やさしい古代史

古田武彦氏の仮説に基づいて、もやのかかったような古代史を解きほぐしていこうというものです。

天孫降臨

2006-10-21 16:42:27 | 古代史
 前回で「天の…」という亦の名を持つ島々(国々)が、海人族がまだ出雲の第一の家来であったころの領域であった…ことを述べました。そして第一の家来が、出雲王朝に権力の譲渡を迫った…、これが「国譲り」神話の根幹であった…ことも述べました。でも今の若い方は、「国生み神話」とか「国譲り、また天孫降臨(てんそんこうりん)」神話などというものをご存じないのではないでしょうか(わたしのように65以上の方は、あるいは…)。
しかしやはり、これら神話は学校で教える必要があると思います。小学校のときには、因幡(いなば)の白ウサギとか山幸彦と豊玉姫の話などの素朴なおとぎ話ではどうでしょう。中学になれば、国生みとか天孫降臨、また神武東進の話とか範囲を拡げて…。高校では、これらを科学的に分析した授業をしてもらいたいものです。そうすれば長じても日本に誇りを持ち日本の歴史に造詣が深くなり、日本人として堂々たる国際人が育つのではないでしょうか。今朝の新聞によれば、文部科学大臣が「日本史を必須科目に…」とおっしゃったとか…。えっと驚きました。人格形成の時期に、日本史が選択科目だったとは…。ぜひ実現させてください。
 さて初め天照大御神は子の天の忍穂耳命を葦原の中つ国に遣わすつもりだったのですが、出雲軍との戦の間に孫の天津日高日子(あまつひたかひこ、対馬の北端に「比田勝」という地がある。そこの長官…の意か)番能(ほの)邇邇芸命(ににぎのみこと)が生まれたのです。そこで急遽予定変更して、孫を遣わすことにしました。岩波古事記、p127です。
<…邇邇芸命にみことおほせて、「この豊葦原の水穂の国は、汝知らさむ国ぞと言よさしたまふ。故、命のまに見天降るべし」とのりたまふ。>
そして道案内として、猿田毘古(さるたひこ)の神が自ら仕えるのですが、筑紫に残る伝承(神社などの踊りなど)によれば邇邇芸たちに抵抗する神様…ということのようです。さていよいよ供を連れて天降りします。
<ここに天児屋命(あめのこやねのみこと)・布刀玉(ふとたまの)命・天宇受売(あめのうずめの)命・伊斯許理度売(いしごりどめの)命・玉祖(たまのやの)命、併せて五伴緒(いつとものを)を分かち加えて、天降したまひき。ここにそのをきし(招きし)八尺(やさか)の勾玉(まがたま)・鏡・また草那芸剣(くさなぎのつるぎ)、また常世思金(とこよのおもひかねの)神・手力男(たぢからをの)神・天石門別(あめのいわとわけの)神を副へたまひて、詔(の)りたまひしく、(後略)…>
それぞれの職制を持つ五伴緒、政治的側近や近衛軍的性格の三人の神、そして王権のシンボルである三種の神器「玉・鏡・剣」とともに降しました。この三種の神器は、弥生時代の北部九州では多く出土するのですが、大和など関西では古墳時代にならないと出土しないことは、皆さんご承知のとおりです。
さていよいよ、天降りの場面です。p129です。
<故ここに…邇邇芸命に詔りたまひて、天の石位(いわくら)を離れ(壱岐・対馬の高天の原を出立し…でしょう)、天の八重多那雲(やえたなくも)を押し分けて(雲になぞらえていますが、玄界灘の波を蹴立てて…の意でしょう)、いつのちわきちわきて(堂々と波間を分けて…でしょう)天の浮橋にうきじまりそりたたして(注ではなかなか難解とあって意味を取りかねていますが、古田先生は船から陸に渡す歩橋のことで、ついに上陸…という感慨で橋の上に身を反らせているリアルな描写といわれています)、竺紫(ちくし)の日向(ひなた)の高千穂の久士布流多気(くしふるたけ)に天降りまさしめき。(中略)ここに詔りたまひて、「ここは、韓国(からくに)に向かいて真来通り、笠沙(かささ)の御前(みまえ)にして、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり。故、ここはいとよき地」と詔りたまひて、底つ岩根に宮柱ふとしりて、高天の原に氷椽(ひぎ)たかしりて坐(ま)しき。>
すこし長い引用でしたが、高天の原を「天空 heavenn」としている通説としては、上陸するまでの解釈も支離滅裂となって、神話は造り話である…の根拠としています。上陸した「竺紫」を九州島全体とし、「日向の高千穂の…」から天から日向(ひゅうが、宮崎県)の高千穂連山に降りてきた…としています。そこには標高1700mの韓国岳もありますしね、久士布流岳もどれかを昔そう言っていたのだろう…と。そして言われた「韓国に向かい…」も意味がわからず、本居宣長の「古事記伝」では「カラ国=空虚国」として今に至っているようです。岩波古事記では、韓国はやはり半島の韓国だろう…としていますが。そして「笠沙」は、鹿児島県野間半島の「笠沙」であろう…と。しかし古田先生は、「竺紫」は福岡県を指し、古事記においては春日・太宰府あたりを指すときには「筑紫」と書き分けている…とされました。ですから「日向」は「ひゅうが」ではなく「ひなた」と読み、福岡市西区と前原市の境にある「高祖連山・日向峠・日向川」あたりである…とされました。黒田長政文書に、高祖連山に「日向山、くしふる山」が現存していたことを突き止められたのです。「高千穂の」は固有名詞ではなく、高祖連山の形容詞だったのです。だからくしふる岳に登って見れば、自然に「ここは海の向こうの韓国から真っ直ぐ来れる所であり、笠沙つまり御笠山(いまの宝満山)や御笠川を前にした地だ…」と言葉が出てくるのです。高祖山で北を臨んだ左には征服した菜畑縄文水田や曲田水田、そして右には板付水田が望めます。竺紫に上陸し出雲の支配地を征服した邇邇芸ら一行の胸の高ぶりは、如何ばかりだったでしょうか。
 「天孫降臨」神話とは、壱岐・対馬の高天の原の海人族がもと出雲の地であった竺紫を征服した史実をベースにしたお話だったのです。因みに九州の考古学者の間で、「初末中初」とよくいわれるそうです。意味するところは、「弥生初期末から中期初頭に、時代区分としてはBC200年前後、北部九州から出土する遺物の様相ががらりと変わる…」ということだそうです。例えば、「三種の神器」が出土し始めます。板付などの縄文水田が廃れ、吉野ヶ里のように川のそばの湿地帯に弥生水田が営まれ始めます。糸島半島東付け根にある今宿産の石斧の変わりに、銅器の分布が始まる…などのようです。いかがでしたか、天孫降臨…。ではまた…。