やさしい古代史

古田武彦氏の仮説に基づいて、もやのかかったような古代史を解きほぐしていこうというものです。

国譲り神話(1)

2006-10-18 16:20:01 | 古代史
 前回は、縄文時代よりこの列島西半分を支配していたのは出雲にあった王朝であり出雲本国のほか筑紫および半島南岸が範囲であったこと、そのころの九州島は筑紫・豊・肥そして熊曽の四ヶ国しかなかったこと、同じころ壱岐・対馬に住む海人族は出雲の一番の家来であったこと…をお話しました。
因みに現存する「出雲国風土記」には、「国引き神話」なるものがあります。古田先生は、国を引き寄せる道具は地に打つ「杭」と引っ張る「綱」と引き寄せの対象とする国に打つ込む「木のすき」の三つだけであり、金属が出てこないから縄文の神話である…とされました。四ヶ所から引いて来ます。すこし長くなりますが、軽快な語り口を引用してみましょう。(小学館日本古典文学全集「風土記」)。
<意宇(おう)と名づくる所以は、国引きましし八束水臣津(やつかみずおみづ)の命、詔(の)りたまひしく、「八雲立つ出雲の国は、狭布(さぬ)の稚国(わかくに。織る途中のためまだ幅の狭い布)なるかも。初国小さく作らせり。故、作り縫はむ」と詔たまひて、「栲衾(たくぶすま。白い夜具で、新羅の枕詞)志羅紀の三埼を、国の余りありやと見れば、国の余りあり」と詔りたまひて、童女(をとめ)の胸すき(童女の胸のように平らなすき)取らして、大魚の支太衝きわけて(おふをのきだつきわけて。大魚を捕るにはえらを狙って鉾を突刺す。そのように大地にすきを突刺して)波多須々支穂(はたすすきほ。旗のようになびくススキの穂)振りわけて、三身の綱(三本よりの丈夫な綱)打ちかけて、霜つづら(霜で黒くなったつづら)繰るや繰るやに(引いて手繰り寄せれば)、河船のもそろもそろに(船を川上に引いていくようにゆっくりと)、国来(くにこ)国来と引き来、縫へる国は去豆折絶(こずのおりたえ。去豆の山の線がすとんと落ちるところ)よりして、八穂尓(やほに。大量の土で杵築の枕詞)支豆支の御埼(きずきのみさき。今の大社町日御碕)なり。(中略)また「北門(きたど)の佐伎の国(さきのくに。通説では隠岐の島としているがこれでは共食いである…として、出雲の北つまり今の北朝鮮ムスタン埼ではないかとされた)を、国の余りあるやと…(中略。上と同じようなフレーズが続く)。…狭田の国(今の宍道湖の北、鹿島町佐陀本郷)、これなり。また、「北門の良波(よなみ。通説ではやはり隠岐の島とするが、上と同じ理由でロシヤのウラジオストックではないかとされた)を、国の余り…(中略。同じフレーズ)。…闇見の国(くらみ。松江市新庄町辺り)、これなり。また、「高志の都都(つう)の三埼(能登半島であろう)を、国の余り…(中略。同じフレーズ)。…三穂の埼(美保関町)なり。(後略)>
 いかがでしたでしょうか。なかなか雄大な国引き神話でしたね。しかし戦後の教科書では、「神話は五、六世紀の大和の史官が机上ででっち上げたもの」として教えられてはいません(扶桑社の「新しい歴史教科書」ではすこし触れていますが、科学的ではないようです)。前回の「国生み」神話も、今回の「国譲り」神話も、後ご説明します「天孫降臨」や「神武東進あるいは東侵」といわれる神話なども軒並みです。神話とはある史実に基づいた伝承である…として、古田先生は科学のメスを入れられました。この「国譲り」神話はどうでしょう。先に、縄文より列島の西半分は出雲の支配下にあった…といいました。そして、高天の原にいた海人族は出雲の一番の家来であった…とも。そして弥生前期の末ころ、わたしは大体紀元前200年ころではないかと思っていますが、アマテルという巫女(みこ)の首長のころ、半島よりいち早く銅の武器(銅剣や銅矛など)を手に入れていた海人族は、主権者である出雲(大国主命など)に対し「国譲り」を強要したのです。わたしがBC200年ころと思う理由は、秦がBC249年に主筋の(東)周を滅ぼしBC221年には燕や斉といった六国を滅ぼして統一をなしました。つまり海人族としては、実力さえあれば主筋をも倒せる…と思ったに違いない。それが動機だった…と思うからです。では次回は、岩波「古事記」に沿ってみることにします。