やさしい古代史

古田武彦氏の仮説に基づいて、もやのかかったような古代史を解きほぐしていこうというものです。

邪馬壹国(1)

2006-10-30 15:26:44 | 古代史
 一世紀57年に倭(ゐ)国王が後漢(ごかん)に使いし、光武帝より「漢委奴国王(かんのゐどこくおう)」と刻まれた金印を賜りました。そして二世紀107年には、倭国帥升(すいしょう)王が生口(せいこう。軍事的捕虜))百六十人を献じて安帝に親しく見(まみ)えました。
そしてこの「倭国」を「大和(やまと)近畿天皇家」とすると、書紀によれば(古事記は当然)当時の天皇とされている垂仁や景行の記事には「後漢に使いした…」事績は何もないという矛盾を生じました。しかも万葉集などによれば、大和は七世紀後半(天智の晩年ころ)まで「山跡、夜麻登」などと表現され、「倭」が「やまと」と読まれるのはその後であると言う事実とも矛盾します。
ですから古田武彦説「七世紀終り(700年)まで、近畿天皇家に先行して筑紫(ちくし)に九州王朝があった」という仮説を導入すれば、これらの矛盾はすべて解消する…ということを述べました。つまりまだ出雲が主権者であった紀元前三百年ころより七世紀後半まで、「倭」は「ちくし」と読まれていたこととも矛盾しません。ですから九州王朝が「白村江の戦い(662年)」で唐・新羅連合軍に敗れた後、衰退していく九州王朝を横目に近畿天皇家は「倭」を「やまと」と読ませるようにしたのです。大陸や半島の国々に千年の歴史の重みをもって知られた「倭」を、取り込ま(パクら)ざるを得なかった…というところでしょうか。

 前置きが長くなりましたが、いよいよ三世紀の「倭国」です。三世紀の倭国の記録は、蜀に生まれのち魏(220-265年)に仕えそして西晋(265-316年)の史官となった陳寿(233-297年)によって280年ころ著された「三国志(魏志倭人伝)」に残されています。これはまさに、同時代史料といえます。八世紀はじめの「記紀」とは、その信憑性において比べ物になりません。
ある学者など「皇国史観」に凝り固まって、「しかし、魏志倭人伝を書いた歴史家は、日本列島に来ていない。それより約40年前に日本を訪れた使者が聞いたことを、歴史家が記していると想像されているにすぎない。また、その使者にしても、列島の玄関口にあたる福岡県のある地点にとどまり、邪馬台国を訪れてもいないし、日本列島を旅してもいない。記事は必ずしも正確とはいえず、邪馬台国が日本のどこにあったのかはっきりしていない。大和(奈良県)説、九州説など、いまだに論争が続いている。」(「新しい歴史教科書・市販本」扶桑社、2001年版)といっています。この言い方では探求する態度を放棄し、「三国志」よりも「記紀」に重きを置いています(その理由など、理由になっていないと見ますが…。しかしこの方は、動物的感で"使者は福岡県までは来た"といっています。邪馬台国大和説の先生が…、です。恐るべき直感であることは、そのうちわかりますよ)。
古田先生は定説の感のあったいままでの説を、「『邪馬台国』はなかった」という著書で完膚なきまで論破されました(わたしにはそう見えます)。この著書での主張をなぞりながら、わたしは「古田説」を紹介していくつもりです。

 ご承知のように、この「邪馬台国」論争は、長い歴史を持っています。肝心の「魏志倭人伝」には「邪馬壹国」とあるのですが、いつしか「邪馬臺国」とされ今では当用漢字で代用して「邪馬台国」とされています。岩波文庫の「魏志倭人伝」(和田・石原編)においても、本文では「邪馬壹国」とするものの注記で「壹は臺の誤り」とするだけで、何故なのかその理由はありません。
古田先生がこの改訂を遡って調べられたところ、江戸時代の松下見林という人が「異称日本伝」に引いた「後漢書」を解説した箇所において「いま按ずるに、邪馬臺国は大和国なり。…邪馬臺は大和の和訓なり」といったことが始めだったそうです。見林は、「古より倭王(天皇)は、大和で治められた」というイデオロギー皇国史観によって「魏志倭人伝」の「邪馬壹国」を捨て、「臺」が「と」と読めるのかどうか検証もせず強引に「後漢書」の「邪馬臺国」を採ったのです。確かに「後漢書」(宋の范曄が426年ころ著した)は、一般的な倭国の解説には「魏志倭人伝」を五世紀の知識で修正しながら使っています。その一つに、「魏志倭人伝」では王のいる国は女王のいる「邪馬壹国」と女王国に属している「伊都国」の二ヶ国だったのですが、五世紀では多くの王がいたらしく「(三十許国の)国、みな王を称し、世々統を伝ふ。その大倭王は、邪馬臺国に居す」とあります。范曄のいわゆる「地の文(解説文)」の中なのです。年代つき文では、前に紹介しました57年及び107年の記事がありますね。
そして後に新井白石は、この「やまと」という改訂に追従し、「やまと」といえば筑後にも「山門」がある…、といって九州説の先駆けとなりました。そしてこれまで、大体京大系の先生方は「大和説」、東大系は「九州説」として論争されているのだそうです。しかし肝心要の「魏志倭人伝」の「邪馬壹国」を捨て去った論争なんて、なんだか相撲をボクシングのマットの上で取っている…という感じがしませんか。ちぐはぐなのです。
それ以降、それぞれの説に有利になるように「倭人伝」の原文を書き換えて説明されるのです。江戸時代の見林や白石はまあよし…としましょう。しかし現代の学者先生までも、ろくな検証もせずに「やまと」と唱えられているのは…ねぇ(因みに代用した「台」は「と」と読めます。しかし…ねぇ)。隔靴掻痒になるはずです。
三世紀では「邪馬壹国」、五世紀およびそれ以降は「邪馬臺国」…これが真相でしょう。ことほど左様に皇国史観に寄りかかった「邪馬臺は大和の和訓なり」を金科玉条として、古田先生の言われる「魏志倭人伝の共同改訂」があります。それをすこし紹介しましょう。

 どの説の学者も「ここは原文の誤り」としている箇所、定説化している改訂は三ヶ所あるといわれます。
第一は地名記事で、「その道里を計るに、まさに会稽東治の東にあるべし。」にある「東治(とうち)」は「東冶(とうや)」の間違い…というものです。
第二は貢献年代で、「景初二年六月、倭の女王、大夫難升米を遣わし、郡に詣(いた)り、天子に詣りて朝献せんことを求む。」の「景初二年」が「景初三年」の誤り…とするものです。
第三は国名記事で、「始めて一海を度(わた)る、千余里。対海国に至る。…名づけて瀚海(かんかい)といふ。一大国に至る。」の「対海国」は「対馬国」の、そして「一大国」は「一支国」の誤り…というのです。
どうでもいいような誤りに見えますが、古田先生は「文献批判の方法が問題であって、これを放っておいて「倭人伝は誤りが多い」というレッテルを貼られれば、学者がいっせいに自説に都合のいいように原文をいじくり廻しはじめる…これが怖いのだ」といわれます。さて先生はどのようにして「これらの改定は、非」と論証されたのでしょう。次回はそれを見てみましょう。