詩編8:2-10
「人とは何者なのか」と詩人は問います。否、問うている、というわけではありません。これは驚きでしょう。主が心に留め、顧みるとはどういうことか、と驚いているのです。つまり、そんな価値などないはずなのに、どうして特別に計らってくれるのか、不思議なのです。人間が他の被造物と本質的に、立場的に変わらないという前提に基づいています。
神は天を造り、月や星を置きました。地上には動物がいて、空には鳥がいます。海には魚がいて、全地に主の御名が強く轟いています。その中で人間には、神を知る者として特別な役割を与えられたのです。この詩を詠んだのはダビデだといいますが、イスラエルの国を王国として確立した故に、人間の政治や権力にばかり関心があるわけではありません。
自然存在としてそこにおける人間の位置というものに、強い関心があるような気がします。それはもしかすると、ダビデ自身がこんなに小さな者であるのに、大きな権力が与えられたことへの驚きであったのかもしません。「人の子とは何者なのか」という言葉は、そのような自分の立ち位置を改めて感慨深く思ってのことではないか、とも思われます。
ここで詩人は、イスラエルを見渡して言います。「幼子と乳飲み子の口によって砦を築かれた」とは、イスラエル、つまりはエルサレムのことを指しているのでしょう。敵を何か念頭に置いているのも明らかです。ダビデが手にしているのは「天上の威厳」の一部です。「栄光と誉れの冠」を受けた王たる自分のことを意識しているようです。
委ねられた自然は、人間も属する被造物ですが、カナンの地を治める自身の立場については不思議なことだと驚いているように見えます。「主よ、我らの主よ/御名は全地でいかに力強いことか」で始まり、また結ぶこの詩において、当然主を称え賛歌を贈っているのですが、その主に見出された自分の存在をも、静かに見つめていることになります。
主よ、我らの主よ
御名は全地でいかに力強いことか。(詩編8:2,10)