goo blog サービス終了のお知らせ 

エウアンゲリオン

新約聖書研究は四福音書と使徒言行録が完了しました。
新たに、ショート・メッセージで信仰を育み励ましを具えます。

悔い改めと文化的背景

2025-04-11 | メッセージ
使徒3:17-26 
 
足の悪い男を、神殿の門のところで立ち上がらせました。「立ち上がる」とは一種の「復活」です。当人のペトロは涼しい顔をしています。これは主の力であると知っているからです。イエスは復活した。その名による信仰が、この完全な癒やしを成し遂げた。ペトロは、ユダヤ人たちに、イエスを殺した自覚を促します。それは無知に基づくのだ、と。
 
メシアの受難は、神の計画の中の出来事でした。妙な責任感だけで片付けるべきものではありません。ただ、「悔い改めて立ち帰りなさい」とのみ命じます。でもそうすると、ユダヤ人たちは、これから向きを変えて主の方に転じなくてはならないことになりますが、そもそもここは神殿です。神の方をこれまでも向いていたのではないでしょうか。
 
日本では、特に信仰心がなくとも「仏教徒」であると自覚することがあります。信じるものが特になくても、いつの間にか「氏子」になっていることもあります。このユダヤ人たちも、少しも神について知るところがなく、単なる習俗としてのみ宗教を意識していたのでしょうか。だからちゃんと神の方を向き、生き方を変えよ、と呼びかけたのでしょうか。
 
罪の赦しなど、まるで意識することがなかったなどとは、信じ難い気がします。ペトロはモーセの例も挙げ、預言者たちが悉く、やがて来るイエス・キリストを指し示していたのだ、と告げます。ユダヤの人々は、その預言の言葉を身に受けるべく現れた民の人間ではありませんか。そうした子孫ではありませんか。あなたがたは確かにイエスを殺した。
 
そのイエスが「あなたがたを祝福して、一人一人を悪から離れさせる」ことをしました。ここで「悪」とは、主と反対の方向を向くことのをイメージさせるような気がします。ユダヤ文化の中にありながら主に背を向けていた場面です。主をそもそも知らない文化の中では、「悔い改めよ」の指令も、魂の方向転換の含意がまるで違うことになりそうです。




だから、自分の罪が拭い去られるように、
悔い改めて立ち帰りなさい。(使徒3:19)

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 変わらない終末観 | トップ | それぞれの動きの陰でイエス... »

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

メッセージ」カテゴリの最新記事