やさしい古代史

古田武彦氏の仮説に基づいて、もやのかかったような古代史を解きほぐしていこうというものです。

倭・倭人とは?

2006-10-07 16:16:19 | 古代史
 これで3回目の投稿です。古代の列島には「倭国」があり、そこには「倭人」が住んでいた…ことはお聞きになったことがおありでしょう。では、「倭」という地域はどこでしょうか。古田説やそれに賛同される方々の意見に耳を傾けながら説明しましょう。
 その前に、この「倭」字は四-五世紀ころまで「wiゐ」と発音されていたようです。これは江戸時代に福岡県の志賀島より発見された金印に、「漢委奴国王」と刻まれていたことよりわかります。これは「後漢書倭伝」に、「建武中元二年(紀元57年)、倭奴国、奉貢朝賀す。使人、自ら大夫と称す。倭国の南界を極めるや、光武(帝)賜うに印綬を以ってす」に対応する金印だ…ということは誰も異論はないようです。そして金印に「委奴国」、後漢書に「倭奴国」とあるのは同一の国をあらわす…ということも認められています。漢字の未分化の時代にあって、「ニンベン」のあるなしは問題ではないということでしょう。三世紀の「魏志倭人伝」においても、海を「わたる」に「渡」字と「度」字が混在しているのですから…。そしていわゆる大陸では「南北朝」時代になり、北朝の「鮮卑族の北魏」が強大になって「倭」字を「わ」と発音するようになっていきました。そのあと列島の人々は「わ」音を嫌い、日の辺に在るを以って「日本」と自称した可能性が高いようです。ではその「倭国」はどこにあったのか?
 井上秀雄といわれる学者は「古代朝鮮」(NHKブックス)という著書で、「倭」と呼ばれた地域あるいは「倭人」が居住していた地域は、漢時代には内モンゴルの大興安嶺あたり、あるいは安徽省から河南省のあたり、または半島南部あたりと多岐にわたって認識されており、三国時代には半島南部や九州北部と認識されていた…と理解できる図版を載せておられます(p21)。
古田先生は、戦国時代(紀元前403年から秦による統一の紀元前222年)にまとめられた「山海経」という書物に着眼されました。
「蓋(がい)国は鉅燕(きょえん、大きな燕)の南、倭の北にあり。倭は燕に属す」(山海経海内北経)
燕は戦国の七雄の一つで、いまの北京から遼東半島あたりまでを領していました。蓋国は、いまのピョンヤンあたりにあった国だそうです。ですから春秋戦国期にかけて、「倭」は半島南部(今の韓国の範囲?)にあった…と認識されていたことになります。しかし戦乱を逃れて半島を南下してくる人々に押され、つまり玉突き現象で次第に南の海岸やプサンの洛東江流域、および壱岐・対馬や九州北部を「倭」あるいは「倭人」と認識するようになったのではないでしょうか。そして紀元57年に後漢の光武帝より「金印」をいただくまでに、九州北部から南部…日向や薩摩までを征服した…思われます。
次ぎに後漢の紀元80年ころ、王充(おうじゅう、27-?)という人が「論衡」を著しました。それにこうあります。
「成王のとき、越常(えつじょう、いまのベトナム)雉を献じ、倭人暢(ちょう、薬草といわれる)を献ず」(論衡)
成王は(西)周第二代の天子(在位紀元前1025-1005年)であり、国家の安泰と王個人の長寿を祝って贈り物がされたのでしょう。しかし王充は論衡で「そのような縁起をかついでも、結局は周は滅びたではないか…」と、後漢時代の合理性で批判しているのです。ですから越常や倭人が贈り物をしたことが史実でなければ、批判は成り立たないのです。
また同じ後漢の班固(はんこ、32-92年)は、同じころ前漢の史書「漢書」を著しました。有名な記事です。
「楽浪海中、倭人あり。分かれて百余国を為す。歳時を以って来たり、献見す…という」(漢書地理志)
楽浪とは、前108年、前漢の武帝が半島に置いた四郡の一つです。その海中に倭人が住んでいる…というのです。歳時を以って来たり…は、論衡でいう貢献以来…という意味かもしれませんね。
そしてきわめて重要なこと、それはあの金印をいただいた57年は、王充30歳そして班固25歳なのです。南界を極めた倭国からの使節に、二人とも会ったのかも知れませんね。ですから論衡の倭人も漢書の倭人も、二人が青年のころ会った「倭国に住む人々」の意味なのです。モンゴルの倭人…、安徽の倭人…とは土台無理だったのです。後漢の天子をはじめとする人々に認識されている「倭国、倭人」とは、すなはち「半島南岸から壱岐・対馬を越え、九州島を領する国、その地に住む人々」だったのです。列島の中でいえば、吉備や出雲、愛媛・讃岐や大和・攝津に住む人々も「倭人」ではあるのでしょうが…。ではまた…。