思えばイエスは、復活してあちこちで姿を現しているのかもしれません。しかし無数に、というわけでもないでしょう。マグダラのマリアに現れたとか、ペトロに現れたとか、そういうのはそれなりによく理解できます。しかし、このエマオの記事における二人に現れたのは、どうしてでしょうか。それがまさにエウセビオスの聞き知っていたように、イエスの親族であるから、という説の真実性のひとつの理由になっているようにさえ思われます。しかしあまり詮索せず、今はこの説明に対するイエスの反応を急ぎましょう。そして、という語でつながって、「そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか」」(ルカ24:25-26)と、ここからたくさんのことを語るイエスの言葉の最初の部分が紹介されます。実に愚かなことだ、とイエスは嘆いています。かなりきつい言葉です。信じられない者たちを、心が鈍いとまで言い放っています。さて、このときのイエスの表情や口ぶりはどうだったでしょうか。もちろん想像です。厳しい言い方だったでしょうか。私ははっきりした口調で、厳しさがあったと思います。しかし、目は笑っていたかもしれない、と想像します。博多で言うなら、「ばかたれ」とか「ばかちん」とか言うのは、相手に対する親しさをこめての言葉です。愛を以て忠告するようなときに使います。そのようにイエスのこの言葉も、「ばかたれが!」と私には聞こえるのです。キリストは、苦しみから栄光へという道筋を、何度これまで説明してきたか、お前の耳は何のためにあるのか、と告げているかのように聞こえます。