しかしまた、ここでイエスが手を挙げて祝福されたというのも、議論されることがあります。祝福において手を挙げるということが他に見られないのです。祝福は手を置くものでした。これを按手といいます。しかも、ルカ自身がこのようにして「手を挙げる」の意味でこの語を他に用いていないのです。ただし、ルカは、目を上げたり、声を上げたりするときにはこの語を用いています。もしかすると、教会の祈り方や祝福の仕方の中で、手を挙げることも行われ始めていたのかもしれません。あるいは、ユダヤ人は神への祈りののときに、手を挙げて祈ることをするときがあります。それを意味しているのかもしれません。本文に戻りますと、このような様子であった、というルカの調子で最後も締めにかかり、「そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた」(ルカ24:51)といよいよイエスの姿が見えなくなります。エマオでも、目の前でイエスがいなくなりました。しかしそれは昇天ではありませんでした。となればあのときの消え方は何だったのか、よけいに気になります。ちゃんと肉体を伴っていたのに、消えたのです。ここでは、イエスが天に運ばれていったという描写がしてあります。ヨハネからと思しき部分を欠いている写本には、この天に上げられたという表現がないといいます。ただし、ヨハネの福音書には該当個所はありません。もし天に運ばれていかなかったら、昇天日という私たちの呼び名を検討する必要が出てくるでしょう。イエスは私たちから一旦離れた、というのがさしあたり動かしがたい事実です。しかし、神は私たちから遠ざかったのではありません。むしろ次の聖霊降臨以来、つねにそばにいる、共にいるのです。イエスの手が挙がり、そしてイエス自身、天上に帰ります。イエスの肉体はこのようにして地上に残らなくなります。復活はしたのですが。そして、エリヤのように天に行ったとされます。あるいは、エノクのように、神の許に、という理解も可能でしょうか。