エウアンゲリオン

新約聖書研究は四福音書と使徒言行録が完了しました。
新たに、ショート・メッセージで信仰を育み励ましを具えます。

悪しき者を描く理由

2024-06-19 | メッセージ

詩編37:34-40 
 
詩編37編は、最初の文字をアルファベット順に揃えた技巧的な詩です。けれども、技巧的だからと言って、そこに心が詠まれていない、などというはずがありません。古今和歌集には和歌の技巧がたっぷり用いられていますが、それは深い心を表現しています。悪しき者をとことん落とすことで、逆に正しき者を際立たせる趣向をもっていると言えます。
 
しかしいつまでも悪しき者に拘うのは、得策ではありません。もうそろそろ、それはどうでもよいことだ、と置き去りにしてもよい頃だと詩人は覚ります。もうよいではないか。あとは主がお決めになる。私が裁きを下す必要はないし、そんなことができるわけがありません。そこに執着するならば、「人を裁くな」に抵触することにもなりかねません。
 
「主に望みを置き」から始まるのですから、目を高く上げましょう。希望を見つめましょう。自分が正しい、と自分が決めることはできません。主が「高く上げて地を受け継がせてくださる」のです。悪しき者は、「見よ、彼はいなかった」という程度の存在です。見えるのは、そして見るべきは「全き人」であり、「まっすぐな人」です。
 
それはまた、「平和の人」とも表現されています。これは、具体的な人物像があります。イエスです。「この人を見よ」とピラトが口走ったのは、確かに一つの預言でした。ピラトは気づかなくとも、神の真理を言い当てるはたらきを有していました。ダビデはこの祝福を「あなた」に向けています。あるいは「彼ら」とも呼び、その救いを告げます。
 
つまり、二人称から三人称の形へと変化しつつ、さかんに祝福を呼びかけているのです。では、そこに一人称は含まれていないのでしょうか。私が私自身に対して、祝福をもちかけるというのは、確かに不自然です。けれども、主は私を救う、という確信をもつことは、決して傲慢を表していることにはならないように思えます。
 
それでも、私と神との差し向かいの問いの形は、ここでは外されています。私は、ふと思います。詩人は、点検しているのではないか、と。これだけ並べる「悪しき者」を、すべて他人や敵へぶつけるだけに終始せず、この「悪しき者」に私がなっていないか、なろうとしていないか、省みているのです。「彼はいなかった」ということにならないように。


主は彼らを助け、救い出してくださる。
主は悪しき者から助け出し、救ってくださる。
彼らが主に逃れたから。(詩編37:40)

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