エウアンゲリオン

新約聖書研究は四福音書と使徒言行録が完了しました。
新たに、ショート・メッセージで信仰を育み励ましを具えます。

主を賛美する者の立つところ

2024-06-11 | メッセージ

詩編115:1-18 
 
聖書は時折、偶像批判をします。揶揄することもあります。しかし、偶像を単に見下しているのではないと思います。その先に、心の中に納めておくべき大切なことが控えています。人はいつも、形あるものを以て神として立てないと、人間の気持ちが和らぐことがなかったのです。ただ、イスラエルの神は、そうした願望を否定します。
 
一切、見える形で神があるべきだ、という考えを崩します。見えないところに、見えないが故に、この主は神であるのです。見えないが故に、この信ずる民の惨めさを理由に。神が貶められることもありません。見える人間の側の不始末がいけないのです。不信仰の罪が人間にあるから、民は不幸な目に遭い、歴史の重荷を背負わされたのです。
 
形ある像を造り、それを神と頼る人間については、実のところ何もできないその偶像が、実はその人間の状態を表していることになります。イスラエルが信頼するのは、形に頼るようなお方ではありません。主を畏れ、主を信頼せよ。助けであり、楯であるこの主が共にいてくださいます。詩人は「彼らの助け、彼らの楯」と繰り返します。
 
この「彼ら」とは誰でしょうか。読み取れるとすれば、「イスラエル」か「アロンの家」か「主を畏れる人々」でしょうか。あるいは、そのどれでもない、と詩人は言うのでしようか。否「私たち」を主が思い起こして、こうした者たちを「祝福してくださるように」と重ねています。詩人は、少しばかり特殊ではありますが、イスラエルの一員なのです。
 
恐らく、アロンの家の一員でもあるはずだ。イスラエルとは、これからの子孫もすべて含む形で言及されているものなのでしょう。地を与えられた、というフレーズは、新約聖書の徒にとっては、神の国や天国ではないのか、と拍子抜けするかもしれません。でも、神の国の地を与えられたのは確かです。イスラエルは、そこに居場所をもつ民なのです。
 
異邦人たる私たちも、いえ、私たちだからこそ、主を賛美するために、いまここにいます。主を称えるために、ここにいます。これを忘れてはなりません。死者は賛美できません。沈黙するしかない者は、賛美をしないでしょう。私たちは、このようにして生かされています。詩人は「死なない」とまでは言っていませんが、「とこしえ」を知っています。


主が私たちを思い起こし
祝福してくださるように。
イスラエルの家を祝福し
アロンの家を祝福してくださるように。
主を畏れる人々を祝福してくださるように
小さな人たちも大きな人たちと共に。(詩編115:12-13)

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