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エウアンゲリオン

新約聖書研究は四福音書と使徒言行録が完了しました。
新たに、ショート・メッセージで信仰を育み励ましを具えます。

空白の一日の準備

2025-04-19 | メッセージ
マタイ27:57-66 
 
安息日を迎える直前から、安息日が明けるまでの、空白の一日を追います。つまりこの間、イエスは死の中にいるわけです。御子は言(ことば)として「初めに神と共にあった」(ヨハネ1:2)とすれば、それが人として生きていたこと、そして復活後は小羊と呼ばれながらも裁きのときまで生きているのは確かだから、イエスが死んでいたのはこの期間だけです。
 
それとも、墓の中ですでに復活を果たしていないとも限らないのですが、納められるまでは遺体の姿を呈していたことは間違いありません。「アリマタヤ出身」「金持ち」との詳しい情報をもつヨセフは、「イエスの弟子」とも言われています。後の教会でも、あのヨセフさんだ、と注目されていたのではないでしょうか。
 
ピラトと会えるだけの立場にありました。神の計画が成就するには、いろいろな立場の、いろいろな役割の人が関わってくることを覚えます。一人ひとりが何かしら役立てられます。神の言葉は確かに実現するのですが、そこに人々が関係づけられてゆくのです。その関係こそが、救いの世界を構成しているのかもしれません。
 
ヨセフは「岩に掘った自分の新しい墓」を所有していました。「入り口に大きな石」を転がしておき、この間イエスと人間との間は、一旦遮断されたことになります。これは暗黒の一日であるのか、希望を育む一日となるのか、どうでしょうか。二人のこのマリアという名の女が、この墓の場所を確かに見ていました。
 
「墓に向かって座っていた」という二人の女の姿は、イエスの死と向き合っていたことを示すようにも読めます。他方、当局側では、どんな策略がまかり通っていたでしょうか。マタイ伝では、たぶん実際に言われていたことなのでしょうが、弟子たちが遺体を盗み出して復活騒ぎを自作自演していたのだ、という説の背景を描いています。
 
ユダヤ当局とピラトとが手を組んで、番兵を出していたのです。しかも後に、偽証をさせたのだ、とマタイ伝は事の裏を発いています。教会に変な噂が漂うのを防いだのでしょうか。しかしよく考えると、この番兵たちこそ、天使たちの出現の目撃者となっているのです。空白の一日、それぞれの人が、神の業の実現の準備を担っていたことになります。




マグダラのマリアともう一人のマリアとはそこに残り、
墓に向かって座っていた。(マタイ27:61)

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