やさしい古代史

古田武彦氏の仮説に基づいて、もやのかかったような古代史を解きほぐしていこうというものです。

古事記と日本書紀

2006-10-26 18:19:52 | 古代史
 大陸の戦国時代から前漢・後漢を通じて、我が列島は大陸の王朝より「倭・倭国」と呼ばれていたことはお話しました。縄文時代より弥生初期の末ころまで、出雲王朝の支配する半島南岸部そして壱岐・対馬を通って筑紫あたりまでを指していたようです。そして弥生中期に入ってそれまで出雲の第一の臣であった壱岐・対馬など島嶼にいた海人族は、いち早く得た銅矛・銅剣などの金属製の武器を背景に出雲に国譲りを迫り、筑紫への侵略を敢行して成功しました。それは、大陸でそれまでの宗主であった東周を秦が滅ぼしたBC249年、あるいは秦が残る諸侯を滅ぼして全土を統一したBC221年からそう隔たらないころ…、BC200年前後…と考えてもそんなに的外れではないと考えます。海人族の巫女にして女酋であった天照(アマテル)が、大陸でもそうならわが国でも…と考えてもおかしくはないでしょう。
そして弥生時代中期から後期にかけて、出雲・淡路を東限とした銅矛・銅剣の祭祀圏と、出雲・淡路を西限とした銅鐸祭祀圏があったことはご承知の通りです。出雲・淡路は、どちらの祭祀圏にも含まれていたようです。弥生時代というのはこれまで、約六百年ほど続きBC300年からAD300年ほどにあて、これを三分して初期・中期・後期と呼んでいました。しかしこれもあくまで「仮説」であったわけで、近頃弥生の初めをBC800年ころとし終わりを百年ほど繰り上げてAD200年ころ…とする説も出されました。このような時代区分はまだ定説化していないようですから、わたしのこのブログではできるだけ西暦で示すようにします。その根拠も、できるだけ納得いただけるようにして示しましょう。あくまで推測ですが、天照の孫の邇邇芸が赤子のとき筑紫侵略に成功し、成長して筑紫(の北岸あたり)を統治し、子をなし亡くなったときをBC150年ころ…としましょう。その子山幸彦またの名を穂穂手見は五百八十年統治したといいますから、実際は二百九十年…筑紫王穂穂手見が三十代から二十代続いたのです。二世紀中ごろまでの出雲ー筑紫の歴史を鳥瞰してみました。
 初めのころの女王と思われる人の筑紫の北半分ほどを征服する話が、神功(「紀」は書紀)の初めのところにあります。紹介しましょう。岩波書紀のp332です。
<また荷持田村(のとりたふれ、甘木市秋月町野鳥か…とされる)に、羽白熊鷲といふ者あり。その人となり、強く健(こは)し。また身に翼ありて、よく飛びて高く翔る。ここを以って、皇命に従わず。つねに人民をかすむ。…皇后、熊鷲を撃たむと欲して、橿日(かしひ、香椎)宮より松峽(まつをの、朝倉郡三輪町栗田か…とされる)宮に遷りたまふ。時につむじ風たちまちに起りて、御笠(みかさ)ふけおとされぬ。その所を号(なづ)けて御笠といふ。…層増岐野(そそきの、怡土郡雷山とされるが、次ぎに夜須にかかわる地名説話があるので夜須あたりか)に至りて、即ち兵を起こして羽白熊鷲を撃ちて滅(ころ)しつ。左右に謂(かた)りて曰く、「熊鷲を取り得つ。我が心、即ち安し」とのたまふ。故、その所を号けて安(夜須町あたりか、そこに安野もある)といふ。(後略)>
この神功皇后は実在が不確かな人ですが、神功記(「記」は古事記)では新羅征伐をしたことや正当な後継者に反逆したことなどが記されています。しかし神功紀では、このように翼を持ち高く翔る力のある羽白熊鷲を撃つ神話的な話(恐らく筑紫の史書「日本旧記」からの盗用)、新羅征伐や反乱の話(話の筋立ては記と同じ)、それに加えて三世紀の魏志倭人伝を引用(孫引きか?)して筑紫の女王卑弥呼・壱与の魏および西晋への貢献を記し(慎重に名を伏せてある)、百済との国交開始の話を(恐らく百済の史書「百済記」や「日本旧記」を盗用して)入れてあるのです。古田先生の云われる「橿日の女王」の羽白熊鷲討伐譚は筑紫初期の穂穂手見の事績でしょうし、六十六年条「この年、晋の武帝の泰始二年(266年)…」で始まる記事は倭人伝にある壱与の貢献を入れたものです。このように「日本書紀」では紀元前であろう話から四世紀の記事まで、ほぼ四百年にわたる話を「神功皇后」という人物の中に入れているのです。どうも胡散臭い!
 これから見ると「古事記」は、若御毛沼や配下の久米衆が東侵時に持ってきたあるいは覚えていた一つの話からなる「出雲ー筑紫にかかわる神話」を伝承させて来た…といえそうです。それに比べて「書紀」の神話は、同じような伝承と共に、後に(恐らくは筑紫滅亡後に)手に入れたおびただしい異説も記載してある史書も取り入れ、多いところでは十一種の一書(あるふみ)を併記しています。そして「神武紀」以降、つまり若御毛沼が大和の片隅橿原で自立した後は、一書群はぴったりと無くなるのです。ですから「古事記」は文学的…といわれる理由は、ひとえに伝承が素朴な姿を示しているからでしょう。八世紀(712年)に書かれたものですから記述中に「天皇」という称号は現れますが、「神武」とか「崇神」などの漢風諡号(しごう、おくりな)はありません。しかし日本書紀は「神武紀」以降、百済史料といわれる「百済記」「百済新撰」「百済本紀」など、また雄略紀二十一年条にひょっこりと顔を出す(恐らく筑紫王朝の史書)「日本旧記」の記事を取り入れて…いや盗用して、注記としたりあるいは本文化して「記」にはない記事で満たしています。なぜこのような手段をとったのか…、この答えは古田先生によれば、「古よりこの列島は近畿天皇家が統治されてきており、大陸王朝との交流も百済など半島諸国とのかかわりも、すべて近畿天皇家によるものである…という主張をせんがため…」といわれます。即ち「万世一系」の、イデオロギーの書なのです。ですから「古事記」は712年に上梓されても、720年に「日本書紀」が出来るや世に現れざるべき書「禁書」として、偶然見出される中世まで隠されたのです。「古事記」の成立の話は、次の史書「続日本紀」に何も記されていません。
取り留めのない話になりましたが、またすこし寄り道しました。ご勘弁ください。