創世記2;15-24
「善悪の知識の木からは、取って食べてはいけない」という命令が、この後の「原罪」と呼ばれる罪の物語の前提となっています。また、続いて「人が独りでいるのは良くない」として、「助け手」が創造されるところは、現代出会った2人を支える言葉となるでしょうか。人が生きるのを教える重要な神の言葉が、ここから次々と現れます。
「男は父母を離れて妻と結ばれ、二人は一体となる」ことが、2人の結びつきのどんなに支えとなるでしょうか。夫婦生活の長い人も、顧みるべきでしょう。こうした派手な事柄の陰に、「エデンの園」に人が連れて来られたという事実に、もっと注目してよいのではないでしょうか。今回私は、その点に提言すべく、ここを読んでいくことにします。
これらの出来事は、エデンの園だからこそありえた、と気づかされたのです。それは、人間にとり誰もに必須のことであるのか、それともエデンを経験したところでのみ付されたことであるのか、私たちはまだ定まった見解をもっていないのではないでしょうか。ひとはエデンに住みました。それは「そこを耕し、守るため」だったのでした。
しかし、そのことはエデンを追われた後にも、継続するべき働きだったのでしょうか。耕すのはまだよいとしても、エデンを守るということは、もうできなくなるのです。となると、エデンを守れなかったことが、人の失策として刻印され続けることになったのでしょうか。これらの命令や目的は、その後どう展開してゆくことになったのでしょうか。
私たちは、聞き流してよいようには思えません。助け手が約束されて、それが実現するまでに間がありました。先に獣や鳥が土から造られ、ひとのところに連れて来られます。神は、「人がそれぞれをどのように名付けるか見る」ようにしました。人間の、動物に対する決定的な権威を見ます。但し動物の中に「助け手」は見出せませんでした。
人は人と共に、互いを利用するためではなく、協力して支え合い、助け合うためにいるものだとします。エデンを追われたならば、そこは殺伐とした罪の世界かもしれません。けれども、エデンという神の国、神の支配がどこかにあること、きっとそれが来ることを、信じそのために仕えるという、守り方を担っていると考えてみたいのです。
神である主は、エデンの園に人を連れて来て、
そこに住まわせた。
そこを耕し、守るためであった。(創世記2:15)