やさしい古代史

古田武彦氏の仮説に基づいて、もやのかかったような古代史を解きほぐしていこうというものです。

四世紀の倭国

2006-11-29 15:38:06 | 古代史
 前回まで、「三国志魏志倭人伝」に記された「邪馬壹国」を通して、三世紀の倭国の様子を見てきました。いまわたしたちが見ることのできる百衲本二十四史「三国志」は、宋の史官裴松之(はいしょうし、372-451年)の注釈つきのものです。「倭人伝」の中の「魏略にいう、その俗、正歳・四節を知らず。ただ春耕・秋収を計りて、年紀と為す」のたぐいで、これを「裴注」といいます。同じ宋の史官范曄(はんよう、398-445年)は、426年ころ「後漢書」を上梓しました。史局に机を並べ同じ史料を使ったのでしょうが、范曄は五世紀当時の知識によって「後漢書」の地の文に「その大倭王は、邪馬臺国に居す」と書き、裴松之は「魏志倭人伝」の女王国「邪馬壹国」に何の注釈もつけませんでした。これによっても三世紀は「邪馬壹国」であり、通説のいう「邪馬臺国」は間違いであることが証明されます。そして六、七歳の壹与が250年ころ王に共立され、魏より禅譲された(西)晋の武帝二年(266年)に張政を送るついでに貢献しました。(西)晋は280年ころ敵対していた呉を滅ぼして中国を統一し、同じころ倭国の呉に対する防衛都市であったあの吉野ヶ里もその役目を終えたようです。たった一度の壹与の貢献以来倭国は姿を消しますが、力を増していた匈奴や鮮卑などの五胡が華北に侵入し始め、貢献どころではなくなったからではないでしょうか。そしてついに316年(西)晋は匈奴に滅ぼされ、翌217年に南に逃げた皇族が建康(いまの南京)を都とする(東)晋を建てました。倭国が再び舞台に上がるのは、四世紀終わりから五世紀にかけて活躍する「倭の五王」と呼ばれる王たちです。
 では、四世紀の倭国の動向は何も分からないのでしょうか。幸いにして、三つの史料に残されていました。一つは、前に紹介した「日本書紀神功皇后紀」です。いまはなき「百済記」などの史料を流用(盗用?)し、ほとんど本文化して倭と百済との国交開始の姿を残しています。神功紀に記された百済王たちは実在していてその即位年や在位年数などはわかっていますので、記事そのものは信用できるそうです(大和との交渉かどうかは疑わしい)。しかしどうも「倭人伝」からの引用に引き寄せられて百済記の記事を120年(二運)ほど前倒しに取り入れていることから見ると、書紀の編集者たちは神功皇后を四世紀半ばから後半にかけて実在していた…と考えていたのでしょうか。次は半島の史料「三国史記」「三国遺事」です。「三国史記」は高麗の仁宗二十三年(1145年)に完成したものです。後代史料ですが、(神話的部分を除き)三韓時代の年代などは信用がおけるそうです。「三国遺事」は高麗の忠烈王七年(1281年)ころ編集された物語風史書です。倭が新羅と敵対している様子が伺えます。三つ目は「高句麗好太王碑」といわれるものです。四世紀終わりの391年より五世紀初めの407年までの、「倭・倭賊・倭寇」と高句麗との衝突が書かれています。好太王碑は414年に、子の長寿王によっていまの遼寧省集安近郊に建てられました。同時代史料といえます。三世紀魏の時代、二千里四方(韓半島の四分の一)であった領土を韓半島の北半分を含む広大な国に拡げたことを称えられ、「国崗広開土境好太王」と呼ばれました。さてこれら史料に表れる「倭」とは、筑紫でしょうか大和でしょうか。ではこれらの史料を横において、記された事件を年代順に並べて紹介し、四世紀の倭国の様子を見てみましょう。「日本書紀神功皇后紀」を「神功紀」と、「三国史記新羅本紀」を「史記新羅紀」と、「高句麗好太王碑」を「好太王碑」と略します。
 「史記新羅本紀」によると、一世紀・二世紀・三世紀においても倭・倭人・倭兵・倭国は新羅に攻め入っています。しかし阿達羅尼師今二十年(173年)条に「倭の女王卑弥乎、使を遣わし来聘す。」とあり、ヒミカは230年ころ即位した…とすると六十年(一運)ほど前倒しであり、一般に三世紀後半あたりからの記事は信用できる…とされています。通説では当然「倭国は大和政権である」とされていますが、最近では古田説によって「九州王朝」とする説が強くなっているようです。
<倭兵、にわかに風島に至り、辺戸を抄掠す。また進みて金城を囲み、激しく攻む。王、兵を出して相戦わしめんと欲す。伊伐飡(いばつさん、新羅の官位)康世いわく、「賊、遠くより至る。その鋒(ほこ)当たるべからず。これを緩(やわ)らぐるにしかず。その師の疲るるを待て」と。王、これを然りとなし、門を閉ざして出さず。賊、食尽きて将に退かんとす。康世に命じ、勁騎(けいき、強い騎兵)を率いて追撃せしめ、これを走らす。>(史記新羅本紀訖解尼師今三十七年(346年)条。)
この前の状況は、300年ころ倭と新羅は「交聘(好を結ぶ)」しました。その後、倭王に妻を送るほどにもなりました。しかし何があったのか、去年(345年)「倭王、移書して交を絶つ。」ということが生じました。そして346年の戦です。
<倭兵、大いに至る。王これを聞き、恐らくは敵(あた)るべからずとして、草の偶人数千を造り、衣をきせ、兵(武器のこと)を持せしめて、吐含山の下に列べ立て、勇士一千を斧峴(ふけん、慶州市南東部あたり)の東原に伏せしむ。倭人、衆を恃み直進す。伏せるを発して、その不意を撃つ。倭人、大いに敗走す。追撃してこれを殺し、ほとんど尽く。>(史記新羅本紀奈勿尼師今九年(364年)条)。
この事件と、神功紀に採られた「百済記」の記事は関連がありそうです。
<(366年)春三月…、斯摩宿禰(しまのすくね)を卓淳トクジュン国(いま慶尚北道大邱テグに比定)へ遣わす。(本注:志摩宿禰はいずれの姓の人ということを知らず)。ここに卓淳の王末錦マキム旱岐カンキ、志摩宿禰に告げて曰く、「甲子の年(364年)の七月に、百済人久氐クテイ・彌州流ミツル・莫古マクコの三人、わが国に到りて曰く、『百済の王、東の方に日本の貴国あることを聞きて、臣らを遣わして、その貴国に朝(もう)でしむ。故道路を求めて、この国に至りぬ。もしよく臣らに教えて道路を通わしめば、わが王必ず深く君王を徳(おむかしみ)せむ』という。時に久氐らに語りて曰く、『もとより東に貴国あることを聞けり。然れども未だ通うことあらざれば、その道を知らず。ただ海遠く波険し。すなわち大船に乗りて、わずかに通うこと得べし。もし路津(わたり、海路上の港)ありといえども、(大船なくば)何を以ってか達(いた)ること得む』という。ここに久氐らが曰く、『然らばすなわち、ただいまは通うこと得まじ。しかじ、さらに還りて船舶を備(よそ)いて、後に通わむにや』という。またしきりていいしく、『もし貴国の使人来ることあらば、必ずわが国に告げたまえ』といいき。かくいいて、すなわち還りぬ」という。ここに斯摩宿禰、すなわち従人爾波移(にはや)と卓淳人過古ワコと二人を以って、百済国へ遣わして、その王を慰労(ねぎら)へしむ。時に百済の肖古ショウコ王(在位346-375年、東晋には余句と名乗る)、深く歓喜(よろこ)びて、厚く遇(あ)いたまう。よりて五色の綵絹(彩った絹)各一匹、および角弓葥(角の弓矢)、併せて鉄鋌(鉄材)四十枚を以って爾波移に与う。…「わが国に多くこの珍宝あり。貴国に奉らんと欲するとも、道路を知らず。志ありて叶うことなし。然れども…」ともうす。ここに爾波移、事を奉(う)けて還りて、斯摩宿禰に告ぐ。すなわち卓淳より還れり。>(神功紀四十六年条)。
前にも言いましたが、ここにある「貴国」とは「基肄に都する国」の意味だろうと、古田先生はいわれます。岩波書紀では「かしこきくに」とルビを振っていますが、相手に向かっていえばともかく第三者にいうとは…。また「日本の」という説明は、「四世紀当時「日本」は使われていた」という考え方と、「八世紀書紀編纂時の謂い」という考え方があります。ただ後の雄略紀二十一年条に、475年の「漢城の落城」といわれる事件の後始末のところに「日本旧記」という(九州王朝の)史書名が出てきます。「倭」がそれまでの「ゐ」音から匈奴や鮮卑の「わ」音に変わったのを嫌って「日の辺にある国、日本」と称したとしてもおかしくはありません。もう少し後か…とも思われますが…。この四十六年条は、すべてを「百済記」より採って(盗って)本文化しているとされています。また「斯摩宿禰」も「姓を知らず」と注があることから、「斯摩」は名であっていわゆる「苗字」を知らない…と。ですから筑紫倭国では名さえいえばすぐ分かる将軍であったものが、書紀の編集者は知らなかった…、つまり大和の将軍ではなかった…ことが分かります。これは、筑紫倭国に百済が接触した記事でしょう。ただ百済が最初に卓淳国に接触した344年、将軍斯摩宿禰は新羅を攻略している最中だったのでしょうか。

邪馬壹国(12)

2006-11-27 16:20:06 | 古代史
 前回紹介しました明帝の詔書は、日本書紀には採録されていません。邪馬壹国が大和にありヒミカの後裔が近畿天皇家であったとすれば、魏の明帝より「親魏倭王」の称号と金印紫綬をもらったことは、特筆大書してもいいはずです。しかし貢献記事は(孫引きで?)載せても詔書を省いたことで、ヒミカの後裔は近畿天皇家ではない…と自白しているに等しいと思います。
では「魏志倭人伝」に戻りましょう。再び貢献記事です。なお、景初二年は238年です。

<正始元年(240年)、太守弓遵(きゅうじゅん)、建中校尉梯儁(ていしゅん)らを遣わし、詔書・印綬を奉じて倭国に詣り、倭王に拝仮し、並びに詔をもたらし、金帛(きんぱく、金や絹)・錦罽(きんけい、錦の毛せん)・刀・鏡(あの百枚の)・采物(さいぶつ、異なる彩を持つ衣服など)を賜う。倭王、使いによって上表し、詔恩を答謝す。>
帯方太守のもとに装封してあった二年前の下賜品が、いよいよ建中校尉梯儁らによって倭国に運び込まれました。確かに梯儁らは、ヒミカに直接拝謁したのです。「拝仮」とは、魏の都以外で謁見することをいうようです。このときの印象が、「年すでに長大…」と記録されたのでしょう。そしてこの旅や、あとに出ます張政らの旅における道中の方向・距離の報告が、陳寿によって「倭人伝」に残されたのです。
古田先生は、この年の倭国行きは初めてでもあり、倭国が魏の体制に組み込まれたこと(前回の詔書の始めに「親魏倭王卑弥呼に制詔す。」の「制詔」によってわかるのだそうです)を知らせるべく大々的なデモンストレーションの旅ではなかったろうか、といわれています。
そして重要なこと、それは「倭国の高官らは、漢文を読むことも書くこともできた」ということです。もたらされた(齎された、bringの意味)証書や詔を読み、「上表して答謝」しているのですから…。倭国が建武中元二年(57年)、後漢の光武帝より「漢委奴国王」の金印をもらったとき、意味もわからずキョトンとしていたのでしょうか。この年や永初元年(107年)の使いは、「国書」を持っていかなかったのでしょうか。持って行ったからこそ、倭王の名「帥升」も記録されたのではないでしょうか。
書紀では文字の伝来は応神のとき(五世紀始め)王仁(わに)によってもたらされた論語・千文字が初めとか、いやいや継体のころ(六世紀はじめ)とか定まりませんが、倭国の場合は三世紀半ばにちゃんとヒミカが国書によって「答謝」していることが記録されているのです。このときの国書に、自署名「俾彌呼」が書かれてあったのでしょう。さて、書紀はどのように引用しているのでしょうか。やはり「分注」です。

『(神功)四十年。魏志に曰く、正始の元年に、建忠校尉梯携らを遣わして、詔書・印綬を奉りて、倭国に詣らしむ。』
これだけです。しかも「建忠」「梯携」と二ヶ所も間違っています。上表して答謝したことなどありません。

<その四年、倭王、また使大夫(しだいふ)伊声耆(いせいき)・掖邪狗(えきやこ)ら八人を遣わし、生口・倭錦・絳青縑(こうせいけん)・緜衣(めんい)・帛布(はくふ)・丹・木付(けもの犭編がつく)・短弓矢を上献せしむ。掖邪狗ら、率善中郎将の印綬を壹拝す。>
答礼として、再び使いが遣わされました。こんどはすこし余裕があったのか、掖邪狗ら八人と、倭錦を含む精一杯の贈り物です。そしてまた彼らも、魏の直属の臣となりました。難升米と同じ爵位でしょうか。
ここに印象的な言葉があります。「壹拝」です。当時大陸では、ことのほか「弐(二)」が憎まれたそうです。魏・呉・蜀の巴(ともえ)になった戦いの中、二心(ふたごころ)、つまり裏切りに通じる「弐」は嫌われました。その反対に、忠節を表す「壹」は尊ばれました。このことは記憶に留めておいておいてください。

 さて、書紀は、
『(神功)四十三年。魏志に曰く、正始の四年、倭王、また使大夫伊声者・掖耶約ら八人を遣わして上献す。』
人名を間違えるなんて…。近畿天皇家の使いではなかったからでしょう。

<その六年、詔して、倭の難升米に黄幢(こうどう、黄色の旗は将軍の証し)を賜い、郡に付して仮授せしむ。>
難升米は、倭で最もヒミカに近い臣だったのでしょうか。軍事権を握っていたのかもしれませんね。それで魏は難升米に黄幢を授け、倭軍を魏に取り込んだのでしょうか。
この後書紀には、倭人伝による記事は(ヒミカの宗女壹与(イチヨ)の記事を除いて)ありません。唐突として、四世紀中から後半にかけての、倭と百済の国交開始(と思われる)記事が(百済記より引用して)本文化された形であります。

<その八年(247年)、太守王頎(おうき)官に到る。倭の女王卑弥呼、狗奴(こぬ)国の男王卑弥弓呼(ひみくか)と素(もと)より和せず。倭載(ゐさい、国名の倭を姓とし名を一字とした。壹与のさきがけと見たい)・斯烏越(しおえつ)を遣わして郡に詣り、相攻撃する状(さま)を説かしむ。塞曹掾史(さいそうえんし)張政(ちょうせい)らを遣わし、よりて詔書・黄幢を齎し、難升米に拝仮し、檄(げき)をなしてこれを告喩(こくゆ、広く人民に告げ諭す)せしむ。>
倭国三十ヶ国外にあった狗奴国と、ついに戦になったようです。倭載・斯烏越の二人を帯方郡に遣わし、太守に戦況を知らせます。倭国不利…と見たのか、郡の辺境守備の任にあった張政という軍人を部隊と共に派遣しました。詔書・黄幢を魏の臣たる難升米に与え、張政ら部隊は率善中郎将である難升米の指揮下に入ったのではないでしょうか。戦況は好転したのでしょうか。

<卑弥呼以って死し、大いに冢(ちょう)を作る、径百余歩。徇葬する(じゅんそう、従って死ぬ)者、百余人。>
この冢の規模はどれほどでしょうか。この「歩」というのは「里」の下部単位で、「1里=300歩」です。通説では1里=約435mの頭しかありませんから、(435÷300×120~130=)174~189mの巨大古墳と考え、奈良県にある箸墓(前方後円墳)に当ててきました。
しかしいま、私たちは知っています。「魏志および倭人伝」においては、「魏・西晋朝の短里」で書かれていることを…。ですからこの冢は、(77÷300×120~130=)31~34m程度の円墳のようです。ヒミカの冢が見つかれば、「親魏倭王」の金印とともに殉死した百人の骨もあることでしょうね。

<さらに男王を立てしも、国中服せず。こもごも相誅殺し、当時千人を殺す。また卑弥呼の宗女壹与(いちよ)、年十三(実際は六・七歳)なるを立てて王となし、国中ついに定まる。政ら、檄を以って壹与を告喩す。>
ヒミカはいつ死んだのでしょうか。はっきりとは分かりませんが、狗奴国との戦の最中か次の年…あたりではないでしょうか。
男の王が立ちましたが、こんどは内戦です。ヒミカの宗女、つまり一族の娘といいますからヒミカを佐(たす)けた男弟の娘かもしれませんね。まだ幼いといっていい壹与ですね。この「壹与」は、魏に二心なきことを示す国名「邪馬壹国」の「壹」を姓とし、「組する、あずかる」の意味を持つ「与」を名としたのではないでしょうか。

<壹与、倭の大夫率善中郎将掖邪狗ら二十人を遣わし、政らを送りて還らしむ。よりて臺(だい)に詣り、男女生口三十人を献上し、白珠五千孔・青大句珠(こうしゅ)二枚・異文雑錦(いもんざつきん)二十匹を貢す。>
さて、張政らが帰国したこの貢献は、いつのことでしょうか。幸いにして、書紀よりわかります。

『(神功)六十六年。この年、晋の武帝の泰初の二年なり。晋の起居注に曰く、「武帝の泰初の二年の十月に、(貴)倭の女王、訳を重ねて貢献せしむ」という。』
実際は、泰始二年(266年)です。この前年、魏より禅譲されてあの司馬懿(しばい、宣王)の孫である司馬炎(えん)が「(西)晋」を建てていました。張政は247年に倭国に来ていましたから、足掛け二十年間も留まっていたのです(木佐という方の発見…という)。
張政の晋の武帝に対する報告書は、正確を極めたのではないでしょうか。これより十四、五年後に、陳寿は「三国志」を上梓したのです。このことだけでも「魏志倭人伝は信用ならない、誤りが多い…」などという非難は吹っ飛ぶのではないでしょうか。

 また「景初二年」の、卑弥呼の記事はこうでした。
「景初二年六月、倭の女王、…天子に詣りて朝献せんことを求む。…」
次ぎに、壹余の記事と比較してみましょう。
「壹与、…を遣わし、…よりて臺に詣り、…」
「天子に詣る」と、「臺に詣る」とは、まったく同じ事をあらわしていますね。つまり「天=臺}だったのです。あれほど「卑字」を使った「魏志倭人伝」の中で、著者の陳寿は二心なき倭国を表す「邪馬壹国」は使えても、天子を表す「邪馬臺国」は決して使えないのです。ですから「魏志倭人伝」においては、決して「邪馬臺国」でもなければ当用漢字を使った「邪馬台国」でもないのです。
でも「臺」のインフレとなっていた五世紀、范曄は遠慮せず「後漢書」に「大倭王、邪馬臺国に居す」と書けたのです。

 そしてもう一つ、日本書紀はどうして天皇でもない「神功皇后」紀を特設したのでしょうか。書紀の編集者が、ヒミカと神功皇后を間違えた? いえ、そうではなく確信犯のようです。古田先生によれば、中国や東夷の世界に名高いヒミカ・イチヨの貢献記事を(女王の名を伏せてでも)神功皇后紀に取り入れたのは、魏に貢献していたのは大和朝であったとせんがため、かつ神功の時代はこのころであったという書紀の時間軸を定めるため…だということです。
しかし、神功紀は不思議です。羽白熊鷲のように羽根のある超人の神話世界から、三世紀半ばのヒミカ・イチヨの話を取り入れ、加えて筑紫倭国と半島百済の四世紀後半の国交開始の話まで…。足かけ四、五百年にわたる事項を、一人の人物に充てるとは…。なんともはや、にぎやかなことです。
なお書紀の底本には「貴倭(きゐ)の女王」とあるそうですが、これは壹与が「基(基肄)」に都していた反映ではないか…とされました。
実は四世紀後半の倭と百済との国交開始の記事(神功紀に、百済記より採って本文化している)にも、第三者の言うせりふの中に「貴国」という言葉が出てくるのです。壹与の後裔の王朝は、基(基肄)に都していたのでしょうか。


邪馬壹国(11)

2006-11-24 16:35:58 | 古代史
 前回まで紹介しました倭国への道順とか風俗などの説明は、陳寿の「地の文」といいます。つまり陳寿が執筆している時点あるいはそのすこし前の事実を、魏の使節の報告書や魏朝廷の公式記録、あるいは天子の日常を記したメモ(これを「起居注」という)などを参考にしてしたためたものです。
では次ぎに「年代記事」に入っていきましょう。

<景初二年六月、倭の女王、大夫難升米(なんしょうまい?)らを遣わし、郡に詣(いた)り、天子に詣りて朝献せんことを求む。太守劉夏(りゅうか)、吏を遣わし、将(ひき)いて送りて京都に詣らしむ。>
この「景初二年」に対する共同改訂については、「邪馬壹国(2)および(3)」を参照ください。

これがどのように「日本書紀」に取り入れられているか、見てみましょう。
『神功紀三十九年。(分注)魏志に曰く、明帝の景初三年の六月、倭の女王、大夫難升米らを遣わして、群に詣りて、天子に詣らむことを求めて朝献す。太守夏、吏を遣わして将(い)て送りて、京都に詣らしむ。』
本文ではなく、分注です。ここに「明帝の景初三年」とはっきり書いてありますね。原文には「明帝」はありませんが、始めて書紀を見る人のための説明…と考えて、これはよしとしましょう。しかし「景初二年」を「三年」にまた太守「劉夏」を「夏」に間違えるなんて、あるいは孫引きか…と疑がわれます。
しかし現在に至るまで学者先生らが「景初三年」が正しいとするのは、同時代(三世紀の)史料を信用せずに後代(八世紀の)史料による間違いを犯しているのではないでしょうか。
しかも「魏志」によれば、「景初三年六月」であれば肝心の明帝は亡くなり、喪に付している真っ只中でしょうに…。三年六月にのこのこと顔を出せば、下記に示すような豪華なお土産どころではないでしょう。国が滅びますよ。
 さて、次は詔勅(しょうちょく、天子の意思を表明する文書・詔書や勅書など)です。

<その年十二月、詔書して倭の女王に報じて曰く、「親魏倭王卑弥呼に制詔(せいしょう、魏の制度に従って詔を出す)す。帯方の太守劉夏、使いを遣わし、汝の大夫難升米・次使都市牛利(としぎゅうり?)を送り、汝献ずる所の男生口四人・女生口六人・班布二匹二丈を奉じ、以って到る。汝のある所遠きを踰(こ)え、すなわち使いを遣わして貢献せしむ。これ汝の忠孝、我はなはだ汝を哀れむ(賞美する・めでる)。いま、汝を以って親魏倭王と為す。金印紫綬(きんいんしじゅ、金印のつまみに紫の紐がついたもの)を仮し、装封して帯方太守に付して仮授す(直接手渡さず、帯方太守より授ける)。汝、それ種人を綏撫(すいぶ、慰めいたわり)し、勉(つと)めて孝順(こうじゅん、天子によく尽くし、その意に逆らわない)をなせ。>
倭国の使いは難升米と都市牛利の二人だけ、そして貢の品は男生口四人・女生口六人・班布二匹二丈だけの貧弱な物でした。これは明帝の公孫淵討伐を聞いたヒミカの、取る物もとりあえず魏に二心ないことを示すための政治的決断による使節派遣だったからでしょう。
しかし戦中の使いに、明帝はたいそう喜びました。ヒミカを「親魏倭王」となし、金印紫綬を賜ったのです。そしてこれは装封され、帯方太守より渡すように段取りされました。続きです。

<汝が来使難升米・牛利、遠きを渉(わた)り、道路勤労す(来るまでの途中、心身を労して任務にはげむ)。いま、難升米を以って率善中郎将(そつぜんちゅうろうしょう、太守に比する爵位)となし、牛利を卒善校尉(そつぜんこうい、宮城の宿衛を司る官)となし、銀印青綬を仮し、引見労賜(いんけんろうし、天子が謁見し、いたわって物を賜う)して遣わし還す。>
二人の使いにもねぎらいの言葉がかけられ、倭国女王の臣ながら魏の直属の臣ともなったのです。難升米は太守と並ぶほどの爵位(二千石という)、牛利も相応の官位をもらい、かつ二人には銀印青綬が下されました。

<いま絳地交龍錦(こうちこうりゅうきん、赤地に龍の縫い取りのある錦)五匹・絳地縐粟罽(しゅうぞくけい、赤の縮み?)十張・蒨絳(せんこう、茜色の絹)五十匹・紺青(こんじょう、鮮やかな明るい藍色の絹)五十匹を以って、汝が献ずる所の貢直に答う。また特に、汝に紺地句文錦(こんじこうもんきん、藍地でカギ形の文様のある錦?)三匹・細班華罽(さいはんかけい、細い文様の華やかな絹?)五張・白絹五十匹・金八両・五尺刀(長さ1mくらい)二口・銅鏡百枚(これが三角縁神獣鏡に擬せられている鏡)・真珠・鉛丹各五十斤を賜い、みな装封して難升米・牛利に付す。還り到らば録受し、悉く以って汝が国中の人に示し、国家汝を哀れむを知らしめるべし。故に鄭重に、汝に好物を賜うなり。>
金印紫綬は帯方太守より渡されますが、(見てください!)この豪華絢爛たるお土産はみな装封され二人が持って帰ることになっていました。
邪馬壹国に対するお土産のほかに、「汝の好物」としてヒミカ個人へのお土産もあります。その中に、あの「銅鏡百枚」もありますね。ひところは近畿地方より多く出土する「三角縁神獣鏡」を以って、この「銅鏡百枚」に当てていました。それが正しければ、邪馬壹国は近畿大和で決まり…だったのです。しかし早くより古田先生を含む何名かの方々は、「三角縁神獣鏡は国産ではないか…」といわれていました。
まず肝心の三世紀の墓からは出ず、四世紀以降の古墳時代の墓からしか出なかったからです。しかしこれには、「鏡は伝世(親から子・孫へと伝わる)する」という理論が出されました。しかし「すべての鏡がそうか」と質問されれば、誰も答えられませんね。
次ぎに、肝心の中国からは一面も出土していないのです。これに対しても、「倭国の特注品だから、中国に出ないのは当然」とされました。しかしまぁ偉い学者先生が、伝世とか特注とか「見てきたような嘘をいい…」でいいのでしょうか。
数年前、中国考古学研究所長の王仲殊さんの「三角縁神獣鏡は、中国製ではない」という論文が出ました。日本の考古学界はそのときひどく衝撃を受けたのですが、「邪馬台(壹ではなく)国、近畿大和説」を死守したい先生方は、「そうはいっても…、伝世説も捨てきれない…」と煮え切らない態度だそうです。
古田先生が強調されるのは、「邪馬壹(台ではない)国を好きなところへ持っていくのはかまわないが、文献学的には「魏志倭人伝」に従い、方位や距離を一字も変えず、「魏・西晋朝短里」の概念を採らなければならない。考古学的には筑紫矛やその鋳型が多く出土し、魏よりもらった「前・後漢鏡」の出土が多く、かつ中国錦(絹)や国産絹の出土を見なければならない」ということです。
近畿大和でもいいのですが、南を東へ直さず・一月を一日に直さずたどり着けますか、矛が出ますか・絹が出ますか…と質問してみましょう。鏡だけでは、だめなのです。

 そして、年が明けた景初三年早々、当の明帝は病に斃れ亡くなりました。「邪馬壹国(2)」を参照ください。そして、次回の記述へと続きます。

邪馬壹国(10)

2006-11-23 16:31:33 | 古代史
 倭国の風俗に関する記事を、どんどん進めていきましょう。前回の「一大率」の役目の続きです。

<王の使いを遣わして京都(魏の都洛陽)・帯方郡・諸韓国(馬韓・弁韓・辰韓など)に詣(いた)らしめ、郡の倭国に使いするに及ぶや、みな津に臨みて捜露(そうろ、臨検する)す。伝送の文書・賜遣(しけん)の物、女王に詣るに、差錯(ささく、交わる・入り乱れる)するを得ざらしむ。>
女王が洛陽や帯方郡衙あるいは諸韓国に使いを出し、その返礼として郡より倭国内の諸国(全部で三十国ある)に使いが来る場合、一大率はその軍事力を以って(倭国内)諸国の港を臨検し、送られてきた文書や贈り物をきちんと整理し、間違いなく女王のところへ届くようにしている…ということます。
この風景はどうも魏の使いが実際に見聞したことらしく、二十九国からの貢献の品は邪馬壹国が取りまとめて送り、送られてきた品々は一大率が各国別に整理して交わらないようにしている…というのです。女王国ともども他の二十九国も外交・通商していましたが、その手綱はしっかりと女王国が握っているのが分かります。

<下戸、大人と道路に相逢えば、逡巡(しゅんじゅん、尻込みして・ためらいながら)して草に入り、辞を伝え事を説くには、あるいはうずくまりあるいはひざまづき、両手は地に拠り(地に両手をついて)、これが恭敬を為す。対応の声を噫(あい)という。比するに然諾のごとし。>
身分制度の厳しいところが描写されています。大人同士の挨拶は手を打つだけでしたね。下戸が大人と道で会えば、道を譲って草に入り、両手を地につけて挨拶するようです。そして「あい」という…と。これら風俗の描写は、百五十年ほど後にできた范曄の「後漢書」に取り込まれています。しかしずいぶん簡略化され、意味がすこし違っている描写もありますが…。

<その国、本亦(もとまた)以って王となし、住(とど)まること(王位にあった期間)七・八十年。倭国乱れ、相攻伐すること暦年、すなわち一女子を共立てて王と為す。名づけて卑弥呼(ヒミカ)という。鬼道に事(つか)え、よく衆を惑わす。年すでに長大なるも、夫壻(ふせい、おっと)なし。男弟あり、佐(たす)けて国を治む。王となりしより以来、見るあるもの少なく、婢(ひ)千人を以って自ら侍せしむ。ただ男子一人あり、飲食を給し、辞を伝え居所に出入す。宮室(きゅうしつ、高床式の館)・楼観(ろうかん、物見櫓)・城柵(じょうさく、丸太の高い柵)厳かに設け、常に人あり、兵を持して守衛す。>
女王卑弥呼誕生のいきさつです。なお卑弥呼は「ヒミカ」と読みましょう。古田先生によれば、「こ」字は「卑狗=彦」の「狗」が使われており、「呼」字には「こ」と「か」音があるが「神様にささげるいけにえに入れる傷」を表す「か」音がよい…ということです(諸橋大漢和辞典)。ヒミカは巫女ですから…。
本来(本亦の意味から)男王が一般的だったのです。前王は、(二倍年礫ですから)三十五年~四十年間も在位されていました。亡くなった後、倭国は乱に見舞われ「無主」のときを迎えました。この「暦年」とは、古田先生の「三国志」全体の調査で「七・八年間」をいうそうです。
後で出てきますように魏使がヒミカに拝謁したのが240年ですから、そのとき「長大」な年齢だったとすると、古田先生の調査により、三十~三十五歳くらい…。(歴史を想像で語るのは禁じ手ですが…、ロマンとして聴いていただければ幸いです。もし「倭国乱」が後漢より禅譲されて魏が建国され続いて蜀や呉も国を建てた220~222年に関係があるとすると、つまり親魏派とか親呉派などの間で生じたとすると、230年ほどまでその乱が続いたことになります。そしてヒミカが共立されたのであれば、二十歳ちょっと過ぎの美しい女王の誕生だったのかもしれませんね。)。
范曄は何を読み違えたのか「後漢書」で、「桓・霊の間、倭国大乱、こもごも相攻伐し、暦年主なし。」と記しました。後漢の桓帝は147-167年の在位、霊帝は168-188年ですから、最大四十年ほどの乱…つまり「大乱」と記しました。そしてヒミカが190年ころ即位したとすれば…、二十歳だったとすれば240年には七十歳の老婆…、十歳だったとしても六十歳…。いやこれは、ロマンとはすこしずれすぎましたな。
弟が実質的な王として、ヒミカを助けていたようです。「佐治国」…、これは周の第二代成王を補佐した周公丹の故事「佐治天下」に淵源しています。ヒミカはもっぱら「巫女」として、宮室の奥深くいてめったに人前に出ないようです。表とのつなぎは、ただ一人の男子だ…と。
この「宮室・楼観・城柵」は、佐賀県の吉野ヶ里遺跡でそっくり出土したことはご承知の通りです。守衛する兵士の武器は…、「銅・鉄矛」でしょう。

<女王国の東、海を渡る、千余里。また国あり、みな倭種。また侏儒(しゅじゅ、背の低い人の)国あり。その南にあり。人長三・四尺。女王を去る、四千余里。また裸(ら)国・黒歯(こくし)国あり。またその東南にあり。船行一年にして至るべし。倭地を参問するに、海中洲島の上に絶在し、あるいは絶えあるいは連なること、周旋(しゅうせん、巡ってみると)五千余里なるべし。>
博多湾岸より東に海を渡って千余里、つまり80kmあたりに倭種の国がある…と。山口県下関から小野田あたりでしょうか。そこより南へまた三千余里南下すれば、背の低い人々の国がある…と。古田先生は、高知県の足摺岬あたりだろう…といわれています。
そしてそこから東南方向に、船で一年…実際は半年くらいで行ける所に、裸国・黒歯国があるのだ…と。古田先生は、これは嘘でも誇張でもない…とおっしゃっています。ヨットで太平洋を横断した方々の話も参考にして、足摺岬を掠める日本海流(黒潮)に乗れば三ヶ月ほどで自然とサンフランシスコ沖へつき、そこから陸を左に南下すればまた三ヶ月ほどで南米はエクアドルに達する…と。帰りは南北赤道海流で、わが列島まで送ってもらえるのだ…と。実はアメリカ・エクアドルの学者の研究で、バルディヴィアという所から「縄文土器によく似た土器」が発見されたことがわかっています。「縄文人が海を渡った…」証拠かもしれませんね。
そして倭地、半島南岸にある狗邪韓国より倭地を巡ってみると、五千余里あるそうです。帯方郡衙より狗邪韓国まで七千余里でしたから、ここで邪馬壹国までの全道里「万二千余里」がわかったのです。
ここで「海中洲島の上に絶在し…」とあることからも、邪馬壹国は大和などではありえず、九州島であることは自明だったのです。では、次回より年代記事を見てみましょう。

 どうも来月の入院を考えてか、焦りが出ている様子が見て取れますね。焦って、下手なことを書かないよう自省します。

邪馬壹国(9)

2006-11-23 09:04:13 | 古代史
 前回の「練沐」についてわたしは「頭から水をかぶって身体を鍛える」としましたが、岩波文庫「魏志倭人伝」の解説では「一周忌の喪服である練(ねりぎぬ)をきて水に浴すること」とあります。後者が正しい? では次です。

<その行来・渡海、中国に詣(いた)るには、恒に一人をして頭を梳(くしけず)らず、蟣蝨(きしつ、ともにしらみ)を去らず、衣服垢汚(こうお、あかまみれ)、肉を食わず、婦人を近づけず、喪人(そうじん、本国を逃亡して他国にいる者・亡人)のごとくせしむ。これを名づけて持衰(じさい、神聖な仕事に従事するため飲食や行動を慎み心身を清めた人)と為す。もし行く者吉善なれば、共にその生口(せいこう)・財物を顧し(与えて目をかけ)、もし疾病あり、暴害に遭えば、すなわちこれを殺さんと欲す。「その持衰、謹(つつし)まず」といえばなり。>
中国へ使節を送ったり、交易するための航海のときの倭人の風習です。一人の男を「持衰」としてしらみや垢だらけのままにし、肉も食わさず婦人も近づけずに乗船させる…と。そして航海がうまくいけば、使節の長や交易の荷主は生口(戦争捕虜であり、労働力となる)や財物を与える…と。しかし病気が出たり暴風雨などに遭えば、「おまえが謹まなかったからだ!」とこれを殺すのだそうです。なかなかひどい風習ですね。

<真珠・青玉を出す。その山に丹(水銀あるいは朱色の原料の丹砂)あり。その木には、枏(だん)・杼(ちょ、どんぐり)・予樟(よしょう、くす)・楺(ぼう)・櫪(れき、くぬぎ)・投・橿(きょう、かし)・烏号(うごう)・楓香(ふうこう、かえで)あり。その竹には蓧(じょう、しの)・簳(かん、やがら)・桃支(とうし)。薑(きょう、はじかみ・しょうが)・橘・椒(しょう、はじかみ)・蘘荷(じょうか)あるも、もって滋味(うまい味、栄養のある食べ物)と為すを知らず。ビ(けもの犭へんに爾)猴(びこう、さる?)・黒雉あり。>
特産の植物のようです。分かる範囲で解説しました。

<その俗、挙事行来に云為(うんい、言論と行動)する所あれば、すなわち骨を灼(や)きて卜(ぼく)し、以って吉凶を占い、まず卜する所を告ぐ。その辞は令亀(れいき)の法のごとく、火坼(かたく、焼いた骨に入った裂け目)を視て兆(ちょう、きざし)を占う。>
何か事を起こす-たとえば戦争をするとか交易の旅に出るとかの-とき、倭人は鹿などの骨を焼いて占うのだそうです。そして焼いたためにできた骨の裂け目で、その吉凶を見るのだそうです。どこかに遺跡で、そのような骨が発掘されたと聞いたことがあります。

<その会同・坐起には、父子・男女の別なし。人性、酒をたしなむ。(魏略にいう。「その俗、正歳・四節を知らず。ただ春耕・秋収を計りて年紀と為す。」)。大人(たいじん)の敬する所を見れば、ただ手を打ちて以って跪拝(きはい、ひざまづいたあいさつ)に当つ。その人の寿考(じゅこう、寿命)、あるいは百年、あるいは八・九十年。その俗、国の大人はみな四・五婦、下戸もあるいは二・三婦。婦人淫せず、妬忌(とき、ねたんだりさけたりする)せず。盗窃せず、諍訟(そうしょう、あらそいごと)少なし。その法を犯すに、軽き者はその妻子を没し(没収してなどに落とす)、重き者はその門戸(その家族)および宗族(その一族)を没す(殺してしまう)。尊卑、各(おのおの)差序(序列に従った違い)あり、相(あい)臣服する(臣下として従う)に足る。>
日常の行動には、父子・男女の区別はありません。民主的ですね。いまより進んでいるかも…。そしていまの私たちと同じく、こよなく酒を愛す…と。
そして五世紀の裴松之(はいしょうし、「後漢書」を著した范曄と同時期の人))の注釈があり、「倭人は年の数え方を、春の種まきから秋の収穫までを一年とし、そして冬を過ごして次の春までを一年、つまりわれわれ中国人の一年は倭人にとって二年になる」といっています。だから次の「倭人の寿命は百年、あるいは八・九十年」が書かれたのでしょう。いま「弥生墓の人骨を調べると、四十五歳前後…」という事実にもぴったり合いますね。
ここでいう「大人」とは、いわゆる倭国の貴族階級・支配階級の人々でしょうか。お互いが会えば、パンパンと手を鳴らして挨拶代わりとする…と。そして皆、四人や五人の妻を持っていたようです。一夫多妻の世界ですね。
次の「下戸」と呼ばれる階級の人は、実際の農業・工業・兵役の義務を負うていた町人…でしょうか。このごろでは下戸の富裕層も出て、二・三人の妻を持つ人も現れたようです。
婦人は、それでも嫉妬などしません。泥棒などいないので、めったに訴訟もありません。万が一罪を犯せば、軽い場合は妻子を没収してに落としました。反逆罪など重い場合は、罪人を出した家族や一族に死を賜ったようです。
大人と下戸の間はいうに及ばず、大人同士でも身分の差があれば序列が下位の者は上位の者に服従する…と。その上下は、鯨面文身で分かったのでしょうね。
倭国の身分制度が分かります。まず頂点に「王」、次ぎに貴族階級としての「大人」、そして一般の民として「下戸」、その下に「奴・婢」、彼らには、主を選ぶ権利はあったのでしょうか。そして最下層に、何の自由もない「生口」がいました。当然、大人同士でも下戸同士でも、身分や貧富に差はあったのでしょうね。

<租賦(そふ、いわゆる年貢)を収む。邸閣(ていかく、食料用倉庫)あり。国々市あり、有無を交易す。使大倭(しだいゐ、倭国から派遣された役人)これを監す。女王国より以北には、特に一大率(いちだいそつ)をおき、検察せしむ。諸国、これを畏憚(いたん、恐れはばかる・気兼ねする)す。常に伊都国に治す。国中において、刺史(しし、中央から派遣された巡察使)のごときあり。>
各国より徴収された年貢は、いったんその地にある倉庫に納められました。そして同じように市場があり、その地の特産品(例えば米)と不足する物品(例えば塩や魚)と交換する交易をしていたのでしょう。それを司っていたのは、使大倭という役所(役人)である…と。
そして伊都国には一大率という軍団を駐屯させ、諸国を巡察していたのでしょう。軍事権と警察権を持った強力な組織であったらしく、諸国はそれを恐れはばかっていたようです。一大率は、古田先生によれば、海人族の故郷である一大国出身の…あるいはそれに因んだ軍団だったのではないか…とされました。

 さて今回はここまで…。倭国の風俗、お分かりいただけたでしょうか。