エウアンゲリオン

新約聖書研究は四福音書と使徒言行録が完了しました。
新たに、ショート・メッセージで信仰を育み励ましを具えます。

「わたしの小羊を飼いなさい」(ヨハネ21:15)

2010-01-12 | ヨハネによる福音書
 必要な出来事をてきぱきと紹介するかのように、次はペトロの権威に関わる場面です。
 新共同訳はやはり唐突に始めますが、「ところで」のような接続詞が原文には置かれています。食事が終わったとき、イエスが、「シモン・ペトロ」に「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」(ヨハネ21:15)と問いかけます。
 イエスが、ここでペトロという名で呼んでいない点が気になります。「ヨハネの子シモン」という呼び方は、最初にペトロという名をつけた場面のほかでは、ここが初めてです。共観福音書にもないのです。ペトロに権威を授ける目的があったとしても、マタイのように岩であることを強調するのではなくて、ヨハネの福音書なりの仕方で授けようとしているかのようです。しかも、元来のヨハネは、ペトロの役割を、暗示的に要人だとの了解は外していないにせよ、さして大きく取り上げようと言う意図が見られませんでした。この第二ヨハネというか、ヨハネの補遺をなした人物は、ペトロの影響をやはり重要として位置づける必要があると判断したのではないでしょうか。しかも、それは岩としてではないというのです。
 イエスの問いかけは、「この人たち以上にわたしを愛しているか」というものでした。代名詞なので物ともとれまずが、やはり人との比較とすべきでしょう。ただ、多少の曖昧さが伴っており、「この人たちがわたしを愛するのと比べてあなたはわたしをそれ以上に」なのか「この人たちをあなたが愛するのと比べてあなたはわたしをそれ以上に」なのか、両義的な語法がとられています。通常読むならば、前者で理解すべきだろうとは思います。
 ヨハネは、「ペトロ」と指しながらその返事を「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」(ヨハネ21:15)と描きます。イエスが、神が人を愛する語「アガペー」を使って「愛するか」と尋ねたのに対して、ペトロは友のように愛する語、あるいは岩波訳が「ほれこむ」と訳出している「フィロー」を使って「愛します」と答えます。
 一般的に、最近はこの語の区別をつける必要はない、と言われています。重く見過ぎだという反省はあるとしても、聖書の言葉がそう軽々しく使い分けられているものではない、という立場に立つならば、ここに一定の意図があるものと考えたいところです。
 イエスはこれに対して「わたしの小羊を飼いなさい」(ヨハネ21:15)と言います。今までと同様にこれからも、という気持ちも含まれているようです。ペトロに、人々を導く指導者としての地位を授けて権威を与えたことを証拠立てます。「飼う」は元来、餌を与えるという意味の言葉です。もちろん、それは広く飼うこと一般を意味しますが、この語感には注意しましょう。いましがた、食事を終えたのです。何千人にもパンや魚を渡した奇蹟を想起させた直後の出来事なのです。今食事をあのときのようにしたではないか、そのようにペトロよ、人々の生活を守り導く役割を果たすのです、と言っているかのようです。
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