やさしい古代史

古田武彦氏の仮説に基づいて、もやのかかったような古代史を解きほぐしていこうというものです。

古代を覗く足がかり

2006-10-05 15:43:13 | 古代史
 前回の「古田説とは?」に引き続き、今回は古代を覗く手がかり足がかりについて述べてみます。一応答えは、発掘された遺跡・遺物をどのように解釈するか…ということ、次に内外の史書・古文書の解釈ですね。
今回は遺跡・遺物、つまり考古学的手がかりは扱いません。最もよい解説書として、わたしは古田先生の「ここに古代王朝ありき-邪馬一国の考古学」(朝日新聞社)をお勧めします。ご一読ください。
 さて、史書などではどうでしょうか。まず国内の一次的史書として、次のものを挙げましょう。
「古事記・祝詞」:(太朝臣安万侶著、712年上梓)岩波書店・日本古典文学大系
「日本書紀」:(舎人親王ら編纂、720年上梓)同上
「万葉集」:(八世紀半ばまでの和歌の集大成、大伴家持らが編集か?)同上
次ぎに、大陸や半島の国々の史書です。前回示した抜粋以外では、
「百衲本二十四史」:(史記から明史までの中国王朝正史)台湾商務印書館印行
「三国史記。三国遺事」:(十二世紀半ばおよび十三世紀はじめに高麗で作られた史書。古事記・日本書紀より後であるが、その信憑性は高いといわれている。多くの既存史料を取り入れている)翻訳されたものが入手できる。
古田先生はこのような史料文献を利用するときの心構えとして、次のようなことをおっしゃっています。「字句の中に不審なところがあっても、自己の解釈に併せ恣意的に改定してはならぬ。検証の上に検証し、論証を重ねて確証を得る。以前の字句を確証を得た字句に入れ替えて見た場合、すんなりと無理なく理解できる…ことを証明しなければならない。改定には、臆病になれ」と。天動説では不審だらけだった事象が、地動説を導入したとき始めてすんなり理解できた…という、コペルニクスのごときです。
 さて考古出土物を措くとすれば、残るは国内および国外史料となります。この両者が一致すれば、列島の古代の姿はそのベールを脱いでくれるはずです。
しかしながら上記の国内史料には、絶対的時間軸が(古代へ遡るほど)ありません。また国外史料にある明らかに列島とのかかわりが明らかな事象についても、国内史料には見出しえないことが多々あるのです。ですから「一元史観」に拠って立ついままでの学者先生方は、国外史料のこの事象はこの天皇のころと思われるから、逆にこの天皇以降の存在や時間軸はこのように当てはめられる…とか、国内史料には見出し得ないが国外史料のこの事象はこの天皇によるものと類推できる…とか、検証なしで言っておられるのです。また、国内史料に多く本文化あるいは本文注記として取り入れられている半島百済史料は、国内伝承が薄れたあるいはない(忘れた)ものを補強するために用いられたのであろう…とこれまた検証なしでしておられます。つまり、すべてを近畿天皇家に結びつけるような思考回路が出来上がっているようです。それで、すべて霧が晴れるようにすっきりと解釈できたか…といわれれば、それはご承知のようにNOなのです。
 ですから古田先生は、「近畿天皇家に先行して九州筑紫に主権があり、大陸や半島の国々から唯一認められていた…」という仮説を導入すればどうなるか…と提案されているのです。国内史料に見えない事象は、九州の主権のもとでの事象である…とすればとりあえず逃げられます。しかしそうであるとする検証・論証はできるのか。確証は得られるのか…。ここがポイントになります。
えらい大学の先生が「わたしはこう考える…」とおっしゃれば、弟子筋の先生方はおかしいなあ…と思っていても反論はできないのだそうです。しかし古田先生は、「わたしには、そのようなしがらみは一切ありません。真実の追求のみを友とし、真摯に検証・論証を行い、確証の持てる事実だけを提示します」とおっしゃっています。先生の著書を元に、一つ一つ皆さんに紹介したいと考えます。ではまた…。