やさしい古代史

古田武彦氏の仮説に基づいて、もやのかかったような古代史を解きほぐしていこうというものです。

番外編(20)

2007-07-30 16:01:08 | 古代史
人麻呂作歌:万葉36-39番歌(その二)

 それでは、疑問点・問題点を一つ一つ解きほぐしていきましょう。古田先生の著書、「壬申大乱」によります(ほとんどわたしの意訳ですが…)。

1)この持統天皇が御幸されたという「吉野」はどこでしょうか。「当然それは、大和の"吉野"だろう。通説では、誰もがそれを疑ってはいないからな」「しかも吉野川のそばに"宮瀧”という所があり、そのむかし”宮”があったということを聞いたぞ」…。これが当然の理解ですね。
しかし書紀における”亡くなった夫である天武天皇を慕っての三十一回にわたる「天皇、吉野宮に幸(いでま)す」記事”は、”九州王朝衰退への道(3)”において解説しましたように、「九州王朝の天子の”白村江の戦い”前の肥前吉野新北の津への軍船建造の視察・進水式への出席・軍船と兵士の閲兵」…と。あの「三十四年のズレ」によって、持統紀の年代を三十四年前にもっていったときの解釈が、三十一回の吉野幸に最も納得がいく説明が得られた…ということでしたね。
ですからこの問いに対する答えは、”肥前吉野”である…ということです。「吉野ヶ里」はご存知ですよね。「里」は条里制の名残だということも…。佐賀市内にも”兵庫町吉野”という字(あざ)もありますし、佐賀市内を貫通する嘉瀬川の上流には「吉野山キャンプ場」もあるそうです。因みにこの嘉瀬川はいまでこそ下流は南流して直接有明海に注いでいますが、江戸時代の治水前までは東流して筑後川に合流していたそうです。ですから普段は穏やかな流れでしょうが、大雨が降ればすぐ堤防を越えて佐賀の城下は水浸し…というありさまだったようです。また太宰管内志によれば、杵島郡蔵王権現の項に”木庭吉野御嶺”もある…と。つまり、肥前は「吉野」だらけ…。
なお”和名抄”によれば、「肥前国神崎郡宮処(みやどころ)」とありまた”肥前国風土記”にも「宮処(みやこ)の郷。郡の西南の方にあり」とあるそうです。まさに「吉野の宮」でしょうね。

2)では次に「吉野の川(37)」「吉野川(38)」です。上流に「吉野山キャンプ場」もあることから、いまの”嘉瀬川”でなないでしょうか。地図を準備願えませんか。出来れば、”10万分の1”の「九州自動車道」などがいいですね。佐賀市の西を流れる嘉瀬川を見てください。その長崎自動車道の北、景勝地の川上峡あたりから北です。嘉瀬川に沿って国道263号線が、東を通り福岡市へ向かっています。そして西岸には、嘉瀬川に沿うように国道323号線が走っていますね。
ではその上流より、下流に向かって323号線を辿ってみましょう。畑瀬から下った嘉瀬川は古湯温泉(富士町)を少し過ぎると、突然東に向かいます。名勝(雄淵・雌淵の)雄淵の瀧を右に見ながら東流し、鮎瀬を通り鮎瀬橋をくぐって湯の原へ来ます。この辺りは、北の小副川という地名から名づけられた小副川川と嘉瀬川がぶつかるところです。しばらく行って三反田あたりで、南流に変わる…。
因みにこの”雄淵の瀧”は高さが約75mもあり、直下する一大瀑流だそうです。大和吉野川にはない”瀧”が、ここ肥前吉野川には現存するのです。このあたりが「秋津の野辺に宮柱太敷き…水激つ瀧の都…」があったのでしょうか。そういえば古湯温泉のすこし北に、”御殿”なる地名も見えますが…。
また鮎瀬や鮎瀬橋の地名は、昔この辺りが”瀬・やなを利用した鮎(アユ)漁の場”であった名残でしょうね。「上つ瀬に鵜川を立ち 下つ瀬に小網さし渡す(38)」と詠われた所でしょうか。そして”川”の重複名を持つ小副川川は、字使いに優れた人麻呂によって「逝(ゆき)副う川の神も(38)」と歌い込まれたのではないか…といわれます。そしてまた、両川の合流地点である湯の原辺りの嘉瀬川の様子が、”激つ河内(38、39)”ではないか…とも。
わたしもいっぱしの古代史愛好家をきどって、三年ほど前嘉瀬川沿いに従兄弟と弥次喜多道中をしたことがあります。いまはえぐれて深くなっていましたけど、川幅はけっこうに…10-20mほどはあったのではないでしょうか。もしもっと川底が浅く水が豊かに流れているとすると、両岸の行き来には当然舟が必要でしょう。また上流より下流へ行くには、ゆったりとした流れに乗ったり、渦巻く波を乗り越えることもあっただろうと想像できました。そしてまた国道にのしかかってくるような周囲の山に、巨大な磐が緑の中から顔を覗かせていました。地震で一揺れしたら、ひとたまりもなく落石が起こる…(わたしの実見です)。

3)少し細部の検討です。(36歌)の最後は「瀧の都は見れど飽かぬかも」と詠まれていますが、元暦校本では「瀧之宮子波見礼跡不飽可問」ですね。この「宮子」を「都」としてきたのですが、古田先生は「字使いに秀でた人麻呂であるから、それは不当」とされました。人麻呂は「子」を以って、「太宰府のような大きな都にあらず、天子のとどまられるいおり(庵)・離れ屋・小さな離宮…」を連想させようとした…といわれます。確かに大和吉野川の「宮瀧」に宮があったとしても、肥前吉野川に「宮子」があったとしても、誰も”巨大な都”とは思いますまい。あるいは”避暑地の行宮(仮の宮)”であったかもしれません。
次に(38歌)の「高殿を高知りまして登り立ち国見をせせば…」です。これは”御殿”という意味ではなく、一種の”展望台”であろうといわれます。これに登って、周囲の景観や「上つ瀬に鵜川を立ち下つ瀬に小網さし渡す」”鮎漁”の様子をご覧になっているのだ…とされました。
同じ(38歌)にある「逝副川之…」は「行き沿う川の…」とも読まれていますが、これは「小副川川」が詠い込まれている…といいました。この「逝川」を「流れ去る川」の意味に使った例が、「論語」にあるそうです。孔子の言葉に「子(し)、”川上”にありて曰く、『逝く者は斯くの如きか。昼夜を舎(お)かず。』と」とあるそうで、論語の素養をベースにした詠い込み…という人麻呂の教養の一端に触れました。そしてこの論語を用いた真意は…?、”大王の舟”は「激つ河内に船出」をして、やがて下流の「川上」(いま川上峡がある)に到ることを暗示しているのではないか…と。

4)次は(38と39番歌)にある「(山川も)依りて仕ふる神の御代かも、依りて仕ふる神ながら…」の、「依りて仕ふる」問題です。前回を見てほしいのですが、新・旧大系本も小学館本も、いずれも「(山や川の神が)共にお仕えする(神にまします)天皇の(御代で…、御心のままに…)」と、”(持統)天皇を山・川の神の上位においた解釈!”をしています。これは小学館本の”解説”に、顕著に示されていました。しかしそれは上記の作歌場所を”大和枠内”から離脱しえない従来の学者、かつ(万葉235および241番歌)をなんら批判(決して非難にはあらず、歌の内容や時代背景を考慮した論証を言う)もせず受け入れた国学者、の解釈ではないでしょうか。
作歌場所を「肥前の吉野川」とすれば、どうなるでしょうか。「雄淵の瀧」の脇を登って瀧の最上段を越えたとき、眼前に”巨石郡”が出現するそうです(わたしは残念ながら登っていません。が、上記2)でも言いました)。これら巨石郡への信仰は、はるか縄文時代にまで遡るだろう…と。嘉瀬川(吉野川)とそれを取り巻く巨石を抱えた山々、これらは”大自然の神”に仕えている…。これら山や川の神々は、”大自然の神”に「依りて仕へ」ている…。これが人麻呂の自然観だ…と。
このような大自然の「姿」はいつからあるのか。当然「神の御代」である悠遠なる”古”から現代(7世紀)を通り、このあとも変わることはあるまい。――これが人麻呂の歴史観だ…と。
いまの”大王(大君)”は、ほんの一瞬だけこの地を支配しているに過ぎない…。だから(38歌)の「わご大君神ながら神さびせすと…」は、大君が「神である」ことを示しているのではない。逆に「神でない」こと、すなわち「人間である」ことを示している…と。これまでの学者は、この壮大なスケールの”視点”を見失っていたようです。”神でないから”こそ人間として、大君は「神の御代」のムードに触れるべくこの大自然の中にやってきたのだ…と。

5)同じく(38歌)の「(川の神も)大御食(おほみけ)に仕へ奉(まつ)ると」の「大御食」です。これは「大王の大御食」などではない。「大自然の中心の神」、言い換えれば「畳づく青垣山」に対する供え物である…と。「山自身を(大自然の)神とみなす」、古代の神の概念ですね。

 この四首には、「中心の神としての自然神(青垣山になぞらえた)」と「山や川の神」がいて、一瞬の支配者としての「わが大君」がいます。自然神に対し、山の神は春には花を秋にはもみじを奉り、川の神は自然神の食卓にアユを奉ります。
山や川の神が天皇に仕えていると解釈して、人麻呂を”超天皇主義者”に仕立てては決してならないのです。

 古田先生は、この四首にかかる”意味”を示していらっしゃいません。ですから上記の解説をもとにして、わたしの責任において”意味”を記してみます。うまく人麻呂の本意が伝わるかどうか、身の程知らずな大冒険です。皆さんが考えられる”意味”がよければ、そちらを採用…!?

(36番歌)わが大君がお治めになる天下(領地)に国は数多くあるが、山や川が清
  らかな谷間だとお心を寄せられた吉野の国の、秋津の野辺(嘉瀬川つまり吉野
  川河畔)にしっかりと行宮(仮の宮・離宮)をお建てになられた。そこで太宰
  府の大宮人らは船を並べて朝に川を渡り(宮に出仕なされ)、夕には競って舟
  でお帰りになる。この川の流れは(大君の御代と同じく)絶えることはなく、
  山は(御徳のように)高く、それらに囲まれた流れの激しい川を前にしたこの
  「瀧の離宮」は、いくら見ても見飽きることはない。
(37番歌)見飽きない吉野の川の常滑のように、またこの地へ還って来ていつも絶
  えることなく眺めていよう。

(38番歌)わが大君は、神のように神らしく振る舞ってみようと(自然の神に寄り
  添ってみたいとお思いになり)、吉野川の水が激しく流れるほとりに高い櫓
  (やぐら)を立てて眺めて見られると、幾重にも重なった青垣山の(自然の)
  神は春には花を秋にはもみじを(山の神に)捧げられ、流れ去る川の神も鵜追
  いや小網(さで)で獲ったアユを(自然の神に)奉っている。山の神も川の神
  も心から(自然の神に)お仕えしているさまは、あぁー、まさに神代の出来事
  だなぁ。
(39番歌)山や川の神もお仕えする自然の神のように、大君は激しく流れる川の中
  に舟遊びに船出をされることよ。(行き先は、”川上”だ。)

 うまく意味が通じますか。ではこの辺で…。

番外編(19)

2007-07-26 19:29:07 | 古代史
人麻呂作歌:万葉36-39番歌(その一)

 しばらくお目にかかれませんでした。いえサボりではなく、柿本朝臣人麻呂の歌で表題と歌の内容が合わないのがもっとあったはずだ…と探していたのです。古田先生の著書「人麿の運命」でもなく、「古代史の十字路―万葉批判」でもない…。
わたしの本棚にある著書で、人麿について書いてあったなぁ…という記憶を頼りに、片っ端から探しました。諦めてプララのブログに書いている物語「瀛(大海人)の皇子」で少し調べることがあったので(このブログは書き溜めていた物語を引き写しているので、めったに調べることはないのです)、「壬申大乱」(東洋書林、2001.10)を手に取ったところ、何とこの著書にありました!
で、もう一度読み込みましたので、再開します。

 結論から言えば、九州王朝の存在を抜きにしては理解できない…歌です。通説と比較しながら、古田先生の論証の跡を紹介しましょう。以下の四首は、広野姫(大海人・天武の妃、持統と諡)の時代におかれてあります。

 通説は、「壬申大乱」中の旧大系本、わたしの持つ新大系本(いずれも岩波書店(新)日本古典文学大系)および小学館本(小学館日本古典文学全集)とします。

元暦校本:幸于吉野宮之時柿本朝臣人麻呂作歌
    八隅知之 吾大王之 所聞食 天下尓 国者思毛 澤二雖有
       山川之 清河内跡 御心乎 吉野乃国之 花散相
       秋津乃野辺尓 宮柱 太敷座波 百磯城乃 大宮人者 船並弖
       旦川渡 舟競 夕河渡 此川乃 絶事奈久 此山乃
       弥高思良珠 水激 瀧之宮子波 見礼跡 不飽可問  (36番歌)        ―反歌―
    雖見飽奴 吉野乃河之 常滑乃 絶事無久 復還見牟    (37番歌)

    安見知之 吾大王 神長柄 神佐備世須登 芳野川 多芸津河内尓 
       高殿乎 高知座而 上立 国見乎為勢婆 畳有 青垣山
       山神乃 奉御調等 春部者 花挿頭持 秋立者 黄葉頭刺理 
       逝副川之 神母 大御食尓 仕奉等 上瀬尓 鵜川乎立 
       下瀬尓 小網刺渡 山川母 依弖奉流 神乃御代鴨  (38番歌)        ―反歌―
    山川毛 因而奉流 神長柄 多芸津河内尓 船出為加母   (39番歌)
これらの歌は、番外編(17)で紹介しました「万葉29、30および31番歌のあとにあります。これらも意味深な歌でしたね。さて、今回はどうでしょうか。

通説:上記
  表題:吉野宮に幸(いでま)しし時、柿本朝臣人麻呂の作る歌
  読み:旧大系本により、相違がある場合に( )内に新大系本また小学館本
     を記す。また( )には、カナ遣いも記す。
    (36)やすみしし わご(が)大君の 聞こしめ(を)す 天の下に
       国はしも 多(さは)にあれど 山川の 清き河内(かふち)と
       御心を 吉野の国の 花散(ぢ)らふ 秋津の野辺に 宮柱
       太敷きませば 百磯城(ももしき)の 大宮人は 船並(な)めて
       朝川渡り 舟競(きほ)い 夕河渡る この川の
       絶ゆることなく この山の いや高知らす 水(みな)激(たぎ)
       つ(そそぐ) 瀧の都(みやこ)は 見れど飽かぬかも
    (37)見れど飽かぬ 吉野の河(川)の 常滑(とこなめ)の
       絶ゆることなく また還(かへ)り見む

    (38)やすみしし わご(が)大君 神ながら 神さびせすと
       吉野川 激(たぎ)つ河内に 高殿を 高知りまして 登り立ち
       国見をせせば 畳(たたな)づく(はる) 青垣山
       山神(やまつみ)の 奉(まつ)る御調(みつき)と 
       春べは(じぇには) 花かざし持ち 秋立てば
       黄葉(もみぢ)かざせり 逝き副ふ(行き沿う) 川の神も
       大御食(おほみけ)に 仕え奉ると 上つ瀬に 鵜(う)川を立ち
       下つ瀬に 小網(さで)さし渡す 山川も 依(よ)りて仕ふる
       神の御代かも
    (39)山川も 依りて仕ふる 神ながら たぎつ河内に 舟出せすかも

  意味:(旧大系)(39)山も川もあい寄ってお仕えする神にまします大君は、
        水のたぎち流れる吉野川の深い淵に船出あそばすことである。

     (新大系)(36)(やすみしし)わが大君がお治めになる天の下に国は
        数多くあるが、山や川の清らかな河畔の地として(御心を)吉野
        の国の(花散らふ)秋津の野辺に宮柱を太く宮殿をお建てになっ
        たので、(ももしきの)大宮人たちは舟を並べて朝の川を渡り、
        舟を競って夕べの川を渡る。この川のように絶えることなく、こ
        の山のようにいよいよ高くお治めになる(水そそぐ)瀧の離宮は
        いくら見ても見飽きることはない。
          (37)見ても飽きることのない吉野川の常滑のように、常に
        絶えることなくまたこの地に帰って来て見よう。

          (38)(やすみしし)わが大君が、神の御心まかせに、神ら
        しく振る舞われるべく吉野川の水が激しく流れる河の内に高殿を
        高くお作りになり、登り立って国見をなさると、幾重にも重なる
        青垣のような山々は、山の神が奉る貢物として、春には花を髪に
        挿し秋になるともみじをかざしている。離宮に沿って流れる川の
        神も大君の贄(にえ)にご奉仕しようと、上流の瀬で鵜川狩(う
        かわかり)をし、下流の瀬に小網(さで)を張り拡げる。山神も
        川神も心から服従してお仕えする、神の御代であるよ。
          (39)山川の神も臣従する神の御心のままに、大君は激流の
        中に船出をなされる。

     (小学館)(36)(やすみしし)わが大君がお治めになる天下に国はた
        くさんある中で、特に山も川も清い谷間だとして(御心を)吉野
        の国の(花散らふ)秋津の野辺に、宮殿の柱をしっかりと建てら
        れたので、(ももしきの)大宮人は舟を並べて朝の川を渡り、舟
        を漕ぎ競って夕べの川を渡る。この川のようにいつまでも絶える
        ことなく、この山のようにいよいよ高くお作りになった水流の激
        しい瀧の離宮は、いくら見ても見飽きないことだ。
          (37)見飽きない吉野の川の常滑のように、絶えることなく
        また立ち返ってみてみよう。

          (38)(やすみしし)わが大君が、神であるままに神らしく
        振る舞われるべく、吉野川の渦巻き流れる谷間に高殿を高々と建
        てられて、登り立ち国見をなさると、幾重にも重なった青垣山
        は、山の神が捧げる貢物はこれですと、春のころは頂に花を飾
        り、秋になると色づいた黄葉(もみじは)を飾っている。御殿に
        沿って流れる川の神もお食事に奉仕しようと、上の瀬で鵜川狩を
        催し、下の瀬に小網を張り構える。山や川の神までもこのように
        心服して仕えるさまは、これが神代というものであろうか。
          (39)山川の神も心服して仕える神であるままに、渦巻き流
        れる谷間で舟遊びをなさることだ。

  解説(抄録):(新大系)これらは、吉野(大和の吉野)讃歌であり、また天
        皇賛歌である。それにふさわしく「山川の清き河内」「御心を吉
        野の国の」「花散らふ秋津の野辺に」「宮柱太敷きませば」「水
        激つ(そそぐ)」など、賛辞に満ちている。離宮があるという
        「秋津の野辺」は未詳。「常滑」は常に滑らかな状態、またその
        岩。「山の神は春秋の花ともみじを奉り、川の神は鵜で捕った魚
        や小網で捕った魚を献上する」…と。この天皇讃歌という背景に
        は、書紀による持統の三十一回に及ぶ吉野幸(みゆき)がある…
        という。
     (小学館)古代の天皇は、山川などの自然神に対しても長くその下位に
        あったが、天武天皇のころから現人(あらひと)神として君臨
        し、自然神に対しても優位に立ってきた。この(38)の歌は、そ
        れらの自然神の奉仕ぶりを具体的に述べることによって、天皇権
        力の強大さをたたえた讃歌である。「河内(かはうち)」は、川
        上の谷あいの平地。「舟競ひ」は競争する意。「御調」の「調」
        は貢物。「鵜川を立ち」は、上流から鵜で魚を追わせる川漁。大
        和吉野川上流では、近年まで行われていた…という。「依りて仕
        ふる」は、帰順して・服従して仕える…の意。「神の御代かも」
        は、これぞ伝え聞く神の御代ではないかと天皇の威徳を称えたも
        の…と。

 いかがですか、皆さん。吉野讃歌、天皇讃歌…。(旧大系本による読み・解説は、『壬申大乱』にはほとんどありませんでした。)
しかし上記四首、特徴ある描写がありますね。これらは「吉野川」を特定し得る特色ある地形・情景だと思われます。いかが思われますか。
  (36):「舟並めて朝川渡り」「舟競ひ夕川渡る」。「瀧の都」
  (37):「吉野の川の常滑の」
  (38):「激つ河内に高殿を」「逝き副ふ(行き沿う)川の」「上つ瀬に鵜川
      を立ち」「山川も依りて仕ふる神」
  (39):「山川も依りて仕ふる神」「激つ河内に舟出せすかも」

 古田先生は当然、大和「吉野」を舞台とした歌…と思っておられたそうです。そこでさっそく吉野へ赴き、実地を見て歌の世界に浸りたい…と思われました。そこで四人の仲間と出かけられました。すると…、
1)何と、肝心の「瀧」がない! 上記「意味」でもあるように、「(水そそぐ)瀧
 の離宮」を、「吉野川の激しく流れる河内の(側の)高殿」を、「水流の激しい
 瀧の離宮」を、「吉野川の渦巻き流れる谷間の高殿」を…彷彿とさせるような
 「瀧」がなかった! いや、「宮瀧」という地名はあった。また高さ3mほどの
 「堰(せき)」はあった。しかしこれが「瀧」とは…。吉野歴史資料館の学芸員
 の方も、「瀧はないんです」といわれたとか…。
2)次に「大宮人が朝も夕も船で川を渡る」ほどの水域・川幅、「大君が激流の中
 を船出される」また「渦巻き流れる谷間で舟遊びをする」ほどの水域・川幅もな
 かった! 大和の吉野川は、そのような大きな川ではなかったのだ。宮瀧から車
 で15分くらいの上流に、「蜻蛉(せいれい)の瀧」はある。高さは45mくらいだ
 が、そうめんが落下しているような細い瀧だそうだ。瀧壷もなく、船出はとうて
 い無理…。状況が、歌の内容と合わない…。
3)「天武天皇のころから現人神として自然神に対し優位に立ってきた」という理
 解は、番外編(8、9)で紹介した"万葉235番、241番歌"(阿諛追従の歌と理解さ
 れる)を無批判に信じているから!ではないのか。しかしわたしたちはいま、そ
 の呪縛から解き放された自由の身なのだから…。
4)「山川も依りて仕ふる神…」を、上記を踏まえ「山川の自然神が、服従・心服
 して仕えている神(すなわち天皇)…」と理解できるのか。人麻呂は、ここでも
 「あなたさまは(自然神をも超える)現人神であらせられ…」と追従しているの
 だろうか。人麻呂はそのような「超天皇主義者」だったのか。しかし235番およ
 び241番歌から導かれたことは、「人麻呂は決してそのような歌人ではない」と
 いうことではなかったか。

 さてこのような疑問を、先生はどのように解きほぐされたのでしょうか。この続きは次回で…。

番外編(18)

2007-07-16 21:15:38 | 古代史
 番外編(2)で紹介しました「天の原振り放け見れば春日なる…」の歌(阿倍仲麻呂、古今和歌集)のもととなった歌が、万葉集にあるそうです。
阿倍仲麻呂を紹介しました時、仲麻呂は太宰府で生まれ育った…と、衝撃的な結論に行かざるを得ないことも申しましたね。

 さっそくいってみましょう。
万葉巻二、147番歌です。

元暦校本:近江大津宮御宇天皇代 天命開別天皇諡曰天智天皇
      天皇聖躬不豫之時太后奉御歌一首
     天原 振放見者 大王之
       御壽者長久 天足有              (147番歌)
      一書曰近江天皇聖躰不豫御病急時太后奉献御歌一首

通説:旧大系本、新大系本、小学館本による
  表題:近江大津宮に天の下知らしめしし天皇の代
          天命開別天皇、諡して天智天皇という
      天皇聖躬不豫(みやまひ)の時、太后の奉る御歌一首
   (後書)一書に曰、近江天皇の聖躰不豫(みやまひ)したまひて御病急(み
       やまひにはか)なる時、太后の奉献’たてまつ)る御歌一首
  読み:天の原 振り放(さ)け見れば 大君の
       御壽(みいのち)は長く 天(あま)足(た)らしたり
  意味:(旧大系)大空を仰いでみれば、大君の御命は長久に、天いっぱいに
          満ち満ちている。
     (新大系)大空を振り仰いで見ると、大君のお命は永久に、長く大空に
          満ち溢れております。
     (小学館)大空を振り仰いで見ると、大君のお命はとこしえに長く、
          空に満ち満ちている。
  解説:(新大系)天皇の平癒を祈念し、「御寿長久」と寿命の永遠性を予祝し
          た歌。太后は皇后倭姫王。
     (小学館)"天の原"は大空。"振り放け見る"は振り仰いで遥かに眺めや
          ること。"天足したり"は空いっぱいに満ち満ちていらっしゃ
          る、天皇の命の長久を祈念する表現。

 古田先生は、明らかに表題(や後書き)の表す状況に、歌の内容はそぐわない(似つかわしくない)、ふさわしくない…といわれます。
皇后の倭姫が歌を捧げる当の本人の天智天皇が明日をも知れぬ身であるときに、「天の原振り放け見れば」などというあさってを向いたような歌を歌うだろうか。「急(にはか)に病になられた」時に「御命は長久に天に満ち満ちている」などのおべんちゃらが言えるものだろうか。いやこれは「天皇の命の長久を祈念する歌だ」といわれても、なんだかピンとこない…と。

 古田先生は、次のように考えられました。
1)前書き・後書きは第二史料だ。やはり「歌」本体で考えなければならない。しかし万葉集の場合、作られた「時代」は前書きなどの通りが多い。逆にいえば、万葉集の編集者は歌の作られた時代・時期を知っていて、それにふさわしい時代に当てはめ、また表題などをつけた可能性が高い。
2)よって「天智天皇の時代の作歌」とすれば、仲麻呂の論証からしてこの「天の原」は壱岐の北端部の地名であろう。そして動作方向は、博多湾岸から北上しているのだ。つまり、那の津を発って壱岐の北端部の「天の原」に来たとき、筑紫の方を振り返って歌を作ったのだ。
3)では何故「真の作歌者」は、このルートを通って北上しているのだろう。それは「天智の時代」であれば、「白村江の戦いへの出征」(する兵士)、それ以外にはない。再び祖国の土を踏めるのか…。いや、なかろう。
4)この兵士は、何を見たのだろうか。自分の故郷にある「長垂(ながたれ)山」だ(いま、糸島半島の東、今宿と下山門の間に「長垂トンネル」がある)。すぐ東の室見川の上流には、九州王朝の原点ともいうべき「吉武高木」陵墓がある。この陵墓に参拝した後、長垂山のある那の津より出航したのだ。そしてこの「長垂」を取り、「御寿は"長く" 天"足らしたり"」と詠み込んだのだ。
5)この兵士は「天の原」の地点で振り返ることによって、「天の原ではるばる(筑紫を)振り返ってみると、(わたしは死ぬでしょうが)長垂山の向こうに鎮まります代々の筑紫倭国の王者たちは、永遠のお命を保っておいでです。(筑紫王朝は、永遠に続きましょう)」と詠っているのだ。
6)時間的順序からして、阿倍仲麻呂はこの先行歌を知っていた! 作家者の名もわかっていたのかもしれない。だから遣唐使として派遣される時、壱岐の北端でこの歌を口ずさんだのかもしれない。そして明州での宴で、筑紫の春日山(宝満山)から出る月を歌おうとしたとき、自然に「天の原振りさけ見れば…」の上の句が浮かんだのだ。仲麻呂が知っていたことから、147番歌の作歌者は筑紫倭国の兵士である。本当は、証明の方向は逆かもしれないが…。
7)仲麻呂の時代、もう筑紫王朝は亡んでいた。でも「天の原…」の意味合いは同じだったろう。先人は戦から帰れないかもしれない…、仲麻呂は遣唐使として無地帰国できる保証はない…。

 いかがでしたか、先生の論証は。この147番歌もまた、大和王朝に先行した筑紫王朝の存在抜きには理解できない歌でしたね。
なお、「天の原」の用例を調べられた結果、
A)「天の原」=「天空 sky」とみられる場合
    (巻三)  289、317番歌
    (巻十)  2068番歌
    (巻十三) 3324番歌
    (巻十八) 4125番歌
B)「天の原」=「壱岐の北端部(地名)」と考えられる場合、
    (巻二)  147番歌 (通説ではA)だが、上記論証により)
    (巻十三) 3280番歌
    (巻十五) 3662番歌
    (巻十九) 4160番歌)
皆さん、ご自分の目で確かめられるのも一興ですね。

 これを記している時、三年前に続いて新潟地方に地震が襲ったというニュースを聞きました。本当にお気の毒です。力仕事はできませんので、わずかなお金ですが寄付をさせていただきたいと考えています。
どうか気持ちを強くお持ちになられて、復旧にがんばってください。

 しばらくこのブログを休みます。いや、閉鎖ではありません。また気が向いたとき、再開いたすつもりです。
皆さん、長い間有難うございました。しばしのお別れです。

番外編(17)

2007-07-12 14:28:38 | 古代史
 これまでの番外編(2)から(16)まで(ただし<人麻呂、終焉の地>四回を除いて)、九州王朝の存在を前提にしなけれは理解しがたい歌を紹介してきました。しかし「歌の聖」といわれる人麻呂の歌は、他にも多くあります。
今回はまず、万葉集に初出といわれる長歌および反歌二首を紹介しましょう。もちろん古田先生の著書「人麿の運命」をもとにして、先生の思考理路の通り紹介します。その方がよく歌が理解できる…と、わたしは思うからです。

 「第一章 近江のまぼろし」と題され、まずは反歌から入られました。
今回は、元暦校本による「原歌」は省きます。ご了承ください。

通説:読みは「人麿の運命」に引かれた「旧大系本」による。意味・解説は、
   「小学館本」も採用した。
  読み:ささなみ(楽浪)の 志賀の辛崎 幸(さき)くあれど
       大宮人の 舟待ちかねつ          (反歌30番歌)
  意味:ささなみの志賀の辛崎は昔と変わらずあるが、昔の大宮人の舟は
     いくら待っていても来ない。(段の取り消し、句読点は筆者)
  解説:幸くあれど…変わらずそのままにあるが。大宮人…近江京の官人。
     待ちかねつ…待ち望んでいるが叶えられそうにない。

 天智天皇のおいた近江京の官人らは、確かに「志賀の辛崎」から舟遊びしたことはあったろう。しかし、何かがおかしい。「幸くあれど」…"志賀の辛崎のほうは幸いだった、いまもそうだ。しかし一方、大宮人は(…幸せではない)"、そう歌っているのだ。地形そのものに「孝・不幸」はない。「変・不変」があるだけだ。しかしその「不変」を「孝」として(人麻呂は)捉えている。だが大宮人のほうは、「変」であり「不幸」だった…と。そして「舟待ちかねつ」。近江京の舟遊びで、"戻って来なかった人"はいるのか。天智天皇は近江京で大往生したことは書紀に明記してあり、みな楽しく舟遊びして戻っているのだ。この史実と歌の内容が合わない。変だ…。古田先生はこう自問されます。

通説:同上
  読み:ささなみの 志賀の大わだ 淀(よど)むとも
       昔の人に またも逢はめやも        (反歌31番歌)
  意味:ささなみの志賀の大わだはこのように淀んでいても、昔の人にまた
     逢えようか(逢えはしない)。
  解説:大わだ…ワダは入り江などの湾曲部。淀むとも…大宮人に逢いたそ
     うにいま淀んでいる、たとえこのまま淀んでいるとしても。昔の人
     …近江京時代の大宮人。

 琵琶湖の西端、大津を囲む湾、それはいまも淀んでいる。そこから「淀川」は発している。だが、人麿が逢いたいという「昔の人」とは誰だろう。
船出したままついに戻らなかった大宮人、逢いたいけれど逢えない「昔の人」とは誰だろう、肝心の「昔」とはいつなのだろう。
古田先生の頭には、次々と疑問が生じました。そのモヤが晴れ始めたのは、その前にある長歌からだったそうです。見てみましょう。

通説:同上
  表題:近江の荒れたる都を過ぐる時、柿本朝臣人麻呂の作る歌
  読み:玉だすき 畝傍の山の 橿原の 日知りの御世ゆ 生れましし
     神のことごと つがの木の いやつぎつぎに 天(あめ)の下
     知らしめししを 天(そら)にみつ 大和を置きて あをによし
     奈良山を越え いかさまに 思ほしめせか 天離(あまざか)る
     夷(ひな)にはあれど 石走(いはばし)る 淡海(あふみ)の
     国の 楽浪(ささなみ)の 大津の宮に 天の下
     知らしめしけむ 天皇(すめろき)の 神の尊の 大宮は
     ここと聞けども 大殿は ここと言えども 春草の 繁(しげ)く
     生(お)ひたる 霞たち 春日の霧(き)れる ももしきの
     大宮処(どころ) 見れば悲しも       (長歌29番歌)
  意味(旧大系本):神武天皇の御世以来お生まれになった天皇のすべてが、
     次々と天下をお治めになった大和の国をすてて奈良山を越え、何と
     お思いになったからか(小学館:どのように思われたのか)、田舎
     ではあるが、近江の国の大津の宮で天下をお治めになったという
     天智天皇の皇居は、ここと聞くけれど、御殿はここだというけれど
     いまは春草が繁く伸びている、霞が立って春の日ざしがにぶくかす
     んでいる、この大宮の跡を見れば心悲しい。
  解説:日知りの御世ゆ…神武天皇の御世以来。つがの木…類音によって
     ツギを起こす枕詞。置きて…捨てて。天皇の神の尊…スメロキは歴
     代天皇の尊称、ここは天智天皇。霧れる…おぼろげにかすんで。

 どの本を見ても大同小異で、「神武天皇以来、代々の天皇の都は大和にあった。それなのになぜか(第三十八代の)天智天皇は、この近江へ都を移された。」と述べた後、「天智天皇が亡くなられた後の"壬申の乱(672年)"による都の荒廃、近江京の廃滅を歌った悲歌だ」というのである。
 古田先生はこういわれます。江戸時代から現代まで、「天智の建てた近江の都の荒廃を悲しむ歌」だと理解されてきたのです。
このブログではスルーしたのですが、天武紀の上巻は、ご承知のように、こと細かに真夏に起こった「壬申の乱」といわれる内乱を扱っています。葛城皇子(天智)の死後子の大友皇子(即位したはずとして、明治に弘文と諡)に対し、(天智の弟といわれている)大海人皇子(天武)が反乱を起こした事件です。結局反乱軍が勝ち、人麿が活躍している現在、天皇鸕野(うの)姫(持統)は大海人の妃なのです。このような時代背景をご承知ください。
  なお「九州王朝衰退への道(6)」において、壬申の乱に活躍した天武の子
  高市皇子に捧げる挽歌だという人麿の"万葉199番歌"を紹介しました。しか
  しこの歌は、「冬から早春にかけて戦った冬の陸戦」の歌の換骨奪胎でした
  が…。

 本当に神武から天智まで、代々都は「大和」にあったのでしょうか。古田先生は「否(ノン)」といわれます。
現在の皇室の直接の祖継体天皇は、「山背の筒城」や「弟国」など転々としましたね。さらに遡れば、仁徳天皇は「難波」に都していました。それに何より、天智天皇の皇太子時代、孝徳天皇もまた「難波」に都をおいていました。ですから、歌の内容と史実が合わない…と、古田先生はいわれます。

 では神武天皇からいつのころまで、大和に都があり続けたのか…。先生は言われます。「代々の大和から近江へ」、このルートで遷都した天皇は、第十二代の景行天皇だけだ…と。
<五十八年の春二月…、近江国に幸して、志賀に居すること、三歳。これを高穴穂宮という。六十年の冬十一月…、天皇、高穴穂宮に崩ず。>(景行紀)
そして景行天皇のあと、成務天皇、仲哀天皇と高穴穂にて治められた…と。これを「第一次近江京」とすると、天智天皇の近江京は「第二次近江京」ということになりますね。ではこの三代続く「第一次近江京」で、「戻って来なかった大宮人」の悲劇はあったのか…。先生は「あった」といわれます。

 仲哀天皇は正妻の大中津姫と皇子の香坂(かごさか)王・忍熊(おしく)王を近江に残し、若い息長帯比売(おきながたらしひめ。神功皇后)を伴なって筑紫へ遠征し、その地に没した…と書紀は伝えます。そして筑紫で生まれた品陀和気(ほむたわけ。応神天皇)と帯比売が、近江の香坂王・忍熊王に反乱をします。権力の正統性からいえば近江朝の二皇子にあり、筑紫から来る品陀和気側にはありません。近江側の参謀は五十狭茅宿禰(いさちのすくね)、筑紫側には竹内宿禰がつき、権力の保持と奪取をかけて古の「天下分け目」の合戦が始まったのです。
その合戦の地は、「沙沙那美(ささなみ。記)、狭狭浪栗林(ささなみのくるす。紀)」であったと伝えています。
 そして竹内宿禰のだまし討ちに遭って、近江軍は敗走しました。近江軍は大津に集結し、船で近江京へ渡ろうとしました。しかし武運つたなく、忍熊王も五十狭茅宿禰も、多くの兵士らとともに琵琶湖の湖底に沈みました。
 
 しかし竹内宿禰は、事の成り行きに満足しなかったのです。
<淡海の海 瀬田の済(わたり)に 潜(かづ)く鳥
   目にし見えねば 憤(いきどほろ)しも>(神功紀摂政元年)
屍(しかばね)を目で確かめなければ安心できない…、執念深い悪鬼のような形相が見える…、先生はそういわれます。自分のほうが反乱軍だから、忍熊王がもし生きていたら…と恐怖に駆られたのでしょう。でもツキは、品陀和気軍のほうにありました。

<淡海の海 瀬田の済に 潜く鳥 
   田上(たなかみ)過ぎて 菟道(うじ)に捕へつ>(同上)
「而して後に、日経て菟道河に出づ。」のあとに、上の歌があります。まさに、あくなき執念! 第一次近江京は、四代目忍熊天皇で亡んだのです。忍熊天皇と近江京の大宮人らは、湖底に沈んで消え去ったのです。

 しかし第二次近江京の大友皇子は…、「山で首をくくった」のでした。
<ここに大友皇子、走りて入らむ所無し。すなわち還りて、山前(やまさき)に隠れて自ら縊(くび)れぬ。>(天武紀元年七月条)

 どちらが人麿の歌の内容に合致しているでしょうか。通説のごとく「第二次近江京の悲劇」なのか、先生のいわれる「第一次近江京の悲劇」なのか…。当然、「第一次…」のほうですよね。ですから先生は、「これほど明確な差異に気づかず、ひたすら後者(筆者注:第二次近江京の大友皇子の自縊(じい)のこと)として解説し続けてきたとは、わたしにはどうにも信じがたい思いだったのである。」といわれます。

 人麻呂に、「柿本朝臣人麻呂、近江国より上り来るとき、宇治河の辺に至りて作る歌一首」という表題を持つ歌があるそうです。
通説:「人麿の運命」に引く旧大系本、および小学館本も参照。
  読み:もののふの 八十氏河(やそうじかわ)の 網代木(あじろぎ)に
       いさよふ波の 行く方(へ)知らずも  (264番歌)
  意味:(旧大系)宇治川の網代木に、流れ来て漂い停滞する川波のように、
       何処へ行ってよいかわからない。どうしてよいかわからないこ
       とである。
     (小学館)(もののふの)八十宇治川の網代木の周りにためらって
       いる波の、行方もわからないことだ。
  解説:(旧大系)この歌、古来無常を詠んだ歌とされ、また"いさよう"と
       見えた波の行方が知れずになることを詠嘆していると見る説も
       ある。
     (小学館)作者は眼前の実景を述べてだけで、必ずしも仏教的な無
       常観を詠んだとはいえない。もののふの…八十ウジの枕詞、朝
       廷に仕える文武百官が多くの部族に分かれているところから支
       流の多い八十宇治川にかかる。

 無常観を詠んだのか単に実景を述べただけか…、しかし古田先生は「何か変だ」と思っておられたそうです。そんな薄っぺらな歌か…と。
しかし人麿の「29、30、31番歌」を探求されていた時、「これは、忍熊天皇を弔う歌だ!」と思われたそうです。忍熊天皇の屍は、目の前にあるこのような網代木に絡み付いて漂っていたのではないか…、人麿はそう思ったはずだ…と。そしてこの歌を詠んだ…。
それなのに後代の万葉注解者は、この著名な歴史上の事件からこの歌を切り離し、抽象的な「無常観」やその他のくさぐさの解説を行ってきたのだった。古田先生はそういって嘆かれました。――ここでもまた。…と。
そしてまた八十宇治川の枕詞といわれる「もののふ」、これはずばり宇治川を挟んで対峙した忍熊軍と品陀和気軍の「兵士」…だったのです。この歌はやはり、忍熊軍が敗走したあの宇治川の戦いを、読者に想起させようとしているのです。

 次に、戦場となった「沙沙那美(ささなみ)」について考えてみましょう。
<故逢坂(あふさか)に逃げ退きて、対(むか)ひ立ちてまた戦いき。ここに追い迫(せ)めて沙沙那美に敗り、悉くにその軍(いくさ)を斬りき。>(仲哀記)
岩波古事記には、「沙沙那美は近江国の地名。逢坂は山城と近江の境の逢坂山」とあるそうです。次は書紀、
<(忍熊王は)兵を曵きてやや退く。竹内宿禰、精兵を出して追う。たまたま逢坂に遇ひて破りつ。…軍衆走る。狭狭浪(ささなみ)の栗林(くるす)に及びて多(さわ)に斬りつ。ここに、血流れて栗林に溢(つ)く(あふれる)。故このことを悪(にく)みて、いまに至るまでにその栗林の菓(このみ)を御所(おもの)に進ぜず。…>(神功紀摂政六年三月条)
その後、忍熊王は瀬田の済(わたり)に投身し、湖底に沈みました。
 これではっきりすること、それは「ささなみ(沙沙那美、狭狭浪)」といえば、古戦場だった…ことです。「関が原」といえば天下分け目の古戦場…、「広島、長崎」といえば原爆投下…、「ささなみ」といえば「第一次近江朝の滅亡の地」…その伝承の地となり想起するようになったのです。上記の文「故このことを悪みて、いまに至るまでにその栗林の菓を御所にせず」は、八世紀になっても「あそこの果実は進上物にしてはならぬ。何しろ、第一次近江朝の敗れた人たちの血をすすって生長した樹木、その呪われた果実なのだから」と言い伝えられていたことを示します。いわんや人麻呂に生きた七世紀後半においてをや…。

 そう理解された時、前に戻って「30、31番歌」を見てください。
二首とも「ささなみ」で始まっているではないか。当時これを見て、「第一次近江朝の滅亡、忍熊王らの敗死」を思わない人はいなかったのではないか。長歌には「楽浪」と書いて「ささなみ」と読ませているところがある。人麿ほどの字の使い方がうまい人は、「楽しい浪」が「悲しい浪」に変わったのだ…と言いたかったのではないか。こう、古田先生はいわれます。

 一つなぞが解けると、次々ともやが晴れていく、…先生はこういわれ次の歌を示されます。二つ後の歌、「柿本朝臣人麻呂の歌一首」という簡単な表題の歌です。
通説:「人麿の運命」の中の旧大系本、および小学館本。
  読み:淡海(あふみ)の海 夕波千鳥 汝(な)が鳴けば
       情(こころ)もしのに 古(いにしへ)思ほゆ (266番歌)
  意味:(旧大系)近江の海の夕波に飛ぶ千鳥よ、お前が鳴くと心もうちな
        びいて、しみじみと昔のことが思われることだ。
     (小学館)近江の海の夕波千鳥よ、お前が鳴くと心も打ちひしがれ
        て、昔が偲ばれる。
  解説:(旧大系)古思ほゆ…いまは廃墟となっているが、壮麗な御殿の
        あった天智天皇の都の時代が思われる。
     (小学館)夕波千鳥…夕べの波の間を鳴いて飛ぶ千鳥よ。心もしの
        に…シノニはぐったりして力の抜けたような感じを表す(新
        大系:心も萎えるばかりに)。古思ほゆ…天智天皇の都が
        あった近江朝時代のことが思われる。

 ここでいう「古」とはいつのころだろう。原字もずばり「古」であり、「往方」や「以爾之辺」などではない…と。天智天皇の時代といえば、人麿の少年時代あるいは青年時代に当たっているようです。ほんの三、四十年前のことを「古」というのか。そのような時間差は「昔」ではあろうが、決して「古」ではない。古田先生はこのようにいわれます。
しかしいままでの論証で、私たちは理解しました。「古思ほゆ」とは、「第一次近江朝の滅亡、忍熊王らの入水自殺の悲劇」…このことが思われるのだ…と。
この歌は人麻呂屈指の名歌…だそうですが、先生の解釈によれば、湖畔にたたずむ人麿に会えそうな気がします。

 さて、本題「29、30および31番歌」に戻りましょう。そして「264および266番歌」…も。これらの歌は、「第一次近江朝の滅亡、忍熊王らの悲劇」を背景にしてこそ、人麿の心情がよく理解でき、さすが名歌だ…と膝をたたくことができました。
先生はいわれます。
これらの歌は「第一次近江朝の歌」である。そしてここから新たな問いが始まるのだ…。これら歌の"裏側"に隠れているものは、「第二次近江朝の滅亡、大友皇子の悲劇」ではないか…。単に通説に立ち返るのではない。考えても見るがよい。人麿の活躍した時代は、天武・持統の時代だ。第二次近江朝に反乱し、大友皇子を自決に追い込み、まさに勝った側の王朝だ…。どうしてあからさまに「第二近江朝の滅亡、大友皇子の悲劇」を歌えようか…。
しかし人麿が読者に「期待」したもの、それは「大友皇子の悲劇」へと人々の心を導くことだった…。しかし「直接」には出来ない…。だからこそ表面上は酷似した"歴史上の事件"を扱い、奥底では「現代の悲劇」の悼みへと人々の心を誘う、そこにあったのだ…。
この長歌の内蔵する「二重構造」、それはまことに危険な毒を含んでいた。当代の権力者側の視点"から"ではなく、「亡ぼされた人々」の"ため"の哀歌であったこと、その一点にこの「二重構造」の持つ真の秘密が隠されていた。人麿の生涯を導いた運命、それはこの一点から始まり、この一点に帰着する。読者はこの本の最終章を読み終えたとき、真相を知悉するだろう。その深い意味をありありと、如実に知ることであろう。
先生は、こう結ばれました。("新たな謎"という段は、省略しました。)

 いかがでしたか。人麿の本当の"すごさ"…。字使い、連想、二重構造…。確かに人麻呂は、「歌の聖」ですね。通説のような表面だけの解釈では味わえない、古田流解釈でしたね。

番外編(16)

2007-07-08 21:38:46 | 古代史
<いづこなる「遠の朝庭」>

 古田先生の「人麿の運命」によれば、万葉集には「遠の朝庭(とほのみかど)」と読める文言を持つ歌が六例あるそうです。いや、たった六例しかない…といわれます。
通説では「都から遠く離れた朝廷…」ということで、「岩波書店新日本古典文学大系万葉集」によれば、実際は「太宰府や各国の国府などをいう」そうです。
しかし、本当にそうか。例えば宮城県の「多賀城」は「遠の朝庭」といわれたか、各地の国府がすべて「遠の朝庭」と呼ばれたか…といわれます。あるいは逆に「近つ朝庭」があるか…とも反問されます。そんなあちこちにあるようなべらぼうなことは聞いたこともない、私はまったく「否(ノン)」という…と。
では「遠の朝庭」はどこか…。六例を示し、先生の思考を辿りながら「遠の朝庭」の場所へとご案内いたしましょう。
なお「小学館本」とは、「小学館日本古典文学全集万葉集」をいいます。

1)まずは、柿本朝臣人麻呂の歌です。
元暦校本:柿本朝臣人麻呂下筑紫国時海路作家二首
     (一首目に303番歌がありこれも古田先生の解説は面白いのですが、
     今回は省きます。)
    :大王之 遠乃朝庭跡 蟻通
       嶋門乎見者 神代之所念      (万葉304番歌)
通説:新大系本、旧大系本、小学館本など
  表題:柿本朝臣人麻呂の筑紫国に下りし時に、海路にして作りし歌二首
  読み:大君(おほきみ)の 遠の朝庭と あり通う
       嶋門(しまと)を見れば 神代し思ほゆ
  新大系:大君の遠く離れた政庁へと行き通い続ける海峡を見ると、神代の
      昔が思われる。
  旧大系:都から遠くはなれた朝廷であるとして、人々が常に往来する瀬戸
      内海の島門を見ると、この島々の生み出された神代の国土創成の
      ころのことが思われることである。
  小学館:大君の 遠い役所として 通い続ける海峡を見ると 神代のこと
      が思い出される。
 他にも「有斐閣本」や澤潟久孝本などを紹介されていますが、解釈は大同小異のようです。「大王之遠乃朝庭」を、いずれも「大君の遠く離れた政庁・朝廷・役所」と解釈しています。すでに主権が大和に移った八世紀の歌ですから「筑紫に下る時」とありますが、筑紫に関連して用いられていることは確かでしょう。また「蟻通嶋門乎見者」を、「行き通い続ける海峡を見ると・人々が常に往来する瀬戸内海の島門を見ると・通い続ける海峡を見ると」としていて、「嶋門」の解釈に少し違いがあるようです。
新体系本によれば、「『嶋門』は島と陸地との間、島と島との間のような狭い瀬戸」とし、どうも「ここだ!」ということは無いようです。

 先生は、中国における「朝庭(朝廷)」の用法により、「朝庭」は「天子の居して天下に政を行うところ」である…といわれます。つまり「大王(大君)」は「天子」ではなく、すなわち「朝庭」は無いのだ…と。この歌における「大王」は持統天皇を指し、すなわち持統天皇は「天子」ではない…と。
筑紫には六世紀終盤あたりから「日出る処の天子多利思北孤」がおわし、代々太宰府の地で天下を統治された…。すなわち「九州王朝には『朝庭』があった…」と。だからどんなに学者が「朝庭とは遠い政庁」といっても、首を縦にふれないのだ…と。この理屈には納得がいきます。
なお「嶋門」について、通説では明石海峡・吉備の児島付近・関門海峡などの説があります。先生は博多湾岸の「志賀嶋と能古嶋の間」とされ、船路でいよいよ筑紫に上陸する時この両島を「門」として表現したのではないか…とされました。後の句の「神代し思ほゆ」という情景、つまり「国生み神話のおのごろ島」があり・近くに「イザナミの禊した小戸」があり・ニニギが「天孫降臨したクシフル岳」もある。私はこの説に納得しました。皆さんはどうでしょう。

2)次は山上憶良の歌…、長歌ですから関連あるところを示します。
元暦校本:日本挽歌一首
    :大王能 等保乃朝庭等 斯良農比
       筑紫国尓 泣子那須 …(後略)  (万葉749番歌)
通説:新大系本、小学館本による
  表題:日本語による挽歌一首
  読み:大君の 遠の朝庭と しらぬひ 
       筑紫の国に 泣く子なす …(後略)
  新大系:大君の遠い政庁として、(しらぬひ)筑紫の国に…(後略)
  小学館:大君の 遠い政庁として (しらぬひ)筑紫の国に…(後略)
 同じく、ここでも「筑紫国」に関連して「遠の朝庭」が用いられています。
やはり「九州王朝の朝庭」なのです。

3)三つ目は、聖武天皇自身の歌です。長歌の一部を示します。
元暦校本:(聖武)天皇賜酒節度使卿等御歌一首並短歌
    :食国 遠乃御朝庭尓 汝等之
          如是退去者 平久…(後略) (万葉973番歌)
通説:旧大系本、小学館本による
  表題:(聖武)天皇が酒を節度使の卿等(三人)に賜うた歌一首と短歌
  読み:食(を)す国の 遠の朝庭に 汝(いまし)等し
       かく罷りなば 平(たひら)けく…(後略)
  小学館本:わが治める国の 遠い朝庭に おまえたちが このように出向
       いたら 安心して…(後略)
 この"節度使"とは「東海(東山)道・山陰道・西海道節度使」を指し、前者に藤原房前を、中に多治比真人県守そして後者に藤原宇合を任命しました。ですから971番から973番の一連の歌は「西海節度使」を指しようです。まあ「お前たち」というように三人に酒を振舞った時の歌でしょうが、「食国遠乃御朝庭尓」から「西海道節度使」を念頭に置いた歌であることは間違いないでしょう。

 これは聖武天皇の歌ですから自らを「大王」というわけにはいかず、「食国」としています。古田先生が注目されたのは、「御朝庭」という表記です。通説ではさほど注目された風には見えませんが、「『御』字はこの字の使用者から『朝庭』(のある筑紫)に対する"敬称"を用いている」とされたのです。このような"敬称"は、地方の役所(政庁)に対して中央権力者が使うべきものではない…とも。ですからいまは"西海道節度使"の勤務する太宰府に使うのはおかしいのですが、「先の九州王朝の都としての太宰府」という意味で「朝庭」を使った時、この敬称である「御」字が生きてくるのです。先生は「かつて、ついこの間まで『朝庭』のあったところに"西海道節度使"として派遣するぞ」といった一見謙遜・寛容、しかしながら実は誇りに満ちた王者の「晴れがましさ」、それがこの「遠乃御朝庭」に込められていたのではないか…とされました。

4)第四は、遣新羅大使阿倍継麿の歌です。
元暦校本:到筑前国志麻郡之韓亭舶泊経三日…(後略)
    :於保伎美能 等保能美可度登 於毛敝礼杼
       気奈我久之安礼婆 古非尓家流可毋  (3668番歌)
通説:小学館本による
  表題:筑前国志麻郡の韓亭に到り、舟泊まりして三日を経ぬ。…(後略)
  読み:大君の 遠のみかどと 思へれど
       日(け)長くしあれば 恋にけるかも
  小学館本:大君の 遠い(朝庭(政庁)に派遣された)使者だと 
       思ってはいるが 日数が積もると 家が恋しくなった。
 「大君の遠のみかど」とは、都から遠く離れた天皇の行政官庁、またはそこに派遣される官人をいう」と解説されています。

 しかし「遠のみかど」は、いままでの四例とも筑紫に関する歌の中だけにしか使われていないように見受けられますね。

5)次は雪連宅満の「家人」の歌です。長歌ですから関連箇所だけを示します。
元暦校本:到壱岐嶋雪連宅満忽遇鬼病死去之時作歌一首並短歌
    :須売呂伎能 等保能朝庭等 可良国尓
       和多流和我世波 伊敝妣等能 …(後略) (3688番歌)
通説:小学館本による
  表題:壱岐の嶋に到りて、雪連宅満の忽ちに(図らずも)鬼病(えやみ)
     に遇ひて死去せし時に作る歌一首並びに短歌
  読み:天皇(すめろき)の 遠の朝庭と 韓国(からくに)に
       渡るわが背は 家人の …(後略)
  小学館本:天皇の 遠いお使いとして 韓国に 渡る貴君は
       家人が (慎んで待たないからなのか) …(後略)
 解説に「オホキミが現在位にある天皇を指すのに対して、スメロキは天皇の祖先としての歴代、あるいはそのうちの特定の一代をいう」とあります。「家人」とは死んだ宅満の遺族をいい、韓国に渡る「わが背」は宅満のことです。

 古田先生は、この歌を「天皇の遠の朝庭(として知られた)筑紫から、韓国へ渡ろうとしたわが背は…、の省略形ではないか…」とされました。「天皇」を「現在の天皇の先祖代々」と解釈しても、そうであれば「天皇の遠い朝庭」とは「先祖代々にとっての遠の朝庭」あるいは「先祖代々がお仕えしてきた遠の朝庭」という意味でしょう。

6)最後は大伴家持の歌です。やはり長歌ですから一部だけ…。
元暦校本:追痛防人悲別之心作歌一首並短歌
    :天皇乃 等保能朝庭等 之良奴日
       筑紫国波 安多麻毛流 …(後略)  (4331番歌)
通説:小学館本による
  表題:防人が悲別の心を追ひて痛み、作る歌一首並びに短歌
  読み:大君の 遠の朝庭と しらぬひ
       筑紫の国は 敵(あた)守る …(後略)
  小学館本:大君の 遠い役所であるぞと (しらぬひ)筑紫の国は
       敵を監視する …(後略)
 解説で、「防人の配属される太宰府は、天皇の出先の行政官庁であるぞと」の意味としています。また「敵守る」は「外敵の来襲を防ぐ」意味から、「監視する」こととなるそうです。上記5)で「スメロキ」を「天皇」と表記していましたが、この歌では原字がずばり「天皇」なのにどうしてわざわざ「大君」と表記したのかわかりません。「天皇」のままで、5)とまったく同じとしてもいいのでは…と思います。

 古田先生引用による旧大系本では、そのまま「天皇(すめろき)の遠の朝庭と…」となっているようです。そして古田先生は、「『遠の朝庭』が『筑紫の国』と関連して用いられている点、いままでの例と変わりはない」といわれました。

 さてこの「遠の朝庭」は、六例とも「筑紫」そのものを指すか、「筑紫」を前提として用いられている…といわれます。これが単に「近畿天皇家の(遠い)地方の役所」を指すのであれば、何故他の地方政庁(多賀城など)に対して使われた例が無いのか、何故万葉以降の古今集や新古今に現れないのか、何故伊勢や播磨などわりと近い政庁に対し「近つ朝庭」などの例が無いのか。これらに答えられないであれば、「大和の都より遠い地方の役所」などの通説は受け入れられません。
 やはり「筑紫」に関連してしか用いられていない以上、「遠の朝庭」は「筑紫・九州王朝、その都太宰府」を指す…とすべきです。
では「遠の」とはどのような意味でしょうか。単に「都より離れて遠い」という"距離的遠さ"でしょうか。もし「遠の朝庭」が「九州王朝あるいは太宰府」を指すとすれば、当然"距離的遠さ"もあります。しかしそれ以上に"時代的遠さ"も含まれているとともに、"他の王朝である遠さ"もある…と、古田先生はいわれます。
つまり「現在大和の大王・大君にとっての太宰府」、あるいは「大和の代々の祖先がお仕えしてきた太宰府」という意味が含まれている…と。
ですから3)で紹介しました聖武天皇の「遠乃御朝庭」という字使い、通説では気にも留めず、「御」字を説明できなかったことも古田説ではよく理解できます。
 明治の学者吉田東吾が著した「大日本地名辞書」の「筑前筑紫郡太宰府跡」によると、「またこの辺の田畠の字(あざ)を内裏(だいり)跡・紫宸殿(ししんでん)などいふといへり。そは安徳天皇しばらくこの所に鳳駕をとどめ給ひしによりての名なりぞ。(ここに内裏跡云々とあるは虚誕のみ(うそばっかり))」と憤慨しています。しかし「紫宸殿」とは、唐朝における天子の宮殿の呼び名です。やはりここ大宰府には、天子のおわした「朝庭(朝廷)」があったのです。

 ちなみに大伴家持が、継体天皇の出身地である「越(こし)」に対して使った二例の「とほのみかど」を紹介します。
A)大王乃 等保能美可度曾 美雪落
   越登名尓於敝流 安麻射可流 …(後略)   (4011番歌)
  大君の 遠のみかとそ み雪降る
    越と名に負(お)へる 天離(あまざか)る …(後略)
B)於保支見能 等保能美可等々 末支太末不
   官乃末尓末 美由支布流 古之尓久多利来…(後略) (4113番歌)
  大君の 遠のみかとと 任(ま)き給ふ 官(つかさ)のまにま
    み雪降る 越に下り来 …(後略)

 「筑紫」に対する「とほのみかど」の他は、「越」の継体天皇の(豪族時代の)拠点に対して使われた上記二例だけだそうです。
しかしよく見てください。「みかど」に対し4331番歌のように決して「朝庭」は使わず、「美可度(等)」で代用させています。中国を含む東アジア世界で特別な意味を持つ「朝庭(朝廷)」は、越の場合には決して"使えなかった"のです。ですから「朝庭(朝廷)」は、筑紫・太宰府に対してだけ…。

 いかがでしたか、"いづこなる「朝庭}"は…。「近畿天皇家の大王・その先祖にとっての(筑紫の)朝庭(朝廷)…」、ですよね。