詩編130:1-8
「深い淵の底からあなたに叫びます」というところから始まる詩は、暗いものを予感させます。この声を聞いてください、祈りを聞いてください、とたたみかける言葉を聞くと、苦しくなってきます。それは、敵の攻撃によるものでしょうか。自分の罪責感覚の現れなのでしょうか。ここから細かな事情の説明が続く詩もたくさんあります。
この詩では、どうやら後者のタイプのようです。主が「過ちに目を留めるなら」、人間はそれに耐えられません、と言います。人間が過ちの非を逃れられるはずがないのです。人間は罪ある者なのだから、それなしでいられはしないのです。しかし、恰も愚痴をこぼすかのように敵を呪い続けても、どこか空しいものです。
ねちねちと自分を責めても、まるで同情を引くかのようです。この詩は「都に上る歌」が並ぶ中の一つです。心は神殿へ向いています。神への信仰が第一のものとなります。「主よ」との呼びかけることはもちろんですが、「しかし、赦しはあなたのもとにあります」から、神殿へ行く喜びに包まれ始めます。「私は主を望みます」と。
完全に魂はそこへ結びつきます。しかも「主の言葉を待ち望みます」というように、主の臨在はその「言葉」の中に見つめられています。いま「言葉」への信頼が薄い時代です。人を欺く言葉が蔓延し、まず疑うことから始めなければ、取り返しのつかない事態へ陥ることも度々あるような世相です。聖書の言葉は、そこへ力をもたらします。
聖書の言葉は、人々の愚かさを指摘すると共に、神への信頼を知らせるものです。これを待ち望むことが、そのまま信仰と呼べるものとなります。朝を待つ夜回りの喩えがここにあります。生き生きとした喩えは、その状態を実感させてくれます。そうして詩人は、全イスラエルへ向けて呼びかけるのです。
主を見よ。慈しみと贖いは、主のもとにこそあるのです。イスラエルは、大きな過ちの中にあるのでした。しかし、だからこそ、と言うべきでしょうが、主の赦しと贖いが有効なのであり、共に主を信じ、共に主に仕えよう、と呼びかけるのです。深い淵の底にいた詩人だからこそ、すべての人に呼びかけることができた点を忘れないようにしたいものです。
私は主を望みます。
私の魂は望みます。
主の言葉を待ち望みます。(詩編130:5)