黙示録22:1-5
新天地が与えられます。エルサレムは、すっかり新しい都として姿を現します。それは恰も、創世のときの楽園のようでもあります。「命の水の川」があります。それは「神と小羊の玉座から流れ出て」います。両岸に「命の木」が立っています。日本語の表現だと命の木が複数あるように思わせますが、実はこの「木」の語は単数形です。
創世記において、園の中央の木の実を食べてはならぬ、とされていましたが、それは善悪の知識の木(2:17)であって、命の木ではありませんでした。最初は禁じられてはいなかったのですが、楽園追放の際には、命の木に至る道は封じられました(3:24)。命の木は1本でした。都の大通りの中央を流れる川の両岸にあるという命の木は複数に見えます。
どうして単数形なのでしょう。黒崎幸吉氏は、集合名詞として使われている、と説明しています。創世記の命の木が1本であったことを思い起こさせるために単数形なのだ、という説明をしている人もいました。田川健三氏は、「ここにも一本の木、あそこにも一本の木」というように考えて、単数形にしたのだろうと推測しています。
エゼキエル47:12をモチーフにしているのは明らかで、そこには「川のほとり、その両岸」に枯れない葉をもち毎月実をつける木が描かれています。その木も単数形です。しかし田川氏は「両岸」との訳は不適切であり、黙示録においても「そこにもここにも」という副詞なのだ、と理解します。創世記の木とは別物だと考えている、と解釈しています。
田川氏の訳で22:2は、「そしてその街の大通りと川の間には、そこにもここにも、十二の実を実らす生命の木があって、月ごとにその実をもたらすのである」としています。川の流れと大通りの関係を修正しています。命の木の葉は諸民族の病を癒やし、呪われるべきものはなくなるとし、額に神の名が刻まれている神の僕たちがやがて登場します。
この僕たちは、神の顔を仰ぎ見て礼拝します。それは当時の常識を覆すものです。夜のない町を神自身が光として照らします。永遠の永遠へと王なる支配を、救われた民が遂行します。黙示録の主文はこうして結ばれます。ヨハネに与えられた幻は創世の風景を回復するよりも豊かなものでありました。人が招いた混乱は、こうして解決されるのでした。
川は、都の大通りの中央を流れ、
その両岸には命の木があって、
年に十二回実を結び、毎月実を実らせる。
その木の葉は諸国の民の病を癒やす。(黙示録22:2)