エウアンゲリオン

新約聖書研究は四福音書と使徒言行録が完了しました。
新たに、ショート・メッセージで信仰を育み励ましを具えます。

光り輝く者

2024-06-17 | メッセージ

詩編37:1-9 
 
「悪をなす者に怒りを燃やすな」に始まり、再び「怒りを燃やすな」と繰り返されるようになる、詩の一部に注目します。詩全体は、この「悪しき者」について言及を続け、そこから「正しき者」が救い出されることを繰り返します。その初めが、怒りの停止なのです。詩人はダビデだとされていますが、40節にわたり繰り返されるのは「悪しき者」です。
 
ある意味で、「悪しき者」に囚われているわけです。他方、「主に望みを置く者」でありたいという願いがあり、それの裏返しである、とも言えます。「主を喜びとせよ」と、自らに言い聞かせているかのようです。「地に住み、真実を育め」ばよいのです。そうすれば「地を受け継ぐ」ことになるでしょう。詩人はこうした心理をもっています。
 
その心理の内でこそ、次の有名なフレーズは活かされます。「あなたの道を主に任せよ。/主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる」という節には、昔から多くの人が励まされてきました。己れが、と意気込んでしまうのが、少しばかり知識を得た者の陥りがちな溝です。自分でなんとかできると思い、なんとかしなければならないと思い込むのです。
 
そしていつしか、自分をこそ誇るようになります。失敗しても逃げ込む場所を予め備えるなど、巧妙です。しかし人の道は主の手にある、そこから始めるものだ、と詩人は自らを戒めるかのように言います。それは自分では何もしない、ということを意味するものではありません。むしろ、主への信頼がそこにはあります。
 
主の思いと自らの考えが一致すればよい、と思います。主が成し遂げることを我が心とできたなら、幸いなのです。さらに「主はあなたの正義を光のように/あなたの公正を真昼のように輝かす」と続きますが、これを自分に当てはめて考えると、私たちは少しばかり恥ずかしい気持ちにならないでしょうか。そんなに自分は輝くはずがない、と。
 
どこに私の正義があるのでしょう。私は果たして公正なのでしょうか。そんなものありません。私は断じて公正な者ではありません。もしもそれがあるとすれば、それはただ、神との関係が結ばれているところにある、というくらいしか答えられません。私の栄光ではなく、神から輝く、神の栄光が、私を照らしているだけなのです。


あなたの道を主に任せよ。
主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。
主はあなたの正義を光のように
あなたの公正を真昼のように輝かす。(詩編37:5-6)

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