詩編105:26-45
「主に向かって歌い、主をほめ歌え。/すべての奇しき業を語れ」(105:2)との宣言は、イスラエルの初めの歴史を振り返る発端です。そこにいま「奇しき業」を見るのです。アブラハムからヤコブ、そしてヨセフへと回想が至り、民族がエジプトで数を増やす点に目を移します。すると、次に登場するのは、モーセとアロンとなります。
二人で、エジプトの王を前にして、次々と奇蹟を起こします。これももちろん、主の奇しき業であるに外なりません。モーセが杖を使って繰り広げた異常事態を簡潔に言葉で再現すると、イスラエル民族が喜びの内に旅立つ場面を伝えます。ここにある「エジプトは民が去るのを喜んだ。/恐怖が彼らを襲っていたからである」とはどういうことでしょうか。
これは、エジプトが如何に悲惨な情況になっていたか、を裏付けています。イスラエルを留めていると、被害が益々大きくなるので、出て行ってもらうことでほっとした、ということなのでしょう。しかし、初子を打たれて悲痛な国内であったということと、どう結びつくのでしょうか。とても「喜んだ」などとは言えないのではないかと思うのですが。
荒れ野を旅するイスラエルの姿を、続いてこの詩は描きます。「主は雲を広げて覆いとし/火をもって夜を照らした」といいますが、この不思議な現象が、旧約の歴史の中で、幾度も繰り返されます。地味な風景であまり注目も検討もされませんが、イスラエルにとってひじょうに大きな出来事であり、信仰の要素であるに違いありません。
天からのパン、岩からの水は、人々の生命を保つために必要でした。食という基本だからです。雲と火は、しかし人間の命のために、そこまで必要であるようには思えません。火も、夜を照らすだけであるなら、パンと水ほどには急を要しないし、まして雲となると、その必要性が分かりません。神殿を包む、霊的な意味に専ら受け取るべきなのでしょう。
「主は民を喜びのうちに/選ばれた者たちを喜びの叫びのうちに導き出した」というのですが、今度はイスラエルの民が喜んでいます。荒れ野の旅では、民からあれこれ不満の声が挙がっていたことを、私たちはよく知っています。しかし、結果は喜びでした。そうして「主の教えに従う」ようになるべく、詩は結ばれています。
主は民を喜びのうちに
選ばれた者たちを喜びの叫びのうちに導き出した。(詩編105:43)
「主に向かって歌い、主をほめ歌え。/すべての奇しき業を語れ」(105:2)との宣言は、イスラエルの初めの歴史を振り返る発端です。そこにいま「奇しき業」を見るのです。アブラハムからヤコブ、そしてヨセフへと回想が至り、民族がエジプトで数を増やす点に目を移します。すると、次に登場するのは、モーセとアロンとなります。
二人で、エジプトの王を前にして、次々と奇蹟を起こします。これももちろん、主の奇しき業であるに外なりません。モーセが杖を使って繰り広げた異常事態を簡潔に言葉で再現すると、イスラエル民族が喜びの内に旅立つ場面を伝えます。ここにある「エジプトは民が去るのを喜んだ。/恐怖が彼らを襲っていたからである」とはどういうことでしょうか。
これは、エジプトが如何に悲惨な情況になっていたか、を裏付けています。イスラエルを留めていると、被害が益々大きくなるので、出て行ってもらうことでほっとした、ということなのでしょう。しかし、初子を打たれて悲痛な国内であったということと、どう結びつくのでしょうか。とても「喜んだ」などとは言えないのではないかと思うのですが。
荒れ野を旅するイスラエルの姿を、続いてこの詩は描きます。「主は雲を広げて覆いとし/火をもって夜を照らした」といいますが、この不思議な現象が、旧約の歴史の中で、幾度も繰り返されます。地味な風景であまり注目も検討もされませんが、イスラエルにとってひじょうに大きな出来事であり、信仰の要素であるに違いありません。
天からのパン、岩からの水は、人々の生命を保つために必要でした。食という基本だからです。雲と火は、しかし人間の命のために、そこまで必要であるようには思えません。火も、夜を照らすだけであるなら、パンと水ほどには急を要しないし、まして雲となると、その必要性が分かりません。神殿を包む、霊的な意味に専ら受け取るべきなのでしょう。
「主は民を喜びのうちに/選ばれた者たちを喜びの叫びのうちに導き出した」というのですが、今度はイスラエルの民が喜んでいます。荒れ野の旅では、民からあれこれ不満の声が挙がっていたことを、私たちはよく知っています。しかし、結果は喜びでした。そうして「主の教えに従う」ようになるべく、詩は結ばれています。
主は民を喜びのうちに
選ばれた者たちを喜びの叫びのうちに導き出した。(詩編105:43)