ペトロ一1:13-21
パウロは当初、強い終末観をもっていました。その思いを受け継いで、パウロ亡き後、信徒たちは、さらなる終末観の継続を求めたと思われます。あるいは、なかなか訪れない終末に信仰が薄くなった教会の人々を懸念して、終末への見通しを立て直す必要を、幹部が感じたのかもしれません。けれども終末預言には、必然的にパラドックスが伴います。
それがいつ起こるかは分からない、とイエスが言いました。すると、今日起こらない予言は、明日に修正されます。これを繰り返すならば、いつか当てられることになってしまうのです。いつかは分からないという前提を壊してしまいます。いつと問うことすら止めて、私たちは備えるしかありません。心構えを強くしておくしかないのです。
緩んだ終末観は、信仰の筋を弱くします。パウロの思想を受け継ぐ形で、ペトロの名を用いることにより、権威を以て世の終わりへのメッセージを与え、教会を一つにしてゆく手紙です。「心を引き締め、身を慎み、イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みを、ひたすら待ち望みなさい」との力強い言葉から、この箇所は始まりました。
そして「聖なる者となりなさい」とレビ記の規定を、今に生きるものとして突きつけます。生活を、そこを基盤に立て直すのです。神の裁きを掲げ、「畏れをもって生活しなさい」とはつまるところ神の裁きを目の前に置け、ということに外なりません。「この地上に寄留する間、畏れをもって生活しなさい」には、襟を正される思いがします。
このとき、自分がどういうところから救われたのかを考えさせるのがよいと思います。それは「小羊のようなキリストの尊い血による」のです。天地創造の前から神と共にあったキリストが、「この終わりの時」に現れて、人により、つまり私により殺されました。けれどもそれで終わりとせず、神はキリストを復活させ、栄光を与えました。
キリストを通して私たちは、この神を信じています。ここに私たちの「信仰と希望」があります。この勧めは、過去のもの、昔話ではありません。信仰者の次元は、この時と今と、さして変わっていないのではないでしょうか。主の言葉が変わってしまったとは思えません。思えない、と告白するその者こそが、実のところキリスト者という者であるのです。
それゆえ、あなたがたは心を引き締め、身を慎み、
イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みを、
ひたすら待ち望みなさい。(ペトロ一1:13)
パウロは当初、強い終末観をもっていました。その思いを受け継いで、パウロ亡き後、信徒たちは、さらなる終末観の継続を求めたと思われます。あるいは、なかなか訪れない終末に信仰が薄くなった教会の人々を懸念して、終末への見通しを立て直す必要を、幹部が感じたのかもしれません。けれども終末預言には、必然的にパラドックスが伴います。
それがいつ起こるかは分からない、とイエスが言いました。すると、今日起こらない予言は、明日に修正されます。これを繰り返すならば、いつか当てられることになってしまうのです。いつかは分からないという前提を壊してしまいます。いつと問うことすら止めて、私たちは備えるしかありません。心構えを強くしておくしかないのです。
緩んだ終末観は、信仰の筋を弱くします。パウロの思想を受け継ぐ形で、ペトロの名を用いることにより、権威を以て世の終わりへのメッセージを与え、教会を一つにしてゆく手紙です。「心を引き締め、身を慎み、イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みを、ひたすら待ち望みなさい」との力強い言葉から、この箇所は始まりました。
そして「聖なる者となりなさい」とレビ記の規定を、今に生きるものとして突きつけます。生活を、そこを基盤に立て直すのです。神の裁きを掲げ、「畏れをもって生活しなさい」とはつまるところ神の裁きを目の前に置け、ということに外なりません。「この地上に寄留する間、畏れをもって生活しなさい」には、襟を正される思いがします。
このとき、自分がどういうところから救われたのかを考えさせるのがよいと思います。それは「小羊のようなキリストの尊い血による」のです。天地創造の前から神と共にあったキリストが、「この終わりの時」に現れて、人により、つまり私により殺されました。けれどもそれで終わりとせず、神はキリストを復活させ、栄光を与えました。
キリストを通して私たちは、この神を信じています。ここに私たちの「信仰と希望」があります。この勧めは、過去のもの、昔話ではありません。信仰者の次元は、この時と今と、さして変わっていないのではないでしょうか。主の言葉が変わってしまったとは思えません。思えない、と告白するその者こそが、実のところキリスト者という者であるのです。
それゆえ、あなたがたは心を引き締め、身を慎み、
イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みを、
ひたすら待ち望みなさい。(ペトロ一1:13)