エウアンゲリオン

新約聖書研究は四福音書と使徒言行録が完了しました。
新たに、ショート・メッセージで信仰を育み励ましを具えます。

主は王となられた

2024-06-05 | メッセージ

詩編99:1-9 
 
「主は王となられた」から始まる詩は、主の偉大さを次々と褒め称えています。ある意味で、詩編の詩としてはあたりまえのことだと思います。公正と正義を主は愛される、というのも不思議なことではありません。詩編にはよくあることです。でもここで、モーセとアロンの名が現れ、対句でサムエルが登場すると、少し様相が変わります。
 
律法をもたらした祭司と、士師と預言者との間をつなぐ人物が並ぶのです。旧約の全体を象徴するかのようです。主がまず彼らに語りかけ、それから、彼らがイスラエルの民に語り伝える、という構図がここにあります。聖書は時に律法と預言者に代表されますが、それは神の言葉を受けて、それを人々に告げる、というのがそのあり方に違いありません。
 
サムエルのことは、預言者であるというよりも、「主の名を呼ぶ者」だと言っています。モーセもサムエルも、主に呼びかけたのです。主の名を呼び、それから主に問うたのです。それに対して主は応えます。雲の柱の内から声を渡し、モーセに定めと掟を示しました。しかし人々はそれを守れませんでした。神は、それを赦すしかありませんでした。
 
もしも赦さなければ、人々は罰されるだけで、存続できませんでした。「しかし、彼らの悪行には報いる方」であるというわけで、赦す神ではありますが、その赦しを超える悪というものが存在すると考えるべきでしょうか。なんでもすべて赦すなどと神を甘く見る者には、厳しく対処するのでしょう。だから、この神は「聖なる方」なのです。
 
ところで、詩を作ったのはダビデである、とは記されてはおりませんが、少なくともサムエルという人物を知っています。サムエルは、ダビデより先にサウルを王として任命し、イスラエルの王制を始めた人物です。預言者の走りでもあります。サムエルが人間の王を立てた最初であることを、この詩人はよく知っています。
 
その王が、イスラエル、そしてユダの国に連綿と受け継がれていったことも、分かっているはずだ。その詩人が「主は王となられた」と、この詩の初めに掲げている点にもう一度注目しましょう。サムエルは、ペリシテ人からの脅威に耐えかねて、イスラエルの民が王を要求することに悩みました。しかしイスラエルの真の王は、人ではなく主だったのです。


主は王となられた。
もろもろの民は震えよ。
主はケルビムの上に座しておられる。
地は揺れよ。(詩編99:1)

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