やさしい古代史

古田武彦氏の仮説に基づいて、もやのかかったような古代史を解きほぐしていこうというものです。

高天の原と国生み神話(1)

2006-10-10 16:51:54 | 古代史
 国内史料として、近畿天皇家胎内で作られた「古事記」および「日本書紀」(それぞれ「記・紀」という)があることはご承知のことと思います。「記」は太朝臣安万侶が712年に上梓し、「紀」は舎人親王らによって720年に編纂されたものです。「紀」は朝廷内で人々に何度も講義され、「これがわが国の歴史じゃ…」と頭に叩き込まれました。その影響は、今に及んでいるのですが…。しかし「記」は、それが成立したことすら次の「続日本紀」に記されていないのです。幻の史書として人々の脳裏より消え去っていましたが、六、七百年後の中世にひょっこり世に現れたのだそうです。この「記紀」の比較研究は、古くから行われてきました。「記」は素朴な伝承が書かれた物語的史書であり、「紀」は大陸の史書を真似し史書たらんとして書かれている。しかし「神代の巻」において「紀」の一書類の中には、「記」の記述より素朴なものもある…、というのが大体の評価でしょう。とりあえず「神代の巻」においては、「記」をベースに説明し「紀」は比較説明が必要なときに用いましょう。
 「神代の巻」の舞台は「高天の原」と「筑紫」ですが、後の段になりますが「大国主命に対する国譲り」の話とか「出雲神話」それに別史料「出雲国の風土記」をひもとくと、どうやら筑紫に先行してまず縄文より弥生の初めころまで隠岐の島の黒曜石を力の背景とした出雲がこの列島西半分の主権者であった…という姿が浮かび上がります。その出雲が支配していた地が、痕跡として「記」の中にあります。「大年神」の神頴裔…といわれるものです(p109)。
  大年神-大国御魂神:大国本国の神(支配者)
      -韓神:新羅の地の神。天降り地でもある。半島南岸、洛東江沿い
      -曽富理神:筑前高祖(たかす)連山あたりの神
      -白日神:筑前春日・太宰府あたりの神。いま「白」のつく地がある
      -聖神:日の尻…甘木から久留米あたりの神 
つまり出雲国は、出雲本国に加え半島南岸・九州筑紫の地の支配者だったようです。板付とか菜畑・曲田などの縄文水田は、出雲国の支配するところだったようです。
 では「高天の原」の時代は、特定できないのでしょうか。できます。絶対年代は無理でも、大まかな時代はわかるのです。岩波古事記をベースにしますが、表記はわかりやすくしています。
「ここに天つ神諸の命以ちて、伊邪那岐(いざなぎ)の命・伊邪那美(いざなみ)の命、二柱の神に、「このただよえる国を修めつくり固めなせ」と詔(のり)て、天の沼矛(ぬぼこ)を賜ひて、言依(ことよ)さしたまひき」(p53)
ここにはっきりと「天の沼矛」つまり壱岐・対馬それに筑前・豊前を中心に出土する「銅矛」によって、すなわち「銅矛」という武力によって国々を征服していった…と主張しているのです。銅矛は弥生時代、おおまかに紀元前四、三百年に入ってきた…といったころでしょうか。
次に「高天の原」とは、どこなのでしょう。通説では、「天heaven、天上界つまり人間生活の投影された信仰上の世界」とされています。しかし古田先生は、「高天の原」から「天降る」地点はたった三ヶ所しかない…ことに注目されました。すなわち(1)上記二柱の神が天降った「淤能碁呂(おのごろ)島(p53)」。また番能邇邇芸(ほのににぎの)命が天降った「竺紫の日向(ひなた)の高千穂の久士布流多気(くしふるたけ)」、(2)須佐之男(すさのをの)命が天降った「出雲国の肥の河上(斐伊川のほとり)、名は鳥髪(p85)」、そして(3)素戔鳴尊(すさのをのみこと)、その子五十猛(いそたけるの)神を帥(ひき)ひて新羅国に天降りまして…(紀。第八段第四の一書)。つまり、「高天の原」から途中の経由地なしで「天降る」ことができたのは、筑紫と出雲と新羅の三ヶ所だけなのです。古田先生は「高天の原」はこの三ヶ所に内接する所…と考えられ、「壱岐・対馬および沖の島」などの島嶼…とされました。そこが「天heaven」であれば、この三ヶ所だけでなくどこへでも「天降る」ことができたはずでしょう。因みに「天の安川」とは「対馬海流」のことであり、対馬海流に乗って出雲や新羅に行くことを天「降る…」といい、逆に帰ってくることを「上る」といった…ようです。
 隠岐の島の黒曜石を力の源泉にした出雲の支配は、ようやく終わりを告げようとしています。大陸から半島を通ってもたらされる「銅器:銅矛や銅剣」を、いち早く入手できる位置に「高天の原」があるのですから…。
因みに古田先生によれば、対馬空港より程近いところに「阿麻氐留(あまてる)神社」があり、当時の氏子総代の方が「わたしのところの神様は、出雲の一番の家来だったので最も遅く参内し、最も早く帰られていた」と話してくださったそうです。この話はまだ出雲が主、阿麻氐留神が従のときの話だったのです。この「あま」は、「海人」を表し佳字で「天」と表示したのではないでしょうか。つまり「高天の原」の人々は、「海人」族だったのです。今回はこれまで…。