やさしい古代史

古田武彦氏の仮説に基づいて、もやのかかったような古代史を解きほぐしていこうというものです。

番外編(7)

2007-05-28 15:52:36 | 古代史
 万葉集にある、通説では間人皇女(はしひとのひめみこ。舒明と皇極の娘、孝徳の妃)あるいは斉明天皇(舒明の死後は皇極、孝徳の死後の重祚)に擬せられています「中皇命(なかつすめらみこと)」の作である短歌を紹介しましょう。一般には大和から大阪湾経由で、「紀の湯」に行かれた時の歌だそうです。

元暦校本:中皇命往于紀温泉之時御歌
   君之歯母 吾代毛所知哉 盤代乃 岡之草根乎 去来結手名  (10番歌)
   吾勢子波 借廬作良須 草無者 小松下乃 草乎苅核     (11番歌)
   吾欲之 野嶋波見世追 底深伎 阿胡根能浦乃 珠曽不拾   (12番歌)
     或頭云  吾欲 子嶋羽見遠             (12'番歌)
通  説:岩波書店新日本古典文学大系「万葉集」による
  表題:中皇命の、紀の温泉に往きたまひし時の御歌
 短歌(10番歌):君が代も わが代も知るや 岩代の
           岡の草根を いざ結びてな
    (意味):君の御命もわたしの命も司る岩代の岡の草を、さあ結んで祈りましょう。
     ・この「君」とは、中皇命が間人皇女であれば、夫の天皇たる孝徳になる。斉明であれば不明。誰か恋人でもいたか。
     ・「岩代」の地は、和歌山県日高郡南部町岩代…とする。熊野街道の要衝の地で、旅の平安を祈る場所であった…と。
     ・「歯」は、春秋左氏伝に「歯、年也」とある…と。
   (11番歌):わが背子は 仮廬(かりいほ)作らす 草(かや)なくは
           小松が下の 草を刈らさね
    (意味):わが背子は、仮小屋をお作りになるカヤ(萱)がなかったら、松の木下の草をお刈りなさいな。
     ・「背子」は、「夫や恋人をさす語」(大辞泉)とある。
   (12番歌):わが欲(ほ)りし 野嶋は見せつ 底深き
           阿胡根(あごね)の浦の 珠そ拾はぬ
    (意味):わたしが見たいと思っていた野嶋は、あなたは確かに見せてくれました。しかし水底の深い阿胡根の浦の真珠はまだ拾っていません。
     ・「野嶋」の地は、和歌山県御坊市名田町野島…に比定。「阿胡根浦」は、「未詳。同上野島付近か」とする。あるいは本居宣長は「野島阿胡根ノ浦は、紀州日高郡塩屋浦の南に野島ノ里あり、その海辺をあこねの浦といひて…」とする。いずれにせよ、いずれも「紀州」である。
     ・「わが欲し野島は身せつ…」を、「…野島はあなたは確かに見せてくれました」と意味を取っている。見た主体は「あなた」で"見せられた"のだ。
   (12'番歌):或いは頭にいう、「わが欲りし 小島は見しを」
    (意味):或いは、「わたしが見たいと思っていた小島は見たけれども」
     ・本歌12番と微妙に違う。「…小島は"わたしは"見たけれども…」と見た主体は"わたし"…だ。「見せてもらった…」のではない…。 
     ・通説では「小島は未詳」…と。

 さて通説の如く「中皇命」を「間人皇女、あるいは斉明天皇」とすると、次のような不思議が生ずるそうです。つづいて、古田先生の論証を見てみましょう。
1)(10番歌)で「君(作歌者の夫、恋人。間人皇女の場合は孝徳天皇、斉明天皇の場合は不明)」に関しては単純に"寿命"を示す「歯」を使い、自分(女性、妻あるいは恋人)には"治世"を意味する「代」を使っている。これはおかしい…と。「間人」の場合は自分が統治しているようになり、使用法が「孝徳」に対し「失礼」になるだろうし(特に当時の感覚として)、斉明・皇極の場合は肝心の「夫」たる舒明天皇は亡くなっているのだから、共に旅は出来ないはずだ。
2)歌を読んでもらえれば分かるように、(11番歌)だけに"敬語"が使われ、(10,12番歌)には使われていない。(11番歌)が確かに間人の「わが背子つまり孝徳」に対する歌とすれば、これに"敬語"が使われているのは当然…と思われる。しかし、(10番歌及び12番歌)は?…とするとき、この不思議はますます大きくなる。

 これら一連の歌は、「中皇命が、旅の最終目的地である阿胡根の浦といわれるところへ行く途中、『わたしも見たいと思っていた野島(或いは小島)へ行きお前にも見てもらって肩の荷を降ろし、さていよいよ阿胡根の浦の真珠を拾おうか』と言っている」のではないでしょうか。
この理解は、通説の(12番歌)の意味が「…あなたは確かに見せてくれました。しかし水底の深い阿胡根の浦の真珠はまだ拾ってはいません」と解釈されていることからも、そう違ってはいないでしょう。ただ、それぞれ野島(小島)、阿胡根の浦などの所在地の理解を除いては…。

 この理解は、番外編(6)の万葉(3番歌)と関連があります。
1)「中皇命」とはその半端ではない称号から、「九州王朝の天子」であった。
2)隋書「俀国伝」によれば、天子たる多利思北孤は「吾輩雞彌(わが君)」と呼ばれ、「王妻号雞彌(王の妻は雞彌(君)と号す)」とあった。中皇命が「矛の太子であった上塔の利」とすれば、隋書の記事はほんの三十年ほど前のことを言っていることになる。そしていまも「天子の皇后を「君」と言っている」とすれば、太宰府から紀の温泉への「中皇命の皇后を伴なっての大船旅」…ということになる。
3)(10番歌):君が歯(よ)も わが代も知るや 盤代(いはしろ)の 
         岡の草根を いざ結びてな
   意味:貴方の寿命もわたしの統治も、いつまで続くと誰が知ろう。この盤代(いはしろ)の名にふさわしく、いつまでも続くことを祈って、さあ岡の草結びをしよう。
   ・「君の歯」は皇后の"寿命"を表し「わが代」は中皇命の"統治"を表すことと、なんら矛盾なく不思議ではない。
   ・「盤代」の「盤」は"広大なさま"を表し、よって「万代」の意に通ずる。その「名」にかけた願いである。「盤」は「磐」とも通づるから、日高郡南部町「岩代」でもいいのかもしれないが…。
   ・"草結び"とは、"願いをこめる"ための庶民の所作である。
4)(11番歌):わが背子は 仮廬(かりほ)作らす 草(カヤ)なくば
         小松が下の 草を刈らさね
   意味:わたしの夫(中皇命)が、カヤで仮廬(かりほ)を作らせていらっしゃる。もし草が足りないなら、(いまわたしのいる)小松の下の草をお刈りくださいな。
   ・この場所は特定できない。
   ・10番と12番歌は中皇命のそして11番歌は皇后作の、問答歌である。よって11番歌にのみ"敬語"が使われていること、何の不思議もない。
5)(12番歌):わが欲(ほ)りし 野島は見せつ(小島は見しを) 底深き
         阿胡根の浦の 珠ぞ拾はぬ
   意味:わたしが貴方に見せたいと思ってきた(淡路北端の)野島は(つまり明石海峡は)、もう見せた(or 私自身が行きたいと願っていた(吉備の)児島は、もう見た)。だけどあの底の深い(伊勢の)英虞(あご)湾の真珠は、まだ拾ってない。これからの楽しみだよ。
   ・太宰府から瀬戸内を船旅するとき、野島の面する明石海峡は皇后に見せたい所だったのだ(吉備の児島は自身が立ち寄りたい所だったのだ)。(因みに、野島は十年ほど前の阪神淡路大震災時の震源地である。)
   ・最終目的地の「阿胡根の浦」とは、昔より真珠の獲れる伊勢の「英虞湾」である。宿泊地の紀の湯(白浜温泉という)より足を延ばし、伊勢まで真珠を拾いに行くのだ。通説に立つ学者は、何故思いつかなかったのか。それはあくまで「大和から大阪湾経由で、南部町の野島などを見学して白浜へ行った」との固定観念のなせる業…といわれる。げに、固定観念とは恐ろしきもの…である。それにしても、何の変哲もない南部町野島が、それほど見せたかった所なのだろうか。そのあたりを、学者の方々は検証されたのだろうか。

 いかがでしたか、この万葉三歌(四歌)の解釈は…。
「訓みが主、漢字は借物」という本居宣長の説はある意味では正しいのですが、どうして同じ短歌の中で「歯」と「代」を使い分けたのか…、それを究明することも万葉学の一つと思いますね。例え意味するところは「代、よ」であっても…ね。

番外編(6)

2007-05-24 12:15:45 | 古代史
 再び万葉集に戻りましょう。
はじめの方に舒明天皇時代の歌として、少し不思議な歌があるそうです。

元暦校本:天皇遊獦内野之時中皇命使間人連老献歌
 (長歌):八隅知之 我大王乃 朝庭 取撫賜 夕庭 伊縁立之
      御執乃 梓弓乃 奈加弭乃 音為奈利
      朝獦尓 今立須良思 暮獦尓 今他田渚良之
      御執能 梓弓之 奈加弭乃 音為奈里      (万葉3番歌)
 (反歌):玉剋春 内乃大野尓 馬数而
      朝布麻須等六 其草深野            (万葉4番歌)
通  説:岩波書店新日本古典文学大系「万葉集」による
  表題:(舒明)天皇の内野に(または、宇智の野に)遊猟(みかり)したまひし時に、中皇命(なかつすめらみこと)の、間人連老(はしひとの(orたいざの)むらじおゆ)をして献(たてまつ)らしめし歌
  読み:やすみしし わが大君の 朝には 取り撫でたまひ 夕べには
      い寄り立たしし みとらしの 梓の弓の なか弭(はず)の
      音すなり 朝狩に 今立たすらし 夕狩に 今立たすらし
      みとらしの 梓の弓の なか弭の 音すなり   (万葉3番歌)
     たまきはる 宇智の大野に 馬並(な)めて 
      朝踏ますらむ その草深野           (万葉4番歌)
  意味:(やすみしし)わが大君が、朝には手に取って撫でいつくしまれ、夕べにはそのそばに寄り立たれた、ご愛用の梓の弓の、中弭の音が聞こえる。朝狩にいまお発ちになるらしい、夕狩にいまお発ちになるらしい。ご愛用の梓の弓の、中弭の音が聞こえる。                     (万葉3番歌)
     (たまきはる)宇智の大野に馬を並べて、朝の野をお踏みになっているであろう、その深草野よ。                 (万葉4番歌)

 この歌は、さわやかな"狩への出で立ち"を扱った名歌だそうです。何も不思議はないではないか…、歌の作者も間人連老とわかっているし…と思われたのではないでしょうか。でも古田先生は、次の不思議があるといわれます。
1)この歌ほど万葉の研究家を"悩まして"きた歌もない。それは「中皇命」の"正体"だ。この人名は、記紀には現れていない。だからこそ、舒明前後の時代にいる誰に当たるか…、みながその謎解きに腐心してきた。岩波万葉では、舒明の皇女で孝徳の妃である「間人皇女か」としている。いまだ定説がないのである。
2)「やすみしし(八方の地の支配者である) わが大王」は問題ない。しかし「朝庭」の意味だ。万葉2番歌で「山常庭」を「山根には」と読んだ。だからここでも「あしたには」と読むことは問題ない、時間帯としての「朝夕の朝」である、が…。しかしここでは原文を用いて「大王の朝廷(庭)」とも取れる。そうすれば中国での用法、「天子―朝廷」と齟齬が出る。なぜならば、「大王とは、天子の大勢の臣(大王など)の中の一人」だからだ。つまり、決して「大王―朝廷」とはならないのだ。また「朝」一字で「ちょうてい」または「みかど」と読み、「朝庭」を「みかどには」と読むことも出来る。
3)次は、対句の意味だ。「朝には…(弓を)取り撫でたまひ」、「夕べには…(弓に)い寄り立たしし」だ。前者は「弓」を目的語とした「男性的」しぐさ、後者は万葉の他例からすれば「弓」を補語とした「女性的」しぐさなのである。それを男性たる「わが大王(大君)」一人のしぐさとすることはおかしい。
4)次は「奈加弭…なか弭」だ。「弭」とは「弓の両端の弦をかけるところ」だから、その中間…握り部である「中弭」という概念、また本当にそう呼ぶのかが不明なのだ。岩波万葉によれば、「なか弭は未詳。長(なが)弭あるいは金(かな)弭とする説もある」といっているが、これはどの古写本も「奈加弭」だからうなずけない…といわれる。
5)再び表題にかえり、「中皇命」の"正体"と共に、この歌の中での"役割"も不明なのだ。「舒明」は「大王」として(この七世紀中ころ、まだ「天皇」の自称および他称はない)、「間人連」は「作歌者」として役割がある。しかし「中皇命」の役割は…?
6)次は地名。表題の「内野」と反歌4番歌の「内の大野」、岩波万葉では「内大野(うちのおおの):大和国宇智郡。現在の奈良県五條市大野町一帯の山野。(後略)」とある。本当にそうか?

 私たちは日本古代史における古田説…、「近畿天皇家に先立って、大陸の歴代王朝や半島の国々から列島の主権者として認められていたのは、700年までは筑紫倭国引いては九州王朝であった」ことを知っています。
では古田説を適用すれば、上記の不思議は解けるのでしょうか。
1)まず「中皇命」の正体。これは称号からわかる…と。「皇命」という他称は半端じゃない…といわれる。至高の統一中心者を意味する…と。すなわち「九州王朝の天子」その人だ…と。このころであれば、天子「足りし矛」の太子であった「上塔の利」であろうか(「上塔」はいまの九州大学あたり)。いま福岡市内に「那珂川」があり、繁華街になっている「中洲」がある。そこが母の出身地であり、誕生し育った地だったのではなかろうか。だから「中皇命」と呼ばれたのだ。
2)「わが大王の 朝庭(時間帯を表すものではなく、これを「みかどには」と五字に読み、かつ男性たる「中皇命」その人の意ともなる)…」というフレーズは、「大王がお仕えする"みかど"(帝)におかれては…」という意味であって、所有格の「の」ではない。それで「中皇命―朝廷」となって、中国の用法と矛盾しない。
3)またその対句としての「夕庭(夕べには)」は時間帯表現ではなく、やはり「きさき(后)には」と女性に読むべきであろう。そうすると、「みかど―弓矢を愛し、いつも自分の弓を愛撫している」のであり、「きさき―夫の"みかど"を敬愛し、夫の持つ弓の側にいつも寄り添って立っている」という意味になる。これで、男性に女性のしぐさをやらせる不思議もない。
4)次は「なか弭」だ。これは「中皇命」の育った地「那珂(中)風の、あるいは中特産の弭」という意味だろう。「信州そば、京人形、灘の生一本」の類だ。
5)では「中皇命」の役割は? 「狩好きの王者・天子」であって、この歌は「中皇命の男らしさ、その后の女らしさを称える歌」だったのだ。それを中皇命の命を受け、間人連が詠んだのだ。大王(舒明)は臣の間人連を伴ない大和よりこの太宰府の地へ来たり、天子のお供をして朝な夕なの狩に行ったのであろう。だから間人連にとって、舒明は「わが大王」だったのだ。
6)表題の「内野」に対し「宇智の野」と読み、奈良県宇智郡の地を当ててきた。しかし大宰府の奥(後背地、東側)には、まさに「内野」の地名がある。筑豊本線の駅名でもある。しかも更にその奥の西北(篠栗線の沿線)には「大野」がある。反歌に詠われた「内の大野」だ。このあたりは、その昔は「狩場」として適所であったろう…と。「大野城」のある「大野」と区別するため、「内の大野」といったものだろう…と。

 さて古田先生の解釈はどうでしょうか。
(長歌):(やすみしし)わが大王の(お仕えになっている)その天子さま(中皇命)は、弓を愛し取り撫でていらっしゃる。その皇后(きさき)さまは、天子さまに寄り添って立っていらっしゃる。その御手に執っておられる梓弓の、那珂作りの弭を持つ弓の音がするよ。朝の狩にいま立たれるらしい、夕の狩にいま立たれるらしい。その御手に執っておられる梓弓の、那珂作りの弓の音がするよ。   (万葉3番歌)
(反歌):この内野の(中の)大野に、馬を並べ朝の足踏みをされていることだろう、その(春の)草深い野よ。    (万葉4番歌)

 因みに反歌の中の「玉剋春」は、最後の句「其草深野」とともに「季節は春」を示したものか…と、岩波万葉も注記しています。

番外編(5)

2007-05-21 12:50:10 | 古代史
 戦後の歴史学において、津田左右吉博士の「記紀において、神話や(宋書に現れる「倭の五王」に比定される諸天皇以前の)説話は、机上で考えられた造作である」という説が一般化され、(博士の文化勲章受賞などを経て)学界に公認されるようになりました。
ですから「記紀の神話などに頻繁に現れる天の香具山」と「万葉集の天の香具山」を別物と考える、いや同じものとするのは学者にあらず…という風潮が生まれているのだそうです。
しかし古田先生はいわれます。記紀及び万葉集というのは、同じ王朝の胎内で・同じ都の平城京において・同じ人々の手になるものだ。それを鑑みれば、「文献処理の厳密性」という点で、二つの「天の香具山」を別物とするのには一点の疑惑がある…と。

 そのような目で、次の古事記を見た場合どうなるのでしょうか。小碓命(おうすのみこと。倭建命・やまとたけるのみこと)が吾妻から科野を経て、尾張の美夜受比売(みやずひめ)の元へ帰って来た時のことです。
岩波古事記より引用しましょう(p217)。
 <ここに美夜受比売、それ意須比(おすい。着衣の上に重ねて着る衣装)のすそに、月経(つきのさはり)つきたりき。故、この月経を見て御歌よみたまひしく、
    ひさかたの 天の香具山 利鎌(とかま)に
      さ渡る鵠(くひ) 弱細(ひはぼそ) 手弱腕(たわやかいな)を
     枕(ま)かむとは 我はすれど さ寝むとは 我は思へど
      汝が著(け)せる 襲(おすい)のすそに 月立ちにけり
とうたひたまひき。ここに美夜受比売、御歌に答えていひしく、
    高光る 日の御子(みこ) やすみしし 我が大君 あらたまの
      年が来経(ふ)れば あらたまの 月は来経(へ)往(ゆ)く
     諾(うべ)な諾な諾な 君待ち難(がた)に 我が著せる
      襲のすそに 月立たなむよ
といひき。>
一般的に言えば、女性の生理という日常の生活の中の経験が、男女の問答歌という形で生き生きと詠われている…と(古田先生を含め)理解されていたようです。
しかし本当にそうなのでしょうか。

 まず、女性が男性に向かって呼びかけているところをみましょう。
    高光る 日の御子
岩波古事記では「高光る」を「日の枕詞」とし、「日の御子」を「太陽のように輝く皇子の意」としています。しかし古田先生は、「"太陽信仰の祭祀者を受け継ぐ者"、"神聖な太陽の光を受け継ぐ者"に対する美称で、皇子などにはふさわしいとはいえない。少なくとも、第一権力者にこそふさわしい」といわれます。かつ、
    やすみしし(八隅知し) 我が大君
同じく岩波古事記では、「やすみしし」を「我が大君の枕詞。語義未詳。万葉には、八隅知之、安見知之などの訓字が用いられている」とし、当然「我が大君」とは「小碓命」を指すとしています。しかし古田先生は、「"国の隅々までを、あるいは安らかに統治されている我が大君"とは、当然その地の第一権力者、天子や大王である。諸の皇子の呼び名ではない」とされました。そして、
    高光る 日の御子
    八隅知し 我が大君
と並び称された場合は、第二皇子(兄に大碓命がいる)としての小碓命(倭建命)には妥当し得ない…ともいわれます。確かに小碓命に対する呼びかけとしては余りにも重々しく、そうであればお尻がこそばゆくなるようなおべんちゃらにしか聞こえません。

 そして歌そのものより見れば(古事記の説話は歌の前書きと見て、いまは忘れて)、この歌は小碓命に関するものではないようです。
また私たちは「天の香具山」は大和のそれではなく、豊国別府の「鶴見岳」であることを知っています。ですからこの男性は、恐らくは九州王朝の天子、または豊の安万(海部)の大王なのです。そして女性は、その地の教養ある遊女…。
天子(大王)はこの地で、長く遊女と遊んでいます。月が明け年が変わり…、天子はそろそろ帰ろうと腰を上げようとしています。
しかし遊女は、「高光る…」と持ち上げて見せた上で、
    あらたまの 年が来経れば
    あらたまの 月は来経往く
「時が過ぎて新しい年や新しい月が来るなんて、分かりきったこと…」とさらりと言い返します。ですから「月」は、決して「月経」ではありません。
この「あらたまの」を岩波古事記は「年や月にかかる枕詞。語義未詳」としていますが、上の例からいえば古田先生は「年や月が改まって経過する」という意味だろうとされました。
男性歌の最後「月立ちにけり」の原文は「都紀多知邇祁理」ですが、これを「月経ちにけり」としても何も女性の生理「月経」ではなく、あくまで「月が経っていく」ということでしょう。「朔(つきたち)、一日」のことです。
「汝が著せる 襲のすそに 月立ちにけり」とは、「あなたと夜を共にし添い寝し続けているうちに、もう「昨月」は終わり新しい「月」が始まった」という意味とされました。
女性歌の「襲のすそに 月立たなむよ」は、「わたしの着ているおすいの側で、月が変わっても(今月も)過してほしいわ」と"駄々をこねている"、コケティッシュな媚態を見せているといわれます。
古事記の大安万侶は、九州王朝の歌を盗用し、天子と遊女の問答歌を小碓命と美夜受比売との問答歌に換骨奪胎したようです。そして誤解して、古事記本文に「その月経を見て御歌よみたまひしく」などとしたのです。あくまで「月が経つ」という状況を、「月経」に変えてしまうとは…。

 では現代語訳では…、
(天子):天の香具山(鶴見岳)を、鋭い鎌のような形をして"くび"(雁の一種か)が渡っていく。お前のか弱くて細い、しなやかな腕を枕にしようとは、わたしはしているのだけど、一緒に寝ようとは、わたしは願っているのだけど、お前が着ている"おすい"のすそで、もう月が経ってしまった(新しい月が始まった)。
(遊女):高光る日の御子、八方の領土を支配されている我が大君、あなたは最高の身分のお方。新しい年がやって来れば、新しい月が来往くのは、知れたこと。わかってますよ、わかってますよ、ええわかっていますとも。(いったんあなたが帰ってしまわれると)また来られるまで待ち焦がれている、このわたし。わたしの着ている"おすい"のすそで、新しい月が経ってほしい(来月になってもいてほしい)。
なかなか艶めいた歌でした。

番外編(4)

2007-05-19 13:40:44 | 古代史
 前回の万葉2番歌についてはいかがでしたか。歌の内容と表題とは、全く関係がありませんでした。歌の内容こそが第一の史料…、古田先生の主張がよくわかります。この歌は九州王朝の天子か安万(海部)の大王が作った歌を、時代的に同じとして舒明天皇(在位629-641年)の歌としたのでしょうね。つまり九州内部(別府湾と天の香具山つまり鶴見岳)で作られた歌を大和での歌と理解したことから、低い丘のような飛鳥の香具山を「群山あれどとりよろふ…」と無理な解釈をしたり、狭い埴安の池を「海原はカモメ立ち立つ…」というとチンケなこじ付けをしたり…、通説では決して理解できない歌でした。

 さて「天の香具山」とは別府湾の後ろにそびえる鶴見岳とわかったいま、次の歌はやはり通説どおりの解釈でいいのでしょうか。学校でも習う有名な歌です。
元暦校本:藤原宮御宇天皇代 (持統天皇を指す)
       天皇御製歌
    春過而 夏来良之 白妙能 衣乾有 天之香具山     :万葉28番歌
通 説:春過ぎて 夏来るらし 白たえの 衣干したり 天の香具山
 <春が過ぎて、夏が来たらしい。真っ白な衣が干してあるよ、天の香具山に>

 この歌は、持統天皇が藤原宮(大和の飛鳥の地にある)にあって作られた歌…と解説されています。つまり「藤原宮から東の方、香具山を望み見て詠まれた歌であろう」と、岩波万葉に解説してあるとおりです。あるいは、「『私注』は、この歌が藤原宮造営のときよりも前に位置しているので、清御原宮(夫で前代の天武天皇の宮)での作と見るべきであろうという。その場合、香具山は北方に見える」ともしています。
藤原宮にいて香具山を望んで作った場合、約1キロメートル先になる香具山の白い衣が見えるか…、これはほとんどの人の疑問だそうです。
古田先生は地元の人の協力を得て実験されたところ、十分には見えなかったのだそうです。実験…という先入意識があって始めて、「あっ、あそこに…」と分かる程度だったそうです。同じように万葉学者の森淳司さんもNHKと共に実験されたそうですが、やはり同じ結論しかえられなかったのだそうです。

 いままで、多くの人が次のような「仮説」を以って解釈しようとされました。
1)「衣が干してあった」のは、100メートルほどにある民家であり、その背景に香具山が見えた。
しかし古田先生は、「この歌の内容そのものからは、このような解釈は出てこないはずだ。現地の地理関係を知った後で、いわば後知恵としての解釈ではなかろうか」といわれます。もし仮説どおりであれば、「この秀でた詠み手は『眼前に衣が干してあり、背景に香具山がそびえている』くらいの情景をうまく詠めるはずだ」とも…。
2)持統天皇が香具山のほとり(埴安の池など)に散歩し、(近くの家に)衣が干してある光景に接した。
しかしこの仮説も、上記と同じ後知恵だろうといわれます。またそうであれば、「散歩していたら、干された衣を見て、もう夏か…と感じた」くらいの情景を読めるはずだともいわれます。
3)各家が、一面に白くなるように衣を干していた。
しかし「いっせいに衣を干した情景」は、「春と思っていたらいつの間にか夏…」という季節感ではなく、初夏のさなかの情景ではないか…といわれます。
いずれの仮説も、この歌の内容から導かれた解釈ではなく、後知恵のような無理を重ねた解釈のようです。
 もう一つ、「衣を干す」という作業は「人がいてこそ出来る」のですが、飛鳥の香具山にはその頂に小さな祠が二つあるだけだそうです。つまり、人のいる気配がない…。ですから、上記のような仮説が生まれたのでしょうが…。

 では、古田先生はどのようにされたのでしょうか。
まず、表題を切り離し、歌そのものを味わうことです。次に、「天の香具山」とは別府湾の後ろにそびえる「鶴見岳」ではないかとすることです。

 六国史の中の「三代実録」(平安時代の史書。901年に成立。清和(858~)・陽成・光孝(~887年)三代三十年の歴史書)に、次のような記録があるそうです。
<太宰府いう。従五位上、火男神。従五位下、火女神。二社は豊後国速見郡鶴見山嶺にあり。山頂に三池あり。一池は泥水色青し。一池は黒し。一池は赤し。去る正月二十日、池振動す。その声、雷の如し。俄(には)かにして臰(しゅう)すること(その臭いは)、硫黄の如し。国内に遍満す(広くいきわたる)。盤石飛乱す。上下、无数(無数)。石、大なるは方丈(約3メートル四方)。小なるは甕の如し。昼は黒雲蒸し、夜は炎火さかんなり。沙泥、雪散し、数里に積もる。池中、元温泉を出だす。泉水沸騰し、自ずから河流をなす。山脚の道路、往還通ぜず。温泉の水、衆流に入る。魚、酔死するもの千万数。その振動の声、三日を経歴す。>(清和天皇、貞観九年(867年)二月条)

 前回紹介しておけばよかったですね。これで、鶴見岳は火山であったことがお分かりでしょう。いまでこそ山頂の三池は吹っ飛んでありませんが、しかし別府温泉といえば色のついた「~地獄」というのが有名ですね。
上記は九世紀後半の爆発です。そして伊予と阿波の風土記によれば、「倭に天加具山があり、二つに分かれてこの地に天降った」とあり、前者は「天山」となり後者は「アマノモト山」となったのだそうです。いずれも「天、アマ」を名乗っていますね。実態は筑紫や豊から、この地に入植したことを示しているのでしょう。当然ここでいう「倭」とは、筑紫王朝のことであって決して大和ではないのです。大和には、火山などありませんから…。そして「加具山」とは、「鶴見岳」を指すことは言を俟ちませんね。
そして三代実録によれば、従五位上あるいは従五位下をいただいている神社があった…と。叙爵は後代でしょうが、与えるほど由緒ある神社だった…ことが伺われますね。ですから七世紀後半に、神職の人や巫女さんらがいたことは十分考えられます。そして衣を干すことも…。

 わたしは学校で、新古今和歌集に本歌取りした<<春過ぎて 夏来にけらし 白妙の 衣干すてふ 天の加具山>>に比べ、男性的で躍動感に溢れる歌だ…と習った記憶があります。
しかしこの28番歌は、単純にして明快なるが故に現地の実状と合わず、諸大家をして悩ませてきたのだそうです。
1)まず作歌場所。藤原宮、浄御原宮、浄御原宮から埴安の池に出遊…など。しかし先ほどの森淳司氏は、「NHKの行った実験では、香具山の山腹に少々の衣を干したくらいでは、藤原宮からぜんぜん見えない。ましてやもっと隔たった浄御原宮からは…。すると『衣干したり』という確信に満ちたこの表現は、一体どう解すればいいのか」といわれたそうです。
2)政治的意義。これは伊予などの風土記を元に、「天から降ってきた天の香具山を、高天の原に直結するとした」とか、「新都に集中した民家を背景とした支配者の眺望」などの解釈がされているそうです。
3)「衣」の意味。衣更えの習俗があった…、田植えの早乙女の資格を得るために山ごもりして潔斎した乙女らの衣…、天の香具山を斎祀る人々の衣…。これほど頭を悩まされているのですね。
4)背景。中国的暦法知識の一般化、あるいは我が国古来の連続的季節感…と。あるいは、季節の推移を認めるのは早すぎ、香具山の雪を白い布に見立てて戯れ遊んだ一首…とも。この「虚構説」のさきがけが、新古今和歌集の編者であった…と。しかしこの28番歌は、そんなに薄っぺらな歌でしょうか。

 この歌の作者は、鶴見岳の神社へお参りするために歩いていた。晩春とて、まだ肌寒い。境内に入りふと顔を上げると、そこには巫女たちの白い衣が干してあった。まだまだ春だと思っていたが、衣を干す初夏になっていたのだなあ。
<もう春が過ぎて夏が来たらしい。真っ白な衣が干してあるよ、この鶴見岳(天の香具山)の山中には…>

 いかがでしたか。作歌場所は鶴見岳(天の香具山)山中。政治的意義は特に無し。「衣」は神社の巫女さんの衣。背景は、実際目の当たりにしたひそやかな季節の移ろいに対する感動…。
飛鳥の藤原宮で持統天皇が作られた歌…とすれば、大家でさえも悩ましい秀歌…。なんともやりくりしなければ、実際と合わない歌…。しかし鶴見岳山中での作歌…とすれば、何の奇異もなくすんなりと感動が伝わってくる秀歌になったではありませんか。
やはりこの歌も、内容と表題は乖離していました。

番外編(3)

2007-05-17 19:10:18 | 古代史
 古田先生の面目躍如たる所…。
皆さんは「天の香具山」ってご存知ですよね。「知ってるよ。大和三山の一つだろ。後は畝傍山と耳成山だったよね」とおっしゃるでしょう。古代史大好きな方なら、「ああ、アマテラスが天の石屋戸に隠れたとき、これは大変だと八百万の神が天の安川に集いて、鉄を取って刀をつくり、銅を取って鏡をつくり、占うために鹿を捕り、玉など飾るために榊を取った、あの天の香山(かぐやま)のことだ」とされるでしょうね。
その「天の香具山」が詠われているという万葉の歌があります。これを紹介し、本当に「天の香具山」は大和の山か、先生の論証を辿りましょう。

元暦校本:(舒明)天皇登香具山望国之時御製歌
     <舒明天皇の、香具山に登りて国を望みたまひし時の御製の歌>
     山常庭 村山有等 取与呂布 天乃香具山 騰立
       国見乎為者 国原波 煙立龍 海原波
      加万目立多都 怜可(忄偏)国曾 蜻嶋 八間跡能国者 (2番歌)
通  説:大和には 群山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち
       国見をすれば 国原は 煙立ち立つ 海原(うなはら)は
      かもめ立ち立つ うまし国ぞ あきづしま 大和の国は
 <大和の国には多くの山々があるが、最も近い天の香具山、そこに登り立って国見をすると、広い平野には炊煙があちこちから立ち昇っている。海原には、白いカモメの群れがしきりに飛び立っている。素晴らしい国であるよ、(あきづしま)大和の国は>

 古田先生は、次のような疑問があるといわれています。
1)この大和の天の香具山に登ると、海が見えるのか、そこに遊ぶカモメが見えるのか…と。通説では、「香具山の北西麓には埴安池(はにやすのいけ)、西北には耳成池…があった。淡水でも「うみ」と呼ばれた。琵琶湖も「近江の海」であった」としている。しかし埴安池など、狭い池だ。最も肝心なこと、それは万葉集で「海原」とはあくまで「海」のことで、「池」を歌った例は(この2番歌を除いて?)無い。また「かまめ=カモメ」についても、「ユリカモメは遡上して来る」とのことだが、これも本当の海のカモメしか歌われていない…。
2)「よりとろふ」については昔から諸説があり、上記のように「都に近い意」としたり、「とりわけ立派に装っている」とか「素晴らしい形の山」とかある。しかし「よろふ」に「都に近い」という意味があるのか、海抜152m(大和の海抜を差し引けば50mほど)の山がそれほど立派なのか…、ましてや「大和には群山あれど」という枕に当てはまるのか。詩人の空想力…といったところで、白々しいばかりではないか。
3)「大和」を表すとした言葉に、「山常」と「八間跡」がある。同じ歌の中で、二通りの書き分けの必要があるのか。別の言葉ではないのか。

 もつれた糸をほぐすきっかけは、「蜻嶋(あきづしま)」でした。
古事記の国生み神話「次に大倭豊秋津島を生みき。亦の名は天御虚空豊秋津根別といふ」を(「盗まれた神話」という著書で)論証されたとき、「この「豊」は豊国(いまの大分県)、「秋」は安岐(国東半島の東南端)、「津」はいまの別府湾全体を指す。また「嶋」は国のことだ」と結論を得ておられました。ですからこの歌の作られた場所は、大和ではなくこの豊の地ではないか…と考えられました。
実は、神武紀三十一年条に「…よりて腋上(わきがみ)の嗛間丘(ほほまのをか)に登りまして、国の状(かたち)を廻らし望みて曰く、「あなにや、国を獲つること。内木綿(ゆふ)の真迮(まさ)き国といえども(狭い国だが)、蜻蛉(あきづ)のとなめ(交尾)の如くにあるかな」とのたまふ。これによりて、始めて秋津洲(あきづしま)の号あり。」とありますが、「これは豊の由布岳・鶴見岳近辺のことだ」と論証されています。
この三つの交点には、そうです「蜻嶋=蜻蛉(嶋)=秋津洲=豊の安岐」をドンと据えることが出来るのです。すなわち「別府」、「別府湾」…。

 では、もっと傍証を集めましょう。
1)ここが別府なら、目の前はまさに「海原」であり、カモメが飛び交っているのを見ることができる。
2)ここが別府なら、「国原は煙立ち立つ」とは、温泉の湯けむりだ。
3)豊の古名は「安万」であることはよく知られている。「海部」ともかく。よってこの地の山が、「アマの何々」と呼ばれることに何の不思議もない。
4)最初の「山常」は、「ヤマネ=山根」と読むべきではないか。「山根には群山あれど」とは、「この地には多くの山々があるが…とりわけ立派なのは…」との意ではないか。「よりとろふ」とはやはり、「群山の中で一番目立ち勝れているのは」という意味になるのでは…。別府には高い秀嶺があるか。
5)ある。別府の後ろに聳え立つ「鶴見岳」だ。海抜1375m。その後ろに「由布岳(海抜1584m)」もあるが、そこからは鶴見岳が邪魔で別府湾は見えない。
6)鶴見岳の頂上からも、海はあまりに遠すぎて見えない。カモメの姿などもってのほかである。では、その麓では見えるか。
7)見える。別府市内の浜脇区に「登り立」という字(あざ)がいま二つある。また別府には、「浜~」とか「~浜」という地名がいまに残っている。上記「浜脇区」もそうだ。よって「八間跡」は、「はまと」であって「大和」ではない可能性が高い。だから「浜都(?)」という広い地域(つまり国)の高いところにあるどれかの「登り立」で、東を向いて海を見、また湯けむりを見たのだ。
8)鶴見岳には「火男火女(ほのおほのめ)神社」がある。祭神は「火迦具土(ほのかぐつちの)命」である。「土(つち)」は本来、「津の神(あしなづちやおほなむちと同じ古い神名の「ち」)であるから、根源は「かぐ」である。また鶴見岳の西南隅に「神楽女(かぐらめ)湖」がある。この共通する語幹「かぐ」こそ、この鶴見岳の古名であった可能性は高い。「あまのかぐやま」である。
9)神話などから、天の香具山は「火山でありかつ鉱山」でなければならない。別府温泉の「~地獄」といわれる色のついた湯は、まさに(古い)火山であり鉱山である証しであろう。上記神社名や祭神からも、どうも「火」に強く関係した山であることが分かる。
10)よって「天の香具山」とは大和にあらず、豊(別府)の後ろにそびえる「鶴見岳」であることが分かった。

<山根(山すそ)には多くの山々があるが、とりわけ立派なのは天の香具山(鶴見岳)だ。その麓にある「登り立」に登って東を見れば、陸には湯けむりが立ち、海にはカモメが遊んでいる。何というよき国だ、この浜都という所は…>
どうです。すんなりと理解できますね。

 これより以降、「天の香具山」が出てきた場合、少し立ち止まって「待てよ、別府の鶴見岳では…」と考えましょう。では…。