やさしい古代史

古田武彦氏の仮説に基づいて、もやのかかったような古代史を解きほぐしていこうというものです。

筑紫王朝の後漢への貢献

2006-10-24 16:03:55 | 古代史
 わたしは前回「そして次の葺不合に、筑紫王朝の王統は引き継がれます。」と書いてしまいました。これは間違いでした。ここに、取り消します。葺不合は、記紀などの記述からすると王統につながる人物ではあるが決して本流ではありません。対馬の北端の海岸べりの長官でしかない、傍流なのです。ですからその息子たち、五瀬(いつせの)命と若御毛沼(わかみけぬの)命が、「東へ行ってみよう」と筑紫を離れる意味がよくわかります。
 この詳細は後に譲るとして、今回は筑紫と後漢との関連についてお話しましょう。「後漢書」です。先の「金印『漢委奴国王』」で紹介しましたように、倭国は後漢の光武帝の晩年に使いしました。
<建武中元二年(57年)、倭奴国、奉貢朝賀す。使人、自ら大夫と称す。倭国の南界を極めるや、光武、賜うに印綬を以ってす。>(後漢書東夷伝)
このときの倭王は、何代目の「穂穂手見」だったのでしょうか。「後漢書」は三国(魏・呉・蜀)時代の前の王朝(後漢、25-220年)の史書ですが、宋の史官范曄(はんよう、398-445年)が426年ころ著したものです。後漢が滅びた二百年ほど後にできたのです。ですから一般の記事はほとんど西晋(265-316年)の陳寿(ちんじゅ、233-297年)が280年ころ著した「三国志(魏志倭人伝など)」を、五世紀当時の知識で改変しながらも踏襲しています。しかしこの「建武中元二年」の記事は、現に金印が発見されたことにより信憑性の高さが証明されたのです。自ら称した「大夫」とは何でしょうか。それは「周(西:BC1027-BC771年、東:BC771-BC249年)」の諸侯に対する爵位「卿・大夫・士」だったのです。周の天子より見て皇族や上位の臣および直属する夷蛮の王(倭王も含む)が「卿」、その臣で政に携わるものが「大夫」そして武人が「士」なのです。その遺制が周が滅び後漢の時代になっても、遠い東夷の国にあったのです。まさに文化のドーナツ現象であり、後漢の天子や百僚は驚いたことでしょうね。
そして「南界を極めるや…」とはどのような意味でしょうか。たぶん、初代の邇邇芸から二百年以上経つと、九州島北岸の地より熊曽の国つまり建日別あたりまで筑紫の王「穂穂手見」の支配下に入った…ということでしょうか。絶対年代はわからないのですが、書紀の景行天皇の十二年条に「九州東部…大分県や宮崎県それに鹿児島県東などの討伐譚」とも言っていい話があります。つまり西側…鹿児島県西や熊本県など有明海沿岸は、討伐の対象から外れているのです。本当に景行の討伐譚であれば日向(宮崎県)に来たとき「おー、父祖の出発の地へ来た…」などの感嘆があってよさそうですが、何もなく冷たいものです。この話は古事記にはないので、古田先生は九州王朝の史書「日本旧記」より盗って挿入されたもの…と言っておられます。その中に、次の歌があるのです。p295-296です。
<秋七月の…、筑紫後国(みちのしりのくに)の御木(みき)に到りて、高田行宮(かりみや)にまします。時に倒れたる樹あり。長さ九百七十丈。百僚、その樹をふみて往来(かよ)ふ。時人、歌(うたよみ)して曰く、
  朝霜の 御木のさ小橋 魔弊菟耆瀰(まへつきみ) い渡らすも 御木の小橋 (後略)>
通説では「まへつきみ」を「群臣」とし単なる重臣にしていますが、その後の「い渡らすも」という荘厳な言い回しからすると、「前つ君」はつまり筑紫の王であり百僚打ちそろって凱旋を御木まで出迎えている様子です。その本拠地は「前なる地」、今の「前原(まえばる)」ではないだろうか…と言われました。語源は「前」、「-原」は福岡県に多い接尾語だからです。もし「南界を極めた」事件が史書に記録され、それを書紀が景行のところに盗用したとすれば(歴史を仮定でしゃべるのはルール違反ですが)、南界を極めた征服戦は一世紀前半…ということになります。まあ、ちょっとした遊び、ロマンと思ってご勘弁ください。
 それより五十年ほどしたとき、今度は王自ら天子に見(まみ)えたようです。
<安帝の永初元年(107年)、倭国王帥升(すいしょう)ら、生口(せいこう、戦で得た捕虜)百六十人を献じ、請見を願う。>(後漢書東夷伝)
始めて倭王の名「帥升」が記録されました。この捕虜は、安芸や吉備との戦で得たのでしょうか。いや、あまり推測はしますまい。しかしまあ百六十人とは、捕虜の身にはなんとも気の毒ですが、豪勢なものです。そして倭王自ら後漢の都洛陽に行ったことがわかるのは、「請見」の文字です。これは「会うことを請う、面会を求める」意味ですから、帥升王自ら天子と見えたことがわかるのです。この頃になれば、筑紫王朝のあらゆる制度…、例えば身分制、政治の仕組み、軍制、領地の分割等々が固定してきたのではないでしょうか。国内が安定していなければ、筑紫を留守にして王が洛陽へ赴くことなぞ出来るはずはないからです。これは、まんざらでたらめな推測ではないと思われます。この帥升王は、何代目の「穂穂手見」でしょうか。
 日本書紀によれば、57年は垂仁のとき、107年は景行のときにあてられています。しかしどこを見ても、彼らが後漢へ使いした…などは見出せません。史書「日本旧記」には書かれてあったのでしょうが、九州島討伐譚のみを盗用し、後漢への使いは盗用しようにも実感がわかず諦めたのでしょうか。これを見ても、「倭国」は大和にあらず、筑紫としたほうがすんなりと理解できる…でしょう。神話によれば、大国主が島伝いに「倭国」に上り胸形の多紀理毘売と結婚することからも「倭」は筑紫であり、権力は「国譲り、天孫降臨」によって出雲から筑紫に移ったことは明白ですし、やはり後漢に使いした倭国は筑紫にあったのです。これで一つの仮説「古田説」が成立することが証明されましたね。次回はすこし寄り道をして、「神武東進・侵」のお話をしましょう。では…。