川でなければならぬ…と進み、ついにそれを「江の川」に比定しました。
しかし、依羅娘子が国府にいたという前提は誰も証明できず、人麻呂が死んだ地は国府からほぼ十五里というのも何の根拠もない…と、古田先生はいわれます。他人が追試験できない仮説は科学的でない…、ここでもそれがいえそうです。

5)しかし茂吉は、上記前提・思考法から出発しました。「江の川」の沿線には、「鴨山」はなかなか見つかりませんでした。しかし「石見由来記」という古書に、「亀」の地を見出しました。茂吉当時の浜原村は、往時の亀・浜原・滝原・信喜の四村が合併したものだったのです。それで茂吉は、「カメ」を「カモ」の類音と考えました。しかしこれは可能性に過ぎず、実証・直接の証拠ではありません。これより茂吉の苦闘が始まりました。「現在のカメが、古くからのカモの転訛である」を探して…。この苦渋の跡は、「鴨山考」などで辿れるのだそうです。
「依羅娘子の歌にある石川は浜原(いま島根県邑智郡美郷町、JR三江線浜原駅があり川の向こう岸に亀村がある)あたりの江の川のことだとし、石川の貝は石川の狭(かい)だとして、…昭和九年七月…石見国太田に一泊し、翌日乗合自動車で浜原に着いたのは午前十時過ぎであった。雨ようやく晴れ、江の川が増水して…濁流が流れていた。粕淵を過ぎて浜原に入ろうとするあたりから江の川を眼界に入れつつ、川上の浜原…の方に畳まっている山を見るに、なるほどこれは『石川の狭』に相違ないという気持ちがほとんど電光の如くに起こったのであった。こういうことを言えば、この文章を読む人々はあるいは失笑するかもしれない。けれども石見国にあって、『石川に雲立ち渡れ見つつ偲ばむ』の語気に異議なく腑に落ちてくる山河の風光は、このあたりを措いてほかにあるか否か」(鴨山考)
この文の中に、茂吉の研究思想の根本が語りつくされている…と、古田先生はいわれます。茂吉的、あまりに茂吉的な、芸術家としての主観が…と。茂吉は、いまのJR粕淵駅の近くにある「津の目山(385.7m)」に「亀山」の名を与え、「カメ」は「カモ」のなまったもの…としました。

6)茂吉の「鴨山考」は、昭和九年十一月に岩波書店より刊行されました。版を重ねて名声はいやがうえにも高まった昭和十二年一月、茂吉に粕淵村(いまは美郷町)大字湯抱(ゆがかい)に住む人から手紙が届いたのだそうです。「私の住む湯抱に、『かも山』があります」と。茂吉は粕淵村役場へ行き土地台帳を調べてもらうと、「湯抱村字鴨山第五百二十五番、七等雑木山」…と。
「カメ」は「カモ」のなまったもの…と無理しなくていい、ここに「鴨山」という山があった…。茂吉自身がその無理を重々承知していただけに、「人麻呂が死んだのは、この湯抱の鴨山だ」と断定しました。
 そして湯抱の地の、美郷町から太田市へ抜ける国道375号線沿いに「斉藤茂吉鴨山記念館」が建てられています。
昭和十二年、茂吉は「湯抱五首」を詠みました。
     年まねく われの恋にし 鴨山を
            夢かとぞ思ふ あひ対(むか)ひつる
     我身みづから いまの現(うつつ)に この山に
            触りつついるは 何の幸ぞも
     鴨山は 古りたる山か 麓行く
            川の流れの いにしへおもほゆ
     「湯抱」は 「湯が狭(かひ)」ならむ 諸びとの
            ユガカイと呼ぶ 発音聞けば
     人麻呂が つひのいのちを をはりたる
            鴨山をしも ここと定めむ 
敗戦のショックに、茂吉は打ちひしがれました。そして次が生まれました。
     こゑあげて われ言はねども つゆじもの
            降りいる見れば 涙ぐましも
     十年へて つひに来れり もみぢたる
            鴨山をつくづくと 見れば楽しも
     つきつめて おもへば歌は 寂しかり
            鴨山にふる つゆじものごと

7)茂吉の「粕淵(湯抱)の鴨山」、これは正しかったか…。古田先生は、はっきり「否」といわれます。次の理由からです。
  (1)茂吉の方法だ。もし自分が人麻呂なら…という「実作者」として、「石川」探しを原点とし「江の川」にたどり着いた。当然それは茂吉の「主観」ではあるが、それはいい。しかし実際は、「茂吉は人麻呂ではない」ということだ。逆にいえば、他の人が「私が人麻呂なら…」とすれば「他の川を選ぶ」かもしれないのだ。「江の川」に当てたことは、学問的根拠はなかったのだ…と。
  (2)茂吉はまず「石川」を決め、次に「鴨山」探しをした。これは(B)歌原点主義だ。しかし逆に、(A)歌こそ第一史料であり(B)歌は第二史料に過ぎない。その第二史料に対する「主観的判断」を基礎とした。そこに方法上、決定的な弱点があった。
  (3)茂吉は「石川=江の川」としていたが、「湯抱の鴨山」によって江の川から離れてしまった。最初の「津の目山」が江の川の畔だったのに対し、江の川が見えない地へと移ったのである。自らの前提を崩してしまったのだ。自らの方法の破産である。
  (4)古田先生の疑問、「もしこの鴨山が、津の目山や粕淵村の鴨山だったとしたら、なぜ人麻呂は『江の川なる鴨山』とか『粕淵なる鴨山』とはしなかったのか」と。「言葉使い、枕詞使い、地名使い」の名手の人麻呂なればこそ、「鴨山」の特定に全能力を使うはずだ…と。つまり、「鴨山」だけで当時の人々はその地を特定できたはずだ…と。当時の人々は、何の枕詞もなく「湯抱の鴨山」を特定できたのか…と。

 今回はこの茂吉の説に対する梅原猛氏の反論を書くつもりでしたが、斉藤茂吉の説の紹介で終ってしまいましたね。次回は、梅原猛氏の批判を紹介しましょう。では、また…。