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エウアンゲリオン

新約聖書研究は四福音書と使徒言行録が完了しました。
新たに、ショート・メッセージで信仰を育み励ましを具えます。

それぞれの動きの陰でイエスは孤独になる

2025-04-13 | メッセージ
マタイ26:1-16 
 
終末を意識したたとえ話が、幾つか語られてきたように記録されています。マタイとしては、山上の説教のように、イエスの話したことをここにまとめたのであるかもしれません。エルサレムに入り、神殿をバックにして人々に語ってきたことは、多々あったことでしょう。今それが一段落すると、ここからは行動記録が始まります。
 
これらを見ると、イエスが孤独であったに違いないことが窺われます。まず、祭司長たちや民の長老たちが動き出します。このコンビ的な呼び方が、ここまで何度挙げられてきたことでしょうか。彼らは「イエスをだまして捕らえ、殺そうと相談した」のでした。何をどう騙したのか定かではありませんが、この後ユダの登場で事態は変化します。
 
彼らは元々「祭りの間はやめておこう」と計画していたのですが、ユダが行動を起こしたために、彼らの企みは直ちに実行されるようになったのです。祭りの最中に片が付くようなことになってしまいました。ユダの登場が筋書を変えたのです。そのユダのことを先ず見ておきます。マタイは、サタンの仕業をそこには交えていないようです。
 
主の晩餐のときにサタンが入ったのではなく、「十二人の一人で、イスカリオテのユダと言う者が、祭司長たちのところへ行」ったのでした。ここまで特に目立った言動をとらなかったユダが、一躍脚光を浴びます。「引き渡せば、幾らくれますか」とは、いかにもさもしいものです。奴隷一人の額ともいえる安上がりな報酬でした。
 
この間イエスは「極めて高価な香油の入った石膏の壺」を持った一人の女から、その香油を注ぎかけられます。弟子たちはこれに憤慨します。イエスは「十字架につけられるために引き渡される」とか「私を葬る準備」とか、相当な覚悟を口にしますが、弟子たちは誰も反応を示しません。こうしてイエスの孤独がいっそう際立つことになりました。




あなたがたも知っているとおり、二日後は過越祭である。
人の子は、十字架につけられるために引き渡される。(マタイ26:2)

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